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「まあ、まだ出来ていないの? 燭台とシャンデリアを磨き上げておくようにという簡単な言いつけなのに、それさえ出来ないなんて、本当にどうしようもないわね?」
「…………!」
母イザベルのねっとりした声に、ソレム伯爵令嬢セレスティナはびくりと肩を揺らした。
伯爵令嬢と言っても名ばかりだ。着ているものは使用人のそれよりもずっと粗末で、染みついて落ちない汚れといい、ほつれた箇所の傷み具合といい、普通なら繕うのを諦めて捨てるようなものだ。しかしセレスティナには他に着るものなどない。伯爵令嬢としての持ち物など何もない。祖母に用意してもらったものはすべて取り上げられており、しかもそれが十歳の時のことだ。それから七年、ドレスどころかまともな服さえ縁がない。
「聞いているの? 痣が口の中にまで広がって話せなくなったとでもいうの? まったく呪わしいったら」
大広間を飾り立てる多くの燭台はもちろん、シャンデリアの手入れは重労働だ。セレスティナの手は研磨剤で赤く腫れているが、もちろんイザベルが褒めて労わってくれることなどない。むしろ楽しそうにしながらセレスティナの手を踏みつけた。セレスティナが悲鳴を上げると、さも愉快そうに笑って「お仕置きよ」と赤い口元を歪めた。
一人では絶対に無理な量の仕事をセレスティナに言いつけ、出来なかったからと折檻する。それは母だけでなく、父も、弟妹さえも同じだった。使用人もセレスティナの味方になってくれる者はいなかった。そうした者は容赦なく解雇され、当主一家の意向に沿う者しか残っていないからだ。
セレスティナは言葉が話せないわけではない。だが、口を開いても事態は好転しないと思い知らされてきている。謝って泣き叫んで慈悲を乞うても相手の嗜虐心を煽るだけ、それなら黙っている方がましだ。どうせ折檻されることには変わりがないから、それなら体力を温存できる方を選ぶ。栄養も休息も足りていない体にとって、喋ることさえ負担になるのだ。
「何か言ったらどうなの?」
華奢な硬い靴で容赦なく背中を蹴られる。痛みと衝撃でセレスティナは咳き込んだが、もちろん心配してくれる者などいない。それどころか遠目でにやにやと嘲笑っている使用人が何人もいる。父母や弟妹どころか使用人からも打たれたり蹴られたりするのだが、直接セレスティナに触れる形で行われることはなかった。原因不明の痣が伝染することを恐れているのだ。
人の温かさを最後に感じたのは十歳のとき。祖母の手を取って看取ったときだった。それから七年近くが経ち、セレスティナの扱いは悪くなる一方だった。そのうち責め殺されるのではないかと怯えているが、楽になれるならそれでもいいかもしれない、と思ってしまうこともある。
母の折檻に黙って耐えていたセレスティナの横を、ふわりといい香りが通り過ぎた。眩い金髪に青い瞳、人形のように整った容姿のドレス姿の少女。セレスティナの一つ年下の妹マリーだ。
マリーはくるりと振り返ると、蔑む眼差しをセレスティナに向けた。
「本当にこのごみは、使用人の仕事すらろくにできないのね。魔力がなくて解呪師にもなれないし、いったい何ならできるのかしら」
「…………」
「口をきくことさえできないのなら、その口は何のためにあるの? あんたが無駄に呼吸するせいで空気が不味いわ。ものを食べるのも無駄なんだし、いっそ全部やめたらいいんじゃないかしら」
「それは困るよ」
にこやかに遮ったのは、マリーによく似た美貌の少年だった。セレスティナとマリーの弟、フィリップだ。
彼ももちろん、セレスティナの味方をしてくれるわけではない。
「もうすぐ僕たちの誕生会があるでしょ? こんなのでも一応は人手なんだから、働いてもらわなきゃ。僕たちのために開かれるパーティを、指を咥えて眺めているといいよ」
「まあ、フィリップったら」
美しい姉弟は楽しそうに笑い合っている。母は二人を愛情の籠る仕草で抱きしめた。父ルイスもやってきて、三人を順に抱擁する。一瞬こちらに向けた視線には明確な嫌悪が籠っていた。セレスティナはその様子を、感情の浮かばない青い瞳で見るともなしに見た。
マリーとフィリップはどちらも春生まれだ。二人を溺愛する父母は、毎年この時期に盛大な誕生会を開く。日付は二人の誕生日のちょうど中間だ。一人ずつ祝うのではなく、二人まとめて盛大に祝おうという意図だ。セレスティナはそのための掃除をやらされている。
(誰も、覚えていないだろうけれど……)
セレスティナは心の中で溜息をついた。
二人の誕生日のちょうど中間の日……それは奇しくも、セレスティナの生まれた日だった。
父母も弟妹も、誰もセレスティナの誕生日を覚えていない。覚えていたら、不愉快なその日にわざわざパーティを開いたりはしないだろう。……もしかしたら当てつけで開こうという発想になるのかもしれないが、セレスティナには理解できない。父母とも弟妹とも、分かり合えたことなど一度もない。
(おばあ様……)
ソレム家で唯一、セレスティナに優しかった祖母フラヴィアを思い出す。現当主ルイスの母親として、彼女は一定の発言権を持っていた。そのおかげでセレスティナは家庭教師をつけてもらうこともできたし、彼女自身から教えを受けることもできた。自分で実践はできないまでも、解呪師としての勉強もさせてもらえた。
しかしそんな彼女も、人の心を変えることはできなかった。ルイスが自身の長子セレスティナをいないものとして扱うことに憤っていたが、当のルイスは美しい妻イザベルと、一族の美貌を受け継いだ第二子マリー、第三子フィリップだけを愛した。
今になって思う。存在を無視されていたあの頃は、まだしも幸福だったのだと。




