買い物
夜の八時。スーパーの自動ドアが開いた瞬間、冷たい空気が肌を撫でた。
仕事帰りの買い出しだ。明日、ちゃんと朝ごはんを食べるためのパンと、使い切ってしまった牛乳。ついでに、週末に備えて常備菜でも作ろうかという、ごくありふれた日常の決意。
ふと、昨夜のことを思い出す。
私が作った肉じゃがを食べて、空になったタッパーを返してくれたあの時の彼の顔。あんなに真っ直ぐ「おいしかったです」なんて言われたら、誰だって気になってしまう。壁一枚向こう側にいる隣人の存在が、私の意識の中で確実にその範囲を広げていた。
(……考えすぎ。ただの隣人)
私は首を横に振って、カートを押す。
野菜コーナーへ向かう途中、醤油や味噌が並ぶ調味料売り場の前で、私は足を止めた。
そこに、見覚えのある背中があった。
黒いキャップを深く被り、不織布のマスクで顔を覆った男。
テレビの中の瀬名湊とは程遠い、ただの怪しい人物――いや、買い物に慣れていないのか、あるいはあまりに不審な挙動で、逆に目立っている。彼は棚に並ぶ無数の調味料を前に、微動だにせず考え込んでいた。
……嘘でしょ。
私はカートの速度を緩め、隣の棚へ移動するフリをして様子を伺う。
彼が手に持っているのは『料理酒』のボトル。それを戻したかと思えば『みりん』を手に取り、また戻す。その目は真剣そのものだが、どこか焦点が定まっていない。
まるで、未知の言語で書かれた辞書でも読んでいるかのようだ。
しばらく彼を見守っていると、彼がふうっと大きな溜息をついた。
その視線が、不意にこちらを向く。
……目が合った。
気づかれた、と身構えた瞬間、彼は少しだけ肩をすくめ、迷いのない足取りでこちらへ近づいてきた。
「……こんばんは」
「あ、こんばんは」
彼が近づくと、途端に「ただの隣人」としての空気が強まる。
周囲に買い物客が少ないことを確認してから、彼は少しだけ声を潜めた。
「……ちょうどよかった」
「どうしたんですか? また、倒れそうとかじゃないですよね」
私が皮肉めいたツッコミを入れると、彼は少しだけ困ったように眉を下げた。
「違います。……あの、少し聞いてもいいですか」
「何ですか?」
「……これを作ろうと思っているんですが、どれが正解なんですか」
彼が指さしたのは、棚の上のカレールーだった。
そして、彼の買い物かごの中身を覗き込んで、私は絶句した。
卵6個パック、サラダチキン、2リットルの水、ヨーグルト、レトルトのおかゆ。
……そしてなぜか、高級プリン。
「……瀬名さん」
「はい」
「これ、誰の買い物ですか?病人?」
「……否定しにくいです」
彼は居心地悪そうに、かごを少し隠すようにした。
「前より悪化してませんか? せめて野菜とかないんですか」
「……ちゃんと食べようとはしたんです。でも、何を買えばいいのか、何をどう調理すればいいのか、さっぱりわからなくて」
彼は正直に白状した。
完璧なアイドルとして画面の中にいる彼は、ここではただの、生活力ゼロの二十代前半の男だ。その不器用さに、私は思わず溜息をつく。
「……わかりました。私が選ぶので、かごを貸してください」
「いいんですか?」
彼の目が、ぱっと輝いた。
まるで、迷子を見つけたような、すがるような目だ。
私は呆れながらも、カートを引いて野菜売り場へ向かった。
「まず、例えばカレーを作るなら玉ねぎが必要です。これは玉ねぎ。これは新玉ねぎ。今はこっちの方が甘いですよ」
「なるほど……」
彼は私の説明を、一言一句逃さないようにスマホのメモ帳に打ち込んでいる。その姿があまりに生真面目で、私は思わず噴き出しそうになった。
「そんなに打ち込まなくても。……瀬名さんって、意外と几帳面なんですね」
「スタッフからは『頭の中が整理整頓されてない』と言われますけど」
彼が苦笑する。
二人で並んでスーパーを歩く。
隣を歩くのはスーパーアイドル。だがそんなことなんて忘れてしまうほど、これはただの男女の買い物風景だ。
「これ、洗うんですか?」
彼が手にしたしめじを指さす。
「洗いません。そのまま使ってください」
「へえ……」
いちいち感心する彼の反応が、なんだか可愛くて、少しだけ距離が縮まる。
食材を選び終え、次は肉売り場へ。
「ところで、小坂さんは料理が得意なんですか?」
ふと、彼が私の名前を呼んだ。
『小坂さん』。そう呼ばれただけで、心臓の音が少し高くなる。
「得意っていうか、自炊しないと節約できないだけです。瀬名さんは、何が得意なんですか?」
「……得意なこと? ダンスと、歌と、あと……バラエティでのリアクション」
彼は真面目な顔で答える。
それがあまりに「仕事」の内容ばかりで、私は思わず笑ってしまった。
「そういうのじゃなくて、プライベートなことですよ。趣味とか」
「趣味……」
彼は少しだけ考え込み、それから視線を逸らした。
「……最近は、こうして買い物の仕方を覚えることが趣味になりそうです」
「……それ、趣味ですかね?」
二人の笑い声が、スーパーの通路に溶けていく。
買い物を終え、レジへ向かう。
彼が財布を出そうとして、うっかり小銭をばら撒きそうになった時、私がとっさに支えてやる。彼の指先が、また私の袖に触れた。
彼は顔を真っ赤にして、一生懸命謝りながら小銭を拾い集める。
周囲の客がこちらを見ている気配を感じ、私はとっさに彼をかばうように身体を向けた。
「……瀬名さん、早くしてください」
「はい、すみません!」
レジを終え、自動ドアを抜けると、夜の冷たい空気が肌を撫でた。
彼が食材の入った袋を両手に持ち、私の隣を歩く。……やっぱり、少しぎこちない。完璧なアイドルが、慣れない買い物袋を抱えて歩いているなんて、誰が想像するだろう。
マンションまでの道のりは、徒歩で五分ほど。街灯がまばらに並ぶ夜道を、私たちは並んで歩いた。
「……小坂さんは、こういうの得意そうですね。料理とか」
「まあ、毎日やってれば誰でもできますよ。……瀬名さんは、そういうの苦手そうですね」
私がそう言うと、彼は「図星ですね」と苦笑した。
テレビの仕事で見せるような、完璧に作り込まれた笑顔じゃない。もっと素に近い、少しだけ寂しげで、でも温かい表情。
静かな夜道に、二人の笑い声が少しだけ響く。なんだか、ただの隣人にしては距離が近い。
そんなことを考えていると、彼がふと足を止めた。
「……この前も思ったんですけど」
「何ですか?」
彼は立ち止まり、私を真っ直ぐに見つめた。
街灯の下、視線が絡まる。ドキリ、と心臓が跳ねる。
「面倒見、いいですよね」
「褒めてます?」
「半分」
「残り半分は?」
「……ちょっと、お節介です」
彼はそう言って、困ったように、でも嬉しそうに笑う。
私は顔が熱くなるのを感じて、わざと前を向いて歩き出した。
「失礼ですね。次はもう手伝いませんから」
「それは困ります」
彼はすかさず、私の背中に向かってそう言った。
マンションのエントランスが見えてくる。
私は立ち止まり、彼の方を振り返った。
「……ちゃんと作ってくださいね。次会った時、美味しくできたか報告待ってますから」
「……それ、試験みたいで緊張します」
彼が少し間を置いてから、私を見た。
「また、困ったら聞いていいですか?」
強い視線が私に向けられる。
「……気が向いたら、ですね」
私はわざと素っ気なく答える。
彼は少しだけ目を見開き、それから「わかりました」と満足げに頷いた。
部屋に入り、ドアを閉める。
静かな部屋に、自分の心臓の音だけが響く。
ただの隣人。
そう言い聞かせているのに、耳の奥にはまだ彼の声が残っている。
壁一枚向こうから、彼が食材を冷蔵庫にしまう微かな音が聞こえる。
私は頬に手を当て、熱を帯びていることに気づく。
この人は、本当にずるい。
次はどんな理由をつけて、私を頼ってくるのだろう。
私は少しだけ口角を上げながら、明日の朝が、いつもより少しだけ待ち遠しくなっている自分を認めるしかなかった。




