別世界
その日以来、マンションの廊下を通る時には妙な緊張感に包まれていた。
お互いの気配を消し合う、静かな冷戦状態。顔を合わせれば会釈だけ、それ以上は言葉も交わさない。
私の中には「人気アイドルなんて、別世界の住人だ」という冷めた感情と、「関わらないほうが平和だ」という自己防衛本能が混ざり合っていた。
なのに。
意識しないようにすればするほど、五感は鋭くなるものだ。
夜遅くに帰ってくる足音。玄関の鍵を回す、重い金属音。ドアが閉まる静かな音。
壁一枚隔てた向こう側に、彼が今、そこにいる。その事実だけで、部屋の中の静寂に微かなノイズが混じるような気がした。
――関わっちゃいけない。
自分に何度言い聞かせても、夜中に壁から聞こえる微かな物音に、つい耳を立ててしまう自分がいた。
その日は、ひどい雨の夜だった。
傘を差していても肩が濡れるような荒天の中、私はようやく帰宅した。溜まった仕事と、雨の冷え込みで体は鉛のように重い。
エントランスからエレベーターに乗り、フロアに降り立つ。
自宅のドアを目指して廊下を歩いていたとき、ふと、隣の部屋の前に視線が向いた。
……人がいる。
廊下の薄暗い照明の下、隣の部屋のドアの前で、男がうずくまっていた。
黒いパーカーのフードを被っているから顔は見えないが、紛れもなく瀬名湊だった。彼は壁に背を預け、玄関ドアに手を伸ばしたまま、動きを止めている。
肩が、大きく上下していた。
心臓がドクンと跳ねた。
通り過ぎようか。私の足が、一瞬迷って止まる。
今の私は、ただの隣人だ。面倒なトラブルには巻き込まれたくない。彼がどうなろうと、私には関係のないことだ。
けれど、その呼吸の荒さは尋常ではなかった。
雨音のする廊下に、荒い呼吸の音だけが響いている。
……通り過ぎるべきだ。関われば、私の平穏な日常は音を立てて崩れる。わかっているのに、なぜか足が動かない。放置して明日後悔するくらいなら、今のうちに片付けたほうがマシだ。
「……あの」
私は、自分でも驚くほど冷めた声で言った。
声は聞こえたはずなのに、彼は反応しない。ただ、焦点の定まらない目で、暗い床を見つめている。
「瀬名さん、大丈夫ですか」
名前を呼ぶと、彼がゆっくりと顔を上げた。
フードから覗く顔は、以前見たときよりもさらに白く、額にはびっしりと脂汗が浮かんでいる。テレビで見せる完璧なアイドルスマイルなど微塵もない、ひどく追い詰められたような表情だった。
「……あ……」
彼は何かを言いかけ、そのまま再び深く息を吐いた。
目は半開きで、こちらを認識できていないのかもしれない。ただ、私を拒絶する気力さえ失っているように見えた。
...…この人本当にヤバいんじゃ?私は急いで自分の部屋の鍵を開けた。
「少し、待っていてください」
それだけ言い残し、私は自分の部屋に駆け込んだ。
冷凍庫からスポーツドリンクを取り出し、常備薬の箱から解熱鎮痛剤をシートごと取り出す。ついでに、買い置きしていたゼリー飲料もバッグに突っ込んだ。
再び廊下に出ると、彼はまだ同じ場所にいた。
私の足音に気づいたのか、彼は力なく顔を上げる。
「……帰れよ。……迷惑をかける」
掠れた声で、彼は言った。
無愛想というより、完全に余裕を失っている。
「迷惑をかけないでくださいって、こっちが言いたいんです」
私は彼から距離を保ったまま、買ってきたスポーツドリンクと薬を、床を滑らせるようにして彼の足元へ送った。
彼は驚いたようにそれを見つめ、それから私を見た。
「……俺に関わるな、と言ったはずだ」
「倒れられて、後処理をさせられるほうが迷惑なんです。熱、ありますよね。これ飲んで、部屋で大人しくしててください」
私の言葉に、彼は一瞬呆然とした後、諦めたように目を閉じた。
私が媚びもせず、ただ事務的に「邪魔にならないようにしろ」と要求しているのを理解したのだろう。彼は震える手でドリンクのキャップを開け、流し込んだ。
――テレビで見る顔より、ずっと人間臭い。
ふと、そんなことを思った。
スポットライトを浴びる彼はどこか遠い存在だったが、こうして脂汗を流し、青白い顔で座り込んでいる彼は、そう私たちと違わない存在に感じた。
少しの間、重苦しい沈黙が流れた。
やがて、彼はゆっくりと、しかし確実に落ち着きを取り戻していった。呼吸が少しずつ整い、彼は壁に頭を預けて、小さく息をつく。
「……この前は、すみませんでした」
急な謝罪に、私は眉をひそめた。
「あの時、あんたにひどいことを言った。勝手に警戒して、追い払おうとして……」
彼の声は、あの時の棘のような鋭さを失っていた。
ただ、ひどく疲れている。
「仕事柄、こういうことに敏感で……。誰が敵で、誰が味方か。カメラの前でも、私生活でも、ずっと疑って生きなきゃいけなくて」
彼は自分自身を納得させるように、低い声で続けた。
「あんたも、俺の秘密をネタにする人間の一人だと思ってた。……人違いでした。すみません」
そこまで言うと、彼はまた沈黙した。
謝られた。
予想外だった。もっとプライドの高い男だと思っていたのに、彼は自分の非を認めることができる人間だったらしい。
私は少しだけ、彼に対する棘が抜けていくのを感じた。
「……別に、怒ってませんよ」
私は正直に言った。
「言いふらしたりなんてしません。そんな暇はないし、そもそも興味もありませんから。……あなたのことは、ただの隣人だと思っています」
そう言うと、彼は「ふっ」と小さく笑った。
自嘲気味な、けれど以前のような乾いた笑いではなく、少しだけ力が抜けたような笑いだった。
「ただの隣人、か。……そうですね。ありがとうございます」
彼は不器用そうに頭を下げた。
アイドル・瀬名湊としての鎧が、少しだけ剥がれ落ちているように見えた。
「じゃあ。……ちゃんと寝てくださいね」
私はそれだけ言い残し、自分の部屋のドアに向き直った。
自分の部屋に入り、背後で鍵をかける。カチャリという音とともに、一気に力が抜けた。
気づけば、私も手に変な汗をかいていた。
壁一枚隔てた向こうで、彼がドアを開け、部屋に入っていく音が聞こえる。
……まあ、死ぬことはなさそうか。
ベッドに倒れ込みながら、私は天井を見つめた。
今日まで、彼を「警戒すべき厄介者」だと思っていた。
けれど、あの弱り切った姿を見て、少しだけ考えが変わる。
彼は、ずっと何かに追われているのかもしれない。
華やかな世界の裏側で、自分を守るために必死に壁を作って。
――まあ、私には関係ないか。
そう自分に言い聞かせるけれど、心臓の鼓動はまだ少しだけ早かった。
明日になれば、またただの隣人同士だ。
そう思っていたのに。
翌朝。
出勤しようと玄関のドアを開けた私の目に飛び込んできたのは、ドアノブに掛かった小さな紙袋だった。
中には、昨日渡したスポーツドリンクと、小さな缶コーヒー、そして短いメモが一枚。
『昨夜は助かりました。
……ちゃんと休んで、熱は下がりました。
変な警戒をしてごめんなさい。』
癖のない、丁寧な字だった。
私はそのメモを手に取り、ふっと息をつく。
隣人のドアは、まだ静かに閉ざされたままだ。
……少しだけ、この男のことが気になってしまった。
私はメモを折りたたみ、バッグにしまった。
これはきっと、終わりではなく、始まりなのだ。
それだけは、直感で分かった。




