お隣さんとの距離
字は、予想していたよりもずっと丁寧だった。癖がなく、どこか几帳面さを感じさせる筆致。
私はメモを折りたたみ、コートのポケットにしまう。
もっと無愛想で、礼儀知らずな人かと思っていた。けれど、ちゃんと筋を通す人らしい。
「……意外と、ちゃんとしてるんだ」
拍子抜けしたような、少しだけ安心したような気分で、私はマンションを出た。
その日は一日、仕事中もふとした瞬間に彼のことを考えてしまった。
あの脂汗を流していた顔、荒い呼吸、そして壁の向こうにいる「人気アイドル」という現実。
電車に揺られながら、私は首を振る。
(いやいや、だからって何かあるわけじゃないんだから)
私は彼のことなんて何も知らない。ただ、隣に住んでいる人間というだけだ。あまり深く関われば、また面倒なことに巻き込まれるに決まっている。
そう自分に言い聞かせても、昨夜の彼の等身大の姿が、頭の中で微かにリフレインしていた。
帰宅したのは夜の十時過ぎ。
エレベーターから降り、自分の部屋の前まで歩いていく。すると、私の部屋のすぐ手前、彼のドアが開く音がした。
反射的に立ち止まる。
出てきたのは瀬名湊だった。昨日、あの青白い顔でうずくまっていた人物が、今日は黒いキャップを目深に被り、どこかへ出かけようとしている。
目が合った瞬間、彼が微かに目を見開いた。
昨夜の「弱り切った姿」を私に見られたという事実は、彼にとって相当な屈辱だったに違いない。彼は一瞬、どう反応すればいいのか迷ったように固まった。
私が先に口を開かないと、この気まずい時間は終わらない。
「メモ、見ました」
自分の声が、廊下の静寂の中に少しだけ浮いて聞こえる。
「スポーツドリンクも。……丁寧なお礼なんて、必要なかったのに」
彼はキャップの縁を指でなぞりながら、少しだけ視線を逸らした。
「……迷惑をかけたのは、こっちだ。それくらいの礼儀は、ある」
口調は相変わらずそっけない。でも、昨夜のあの張り詰めたような「敵意」はない。代わりに、何か言葉にできない恥じらいのようなものが混ざっている。
「……もう、熱は大丈夫なんですか」
「ああ。……おかげで」
彼はそれだけ言うと、また黙り込んだ。
これ以上の会話を求めていない。それがひしひしと伝わってくる。
私も、ここで無理に会話を広げようとは思わない。昨夜のことで少しは信頼が生まれたけれど、私たちは友人でも知り合いでもない。ただの、同じフロアの住人だ。
「……そうですか。なら、よかったです」
私は淡々とそう告げて、彼の横を通り過ぎようとした。
その時、彼が小さく呟いた言葉が聞こえた。
「……誰にも、話してないよな」
「言いませんよ。そんなことして、何の得があるんですか」
振り返らずに言い捨てて、自分のドアに鍵を差し込む。
背後で、彼が小さく息を吐いたのが分かった。ホッとしたのか、それとも呆れたのかは分からない。
部屋に入り、ドアを閉める。
静寂が戻る。でも、廊下で感じたあの気まずい空気の残滓が、まだ肌にまとわりついている気がした。
(……やっぱり、関わらないのが一番だ)
そう思ったはずなのに、ドア越しに聞こえる彼の足音が、エレベーターの方へ遠ざかっていくのを、私は無意識に耳で追っていた。
昨夜、あのドアの前で彼を助けたことは、正解だったのか、間違いだったのか。
私は買ってきた惣菜をテーブルに置き、溜息をつく。
ただの隣人。そう自分に言い聞かせるけれど、昨夜の、死にそうな顔をして謝っていた彼の姿が、どうにも頭から離れなかった。




