第九十九話
応接室には、静かな時間が流れていた。
陽菜は膝の上の日記を見つめたまま、小さく指先で表紙をなぞっている。
トワは急かさなかった。
レンも腕を組んだまま窓の外を見ている。
アオイは湯気の立つ麦茶をそっと陽菜の前へ置いた。
「冷める前にどうぞ。」
「……ありがとうございます。」
少しだけ笑った。
その笑顔は、まだ小学四年生らしい幼さが残っていた。
老人は日記を閉じる。
「局長。」
「少しだけ、庭を歩きませんか。」
トワは頷いた。
二人は応接室を出る。
記憶樹の葉が朝の光を受けて揺れている。
「先生。」
「陽菜ちゃんは、本当に覚えていないんでしょうか。」
老人はしばらく空を見上げていた。
「ええ。」
「ですが。」
「忘れたのではありません。」
トワは首を傾げる。
「人の心は、とても賢いのです。」
「耐えられない悲しみを。」
「自分でも気づかないように、そっと引き出しへしまうことがあります。」
「じゃあ。」
「無理に思い出させるのは……。」
老人は静かに首を横へ振る。
「それは、私たちの仕事ではありません。」
「思い出させることと。」
「思い出せるようになることは、違います。」
トワは記憶樹を見上げた。
木漏れ日が葉の隙間から降り注ぐ。
「待つことも。」
「仕事なんですね。」
「そうです。」
老人は優しく微笑んだ。
「待つことは、何もしないことではありません。」
「安心して思い出せる場所を守ることです。」
二人が応接室へ戻ると、陽菜は庭を見つめていた。
「あの木。」
「きれい。」
記憶樹を指差している。
「触ってみる?」
トワが尋ねる。
陽菜は少し迷ってから、小さく頷いた。
庭へ出る。
蝉が元気よく鳴いている。
夏草の匂い。
土の温もり。
陽菜はゆっくりと記憶樹へ近づいた。
小さな手が幹へ触れる。
何も起こらない。
光も。
風も。
奇跡も。
けれど。
陽菜は少しだけ目を細めた。
「……あったかい。」
トワも幹へ手を添える。
本当に温かい。
夏の日差しのせいではない。
人の手のぬくもりに似た優しさだった。
「この木はね。」
トワがゆっくり話す。
「思い出を集める木じゃないんだ。」
陽菜が見上げる。
「大切な思い出を。」
「安心して持っていていいよって。」
「教えてくれる木なんだと思う。」
陽菜は黙って木に寄り添った。
風が吹く。
葉がさらさらと鳴る。
「……おじいちゃん。」
誰にも向けていない声だった。
あまりにも小さな呟き。
本人さえ気づいていないような声。
トワは何も聞かなかったふりをした。
老人も。
レンも。
誰もその言葉を拾わない。
今はまだ、その一言だけで十分だった。
応接室へ戻ると、陽菜は日記を開いた。
八月三日のページ。
鉛筆を持つ。
少しだけ考えて。
そして、文字を書く代わりに、小さな絵を描いた。
一輪の紫色の花。
「文章は書けなくてもいいよ。」
トワが言う。
「今日は絵だけでも。」
陽菜は照れくさそうに笑った。
「……うん。」
白紙の本が静かに開く。
文字は現れない。
ただ、ページの隅に小さな紫の花が一輪だけ描かれた。
依頼は、まだ始まったばかり。
それでも神籍管理局は知っていた。
止まっていた時間は、もう静かに歩き始めていることを。




