隣のお部屋
仕事中、ふとした瞬間に昨夜の出来事がフラッシュバックする。
スーパーで野菜を手に取り、真剣な顔でメモ帳に打ち込んでいた瀬名湊の横顔。
私が言った言葉に、少しだけ肩をすくめて笑った時の温度。
そして、別れ際に残した「また、困ったら聞いていいですか」という言葉。
(……本当に、あの人)
私はディスプレイを見つめながら、溜息を一つ飲み込んだ。
あれから一日経っても、彼の言動が妙に心に残っている。ただの隣人。そう自分に言い聞かせることはできるけれど、あの夜、私の手を離れた彼の指先の感覚や、夜風の中で目が合った時の心拍数までを忘れることはできなかった。
仕事終わりにスーパーへ寄る気力もなく、まっすぐ帰宅した。
オートロックの扉を抜け、エレベーターで三階まで上がる。一日の疲れが溜まっていて、今日はもう、レトルトのスープとパンで済ませようと思っていた。
……ん?
エレベーターの扉が開いた瞬間、違和感が鼻を突いた。
焦げ臭い。
最初は、下の階の住人が夕飯で焼き魚でもしているのかと思った。でも、廊下を歩くにつれて、その匂いはどんどん濃くなっていく。換気扇から漏れ出しているような、あるいは何かが炭化しかけているような、もっと直接的な――。
私の部屋のすぐ手前。
その匂いの震源地は、間違いなく隣の部屋だった。
(まさか、火事?)
心臓が早鐘を打つ。
私は自分の部屋の鍵をバッグにしまったまま、隣のドアの前へ駆け寄った。インターホンを押そうか迷い、いや、今すぐ押しなきゃいけないと判断する。
火事になってからでは遅い。
私は無我夢中でインターホンを押した。
ワン、ツー、スリー。
一拍おいて、ガチャリと鍵が開く音がした。
「――はい!」
開かれたドアの向こうには、少し焦った表情の瀬名湊が立っていた。
黒いエプロン――? そんなもの持っていたっけ。でも、その胸元にはうっすらと白い粉がついている。部屋の中からは、もくもくと白い煙が立ち込めていた。
「小坂さん……?」
「瀬名さん、何やってるんですか! 煙が出てますよ!」
「あ、いや、これは……」
彼はうろたえ、背後を振り返る。
彼がどくと、部屋の様子が見えた。
玄関から見える範囲は綺麗に整っている。芸能人の部屋らしく、無駄なものがない。けれど、キッチンのほうは惨状だった。
コンロの上で鍋が踊り、換気扇はフル稼働しているけれど、煙の勢いが勝っている。
「料理を……作ろうとしていたんですが」
「料理って……何を?」
私は彼の横をすり抜けて、キッチンへと向かった。
火を止め、鍋の蓋を開ける。
中に入っていたのは、黒ずんだじゃがいもと、原型をとどめていない人参。そして、謎の白い液体。
「肉じゃがです」
「……肉じゃが」
私は脱力しそうになりながら、彼を振り返る。
彼はバツが悪そうに視線を泳がせ、「途中までは、ちゃんとやっていたつもりなんですが……」と呟いた。
「途中から何があったんですか」
「……全部です」
その正直すぎる白状に、私は思わず噴き出しそうになった。
完璧なアイドルが、たかが肉じゃが一つでこのざまとは。
「……鍋、焦げ付いてますよ。もうだめですね、これ」
「すみません……。教わった通りにしたつもりだったんですけど」
彼がトボトボと、まるで迷子のように立ち尽くす。
このまま放置したら、彼はまたカップ麺かレトルトで済ませてしまうだろう。昨日、あんなに一生懸命買い出しを頑張っていたのに。
「……はぁ。貸してください」
「え?」
私は彼をキッチンから追い出し、鍋をシンクへ放り込む。
仕方ない。本当に、仕方ないのだ。
初めて入る彼の部屋だというのに、私は勝手知ったる様子で引き出しを開け、スポンジを取り出す。
彼が、おずおずとキッチンの入り口で立ち止まっている。
彼の部屋は、思ったよりも殺風景だ。台本やのどケアの薬が置かれたテーブル。ソファにはクッションが二つ。生活感は薄いけれど、彼という人間が確かにここで息をしている気配があった。
「あ、あの、小坂さん」
「何ですか」
「すいません、散らかってて」
「いいです。それより、洗い物する場所、どこですか」
私がぶっきらぼうに言うと、彼は慌ててタオルを差し出してくれる。
その手つきが少し震えていて、彼はまだ動揺しているらしい。
「……本当に、何もできないんですね」
「自覚はあります。……昨日、買い出しの仕方を教わって、これなら自分でも作れるんじゃないかって、甘く見ていました」
彼は俯き、しゅんとしてしまった。
その背中が、まるで大型犬が雨に濡れているみたいで、私はまたため息をついた。
もう、放っておけない。
「じゃがいもの切り方、昨日教えましたよね?」
「……はい」
「これ、ただの塊じゃないですか。火が通るわけないでしょう」
私はシンクで焦げた鍋を洗いながら、彼を横目で見た。
彼はキッチンの隅で、少しだけこちらを伺っている。
「……もう一度、やりますか」
「え?」
私の言葉に、彼の表情がパッと明るくなった。
「この肉じゃがはもう無理です。でも、もしやる気があるなら、もう一度だけ付き合います。……ただし、私の言う通りにしてください」
「はい! もちろんです!」
先ほどまでの落ち込みが嘘のように、彼は軍隊のような勢いで返事をした。
私たちは、キッチンに並んだ。
狭い。
彼の部屋のキッチンは一人用で、二人で立つにはあまりに距離が近すぎた。
冷蔵庫から玉ねぎと人参を取り出す。包丁を彼に渡し、私はその横に立つ。
「まずは玉ねぎの皮を剥く。……いいですか、こうやって」
「はい……こうですか?」
彼の手が動く。
慎重すぎるほどゆっくりと。
その手元を覗き込むために、私は自然と彼のすぐ横に寄り添う形になった。
彼の腕が私の肩に触れそうになる。シャンプーの匂い。微かに漂う、彼自身の匂い。
テレビの中の瀬名湊じゃない。
今、私の隣にいるのは、料理という未知の領域に挑む、一人の不器用な男だ。
「そう、そこまで剥けたら半分に切って……」
「半分……これくらいですか」
彼が包丁を入れる。
危なっかしい手つきに、私は思わず手を出した。
彼の手に、私の手を重ねる。
「……あ」
彼が小さく息を呑むのがわかった。
手が触れ合った瞬間、電気のように空気がピリリと張り詰める。
やばい。近い。
私だって、これほど近い距離で男性と過ごしたことはない。ましてや、それが瀬名湊だなんて。
「……こうです」
「は、はい。わ、わかりました」
彼の声が、少しだけ裏返っていた。
彼は顔を真っ赤にして、一生懸命に玉ねぎを刻んでいる。
心臓がうるさい。この静かな部屋で、自分の鼓動が彼に聞こえていないか心配になる。
「……小坂さん」
「……何ですか」
「これ、ちゃんとできたら……食べてもらえますか?」
視線を落としたまま、彼がポツリと言う。
「……私が作ったものを、ですか?」
「いえ、今日、僕が作ったものを。……ちゃんと形になったら」
彼がチラリとこちらを見た。
その瞳には、嘘のないまっすぐな熱がこもっている。
私は、なんだか急に恥ずかしくなって、強めに返した。
「焦げ付かせたら、一口も食べませんからね」
「厳しいですね……でも、頑張ります」
彼はそう言って、今日一番の笑顔を見せた。
その表情は、ステージの上で見せるような、作られた笑顔じゃない。もっと柔らかくて、少しだけ幼いような、無防備な顔だった。
料理の工程は、驚くほど時間がかかった。
皮むき、カット、炒め、煮込み。
その間、私たちは並んでキッチンに立ち、ずっと会話をしていた。
彼がなぜ、こんなに料理をしたいのか。
「……この前、小坂さんが作ってくれた肉じゃがが、本当に美味しくて」
「あれは、ただの家庭料理ですよ」
「でも、僕はあんなに美味しいものを、仕事以外で食べたことがなくて」
彼は鍋をかき混ぜながら、少しだけ遠い目をした。
「スケジュールに追われて、コンビニ弁当か、差し入れのパンばかり。……食べているけれど、食事をした気がしないっていうか。温かいものを、誰かが作ってくれたものを食べるって、こんなに違うんだって知ったんです」
それは、彼の孤独を垣間見た瞬間だった。
トップアイドルとして駆け抜ける毎日。
その裏側には、こんなにも寂しい時間が流れていたんだ。
「……だから、僕もやってみたかったんです。自分の手で、温かいものを作って、それを……」
「それを?」
彼は煮える鍋を見つめたまま、言葉を濁した。
私は、彼の言葉の続きを無理に聞こうとはしなかった。ただ、隣に並んで、鍋がコトコトと音を立てるのを聞いていた。
やがて、肉じゃがが完成した。
見た目は、少しだけ野菜が不揃いだけど、昨日のような惨状ではない。
私は彼を促して、食卓へ向かった。
二つの器に肉じゃがを盛り付ける。
彼が緊張した面持ちで、箸をつける。
「……いただきます」
一口、彼が口に運ぶ。
私は自分の器に手をつけずに、彼の反応を待った。
彼はゆっくりと咀嚼し、それから、ふっと表情を緩めた。
「……おいしい」
「本当ですか?」
「本当です。……信じられない。僕にも、こんなことができるなんて」
彼は本当に嬉しそうに、何度も頷いている。
私も自分の分を食べてみる。
少しだけ味が薄い気もするけれど、温かい。
彼の部屋で、彼と二人で食べる夕飯。
外の世界からは隔絶されたような、二人だけの、不思議で、少しだけ甘い時間。
「小坂さん」
「……はい?」
「……隣が小坂さんで、助かってます」
彼がふと、箸を止めて私を見た。
その言葉は、驚くほど自然で、真剣だった。
「僕、本当に何もできなくて。……でも、小坂さんがいてくれたら、なんとかなる気がする」
心臓が、きゅっと締め付けられた。
そんなことを言われたら、もう、「ただの隣人」なんて言い訳は通用しない。
私だって、彼がいてくれるから、この部屋に戻るのが少し楽しみになっている。
私だって、彼のことが……。
「……失礼ですよ。私はお世話係じゃないんですから」
精一杯の強がりだった。
でも、彼は笑った。
もう、何も誤魔化せない。
食後の片付けも、ひどいものだった。
洗剤を泡立てすぎてシンクをあふれさせそうになったり、スポンジの置き場所を間違えたり。
私は呆れながらも、一つ一つ訂正していく。
「次はこうする。わかりましたか?」
「はい、完璧です」
彼は真剣な顔で頷くけれど、またすぐに同じミスをしそうになる。
その度に私が注意して、彼はまた笑う。
そんなやり取りが、まるでずっと昔から続いていたかのように心地いい。
片付けが終わり、玄関まで送ってもらう。
ドアの向こう側は、いつもの廊下だ。
でも、戻りたくないと思ってしまった。
「……今日は、ありがとうございました」
彼が深々と頭を下げる。
エプロン姿の彼。キッチンで二人で並んだ記憶。彼が言った言葉。
「……また、何か作ったら、報告しますね」
「ええ。期待してます」
私がドアを開けると、冷たい夜風が吹き込んできた。
私は振り返らずに、自分の部屋へ歩き出す。
部屋に入り、ドアを閉める。
静寂。
さっきまでの、温かい空気の余韻が部屋に充満している。
服に、微かに彼の部屋の匂いが移っている気がした。
洗剤の匂いと、少しだけ焦げたじゃがいもの匂い。
私はその匂いを嗅いで、ふと笑ってしまう。
ただの隣人。
そう言い聞かせていた壁は、もう、音を立てて崩れかけていた。
隣の部屋の明かりが、私の部屋の壁越しに、ぼんやりと温かい色を映し出している。
明日、また顔を合わせるのが楽しみで仕方がない。
私は、自分が確実に、隣の部屋の住人を意識し始めていることを認めるしかなかった。
これからは、ただの隣人じゃない。
そう願っている自分が、そこにいた。




