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お隣さんは人気アイドル?!  作者: いゆ


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3/7

別世界


 その日以来、マンションの廊下を通る時には妙な緊張感に包まれていた。

 お互いの気配を消し合う、静かな冷戦状態。顔を合わせれば会釈だけ、それ以上は言葉も交わさない。

 

 私の中には「人気アイドルなんて、別世界の住人だ」という冷めた感情と、「関わらないほうが平和だ」という自己防衛本能が混ざり合っていた。


 なのに。


 意識しないようにすればするほど、五感は鋭くなるものだ。

 夜遅くに帰ってくる足音。玄関の鍵を回す、重い金属音。ドアが閉まる静かな音。

 壁一枚隔てた向こう側に、彼が今、そこにいる。その事実だけで、部屋の中の静寂に微かなノイズが混じるような気がした。


 ――関わっちゃいけない。

 自分に何度言い聞かせても、夜中に壁から聞こえる微かな物音に、つい耳を立ててしまう自分がいた。


 その日は、ひどい雨の夜だった。

 傘を差していても肩が濡れるような荒天の中、私はようやく帰宅した。溜まった仕事と、雨の冷え込みで体は鉛のように重い。

 エントランスからエレベーターに乗り、フロアに降り立つ。

 自宅のドアを目指して廊下を歩いていたとき、ふと、隣の部屋の前に視線が向いた。


 ……人がいる。


 廊下の薄暗い照明の下、隣の部屋のドアの前で、男がうずくまっていた。

 黒いパーカーのフードを被っているから顔は見えないが、紛れもなく瀬名湊だった。彼は壁に背を預け、玄関ドアに手を伸ばしたまま、動きを止めている。

 肩が、大きく上下していた。


 心臓がドクンと跳ねた。

 通り過ぎようか。私の足が、一瞬迷って止まる。

 今の私は、ただの隣人だ。面倒なトラブルには巻き込まれたくない。彼がどうなろうと、私には関係のないことだ。


 けれど、その呼吸の荒さは尋常ではなかった。

 雨音のする廊下に、荒い呼吸の音だけが響いている。

 ……通り過ぎるべきだ。関われば、私の平穏な日常は音を立てて崩れる。わかっているのに、なぜか足が動かない。放置して明日後悔するくらいなら、今のうちに片付けたほうがマシだ。


「……あの」


私は、自分でも驚くほど冷めた声で言った。

 声は聞こえたはずなのに、彼は反応しない。ただ、焦点の定まらない目で、暗い床を見つめている。


「瀬名さん、大丈夫ですか」


名前を呼ぶと、彼がゆっくりと顔を上げた。

 フードから覗く顔は、以前見たときよりもさらに白く、額にはびっしりと脂汗が浮かんでいる。テレビで見せる完璧なアイドルスマイルなど微塵もない、ひどく追い詰められたような表情だった。


「……あ……」


彼は何かを言いかけ、そのまま再び深く息を吐いた。

 目は半開きで、こちらを認識できていないのかもしれない。ただ、私を拒絶する気力さえ失っているように見えた。


 ...…この人本当にヤバいんじゃ?私は急いで自分の部屋の鍵を開けた。


「少し、待っていてください」


それだけ言い残し、私は自分の部屋に駆け込んだ。

 冷凍庫からスポーツドリンクを取り出し、常備薬の箱から解熱鎮痛剤をシートごと取り出す。ついでに、買い置きしていたゼリー飲料もバッグに突っ込んだ。


再び廊下に出ると、彼はまだ同じ場所にいた。

 私の足音に気づいたのか、彼は力なく顔を上げる。


「……帰れよ。……迷惑をかける」


掠れた声で、彼は言った。

 無愛想というより、完全に余裕を失っている。


「迷惑をかけないでくださいって、こっちが言いたいんです」


私は彼から距離を保ったまま、買ってきたスポーツドリンクと薬を、床を滑らせるようにして彼の足元へ送った。

 彼は驚いたようにそれを見つめ、それから私を見た。


「……俺に関わるな、と言ったはずだ」


「倒れられて、後処理をさせられるほうが迷惑なんです。熱、ありますよね。これ飲んで、部屋で大人しくしててください」


私の言葉に、彼は一瞬呆然とした後、諦めたように目を閉じた。

 私が媚びもせず、ただ事務的に「邪魔にならないようにしろ」と要求しているのを理解したのだろう。彼は震える手でドリンクのキャップを開け、流し込んだ。


 ――テレビで見る顔より、ずっと人間臭い。

 ふと、そんなことを思った。

 スポットライトを浴びる彼はどこか遠い存在だったが、こうして脂汗を流し、青白い顔で座り込んでいる彼は、そう私たちと違わない存在に感じた。


 少しの間、重苦しい沈黙が流れた。

 やがて、彼はゆっくりと、しかし確実に落ち着きを取り戻していった。呼吸が少しずつ整い、彼は壁に頭を預けて、小さく息をつく。


「……この前は、すみませんでした」


急な謝罪に、私は眉をひそめた。


「あの時、あんたにひどいことを言った。勝手に警戒して、追い払おうとして……」


彼の声は、あの時の棘のような鋭さを失っていた。

 ただ、ひどく疲れている。


「仕事柄、こういうことに敏感で……。誰が敵で、誰が味方か。カメラの前でも、私生活でも、ずっと疑って生きなきゃいけなくて」


彼は自分自身を納得させるように、低い声で続けた。


「あんたも、俺の秘密をネタにする人間の一人だと思ってた。……人違いでした。すみません」


そこまで言うと、彼はまた沈黙した。


 謝られた。

 予想外だった。もっとプライドの高い男だと思っていたのに、彼は自分の非を認めることができる人間だったらしい。


私は少しだけ、彼に対する棘が抜けていくのを感じた。


「……別に、怒ってませんよ」


私は正直に言った。


「言いふらしたりなんてしません。そんな暇はないし、そもそも興味もありませんから。……あなたのことは、ただの隣人だと思っています」


そう言うと、彼は「ふっ」と小さく笑った。

 自嘲気味な、けれど以前のような乾いた笑いではなく、少しだけ力が抜けたような笑いだった。


「ただの隣人、か。……そうですね。ありがとうございます」


彼は不器用そうに頭を下げた。

 アイドル・瀬名湊としての鎧が、少しだけ剥がれ落ちているように見えた。


「じゃあ。……ちゃんと寝てくださいね」


私はそれだけ言い残し、自分の部屋のドアに向き直った。

 自分の部屋に入り、背後で鍵をかける。カチャリという音とともに、一気に力が抜けた。

 気づけば、私も手に変な汗をかいていた。


 壁一枚隔てた向こうで、彼がドアを開け、部屋に入っていく音が聞こえる。

 ……まあ、死ぬことはなさそうか。


 ベッドに倒れ込みながら、私は天井を見つめた。


 今日まで、彼を「警戒すべき厄介者」だと思っていた。

 けれど、あの弱り切った姿を見て、少しだけ考えが変わる。

 彼は、ずっと何かに追われているのかもしれない。

 華やかな世界の裏側で、自分を守るために必死に壁を作って。


 ――まあ、私には関係ないか。


 そう自分に言い聞かせるけれど、心臓の鼓動はまだ少しだけ早かった。

 明日になれば、またただの隣人同士だ。

 そう思っていたのに。


翌朝。

 出勤しようと玄関のドアを開けた私の目に飛び込んできたのは、ドアノブに掛かった小さな紙袋だった。

 中には、昨日渡したスポーツドリンクと、小さな缶コーヒー、そして短いメモが一枚。


『昨夜は助かりました。

 ……ちゃんと休んで、熱は下がりました。

 変な警戒をしてごめんなさい。』


癖のない、丁寧な字だった。

 私はそのメモを手に取り、ふっと息をつく。

 隣人のドアは、まだ静かに閉ざされたままだ。


 ……少しだけ、この男のことが気になってしまった。

 私はメモを折りたたみ、バッグにしまった。


 これはきっと、終わりではなく、始まりなのだ。

 それだけは、直感で分かった。

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