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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第五章 第四部『雨音の郵便配達人』

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104/113

第104話

白い本を抱えたまま、トワは動けなかった。


 表紙には何もない。


 背表紙にも。


 ページを開いても、そこには一文字すら残されていない。


 それでも。


 この本が、かつて誰かの人生を抱えていたことだけは分かる。


「先生。」


 トワが静かに尋ねる。


「この本を、取り戻すことはできますか?」


 老人は答えなかった。


 しばらく白いページを見つめていた。


「……分かりません。」


「でも。」


 顔を上げる。


「一つだけ、方法があります。」


 レンが身を乗り出した。


「何だ?」


「名前です。」


 トワは首を傾げる。


「名前?」


「どんなに記憶を失っても。」


 老人は一枚の白紙を指先で撫でた。


「最後まで残るものがあります。」


「それが名前です。」


 さくらが小さく呟く。


「名前……。」


「うん。」


 老人は頷いた。


「人は、自分の名前を忘れてしまうことがあります。」


「けれど。」


「誰かが呼び続ければ。」


「名前は消えません。」


 トワは本を閉じた。


「じゃあ、この本に書かれていた人の名前を探せば……。」


「物語の入口くらいは、見つかるかもしれません。」


 アオイがすぐに記録端末を持ってくる。


「書架の登録記録を調べます。」


 画面を開く。


 過去の依頼。


 記録された名前。


 年月日。


 場所。


 一つずつ確認していく。


 だが。


 何も出てこない。


「ありません。」


「この本に該当する記録がありません。」


 レンが眉を寄せる。


「じゃあ、最初から書架にあった本じゃないのか?」


「……そうかもしれません。」


 トワは本を見つめた。


「書架の外から入ってきた。」


 その瞬間。


 白いページの中央に、小さな点が現れた。


 黒い点。


 それはゆっくりと線になっていく。


 一本。


 また一本。


 やがて、それは文字を形作った。


ゆ


 トワが息を呑む。


「名前……?」


 だが、次の文字は現れない。


 「ゆ」。


 たった一文字。


 それだけだった。


「これだけ?」


 レンが覗き込む。


「『ゆ』から始まる名前なんて、いくらでもあるぞ。」


 アオイも頷く。


「女性か男性かも分かりません。」


 老人だけが、じっと文字を見ていた。


「いいえ。」


「これは名前の最初ではありません。」


 トワが振り返る。


「では?」


「最後です。」


 誰も理解できなかった。


 老人は続ける。


「名前の最初の文字ではなく。」


「その人が最後に誰かから呼ばれた時の、一文字。」


 トワはもう一度ページを見る。


 ゆ。


 その一文字が、なぜか胸に引っかかった。


 すると。


 さくらが突然、顔を上げた。


「……ゆう。」


 トワが振り向く。


「さくら?」


「『ゆう』って呼んでる。」


「誰が?」


「分からない。」


 さくらは胸元を押さえる。


「男の人。」


「泣いてる。」


 部屋の空気が変わった。


 白い本から、かすかな音が聞こえた。


 ページをめくる音ではない。


 誰かが遠くで名前を呼ぶ声。


 かすれている。


 ひどく小さい。


 それでも確かに聞こえた。


「……ゆう。」


 トワは思わず息を止めた。


 次の瞬間。


 白紙だったページに、一本の線が走った。


 それは文字ではなかった。


 一枚の古い写真だった。


 写真の中には、海があった。


 夕暮れの海。


 防波堤。


 古い灯台。


 そして、その前に立つ少年。


 十歳くらいだろうか。


 笑っている。


 その隣には、白い帽子をかぶった老人がいる。


 写真の裏に文字が浮かび上がった。


「悠へ」


 トワの胸がざわめいた。


「悠……。」


 その瞬間。


 書架の奥から、初めて声がした。


 低く。


 遠く。


 けれど、はっきりと。


「……その本を。」


 全員が振り返る。


 誰もいない。


 書架しかない。


「返して。」


 トワは本を抱く腕に力を込めた。


 声は続かなかった。


 代わりに、一番奥の棚。


 そこに、今まで存在しなかったはずの小さな扉が現れていた。


 木製の、ごく普通の扉。


 取っ手の横には、古びた金属板。


 そこに刻まれていた文字は――。


第零書架 閲覧室


 老人が静かに息を呑む。


「……ついに。」


 トワは扉を見つめた。


 怖くはなかった。


 ただ。


 この向こうにいる誰かが、なぜこの本を読んだのか。


 そして。


 なぜ「返して」と言ったのか。


 それだけが気になった。


 トワはゆっくりと扉へ近づく。


 手を伸ばす。


 取っ手に触れる。


 その瞬間。


 扉の向こうから、子どもの声がした。


「おじいちゃん。」


 トワの手が止まった。


 声は続く。


「まだ、ぼくの名前……覚えてる?」


 そして。


 扉の向こうで、誰かが泣いた。


 静かな、静かな泣き声だった。

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