警戒
廊下の薄暗い照明が、彼の顔をより一層青白く照らしていた。
目の前にいるのは、昨日までテレビの向こう側で眩しい笑顔を振りまいていたはずの「瀬名湊」本人だ。いや、そう確信していいのだろうか。
あまりの非現実的な状況に、私の思考回路は一時停止していた。
「……あの、大丈夫ですか?」
私は震える声で尋ねた。
彼は座り込んだまま、ぐしゃりと髪をかきむしる。私の言葉など、最初から聞こえていないかのように。
「……帰れよ」
絞り出したような声が廊下に響いた。
それは、拒絶というよりも、自分自身を閉ざすための叫びのようだった。
驚いたことに、彼の瞳には涙が浮かんでいる。テレビの中の彼からは想像もつかない、ひどく脆くて、どこか壊れてしまいそうな表情だった。
助けを求めているわけではない。
ただ、誰にも見つからない場所で、限界を迎えていただけなのだ。
私は咄嗟に言葉を失った。
声をかけるべきか、それともこのまま部屋に引きこもるべきか。真面目で空気を読みがちな私の性格が、判断を迷わせる。
でも、もし私がここで見捨てたら、彼はこの冷たい廊下で朝を迎えることになる。
「ここ、床冷えますよ。……風邪、引きます」
お節介だとはわかっていた。
でも、無視して通り過ぎることはできなかった。
「……放っておいてくれって言ってるだろ!」
彼はガタッと音を立てて立ち上がった。
ふらつく足元を壁に預け、こちらを睨む。鋭い視線。でも、その瞳の奥には、私への攻撃性よりも強い、自分自身への嫌悪感が宿っていた。
私は一歩、彼の方へ踏み出した。
「お節介なのはわかっています。でも、放っておいて誰かが通ったらどうするんですか。……部屋に入った方がいい」
私の言葉に、彼は短く鼻で笑った。自嘲気味な、乾いた笑いだった。
「……そうだな。あんたが騒ぎ立てる前に、消えるよ」
彼は力なくドアノブに手をかけ、鍵を開けた。
私の顔を一瞥もしないまま、彼は部屋の中へ消えていった。バタン、と乱暴に閉められたドアの音が、深夜の廊下に大きく響く。
私は一人、取り残された。
心臓がまだ早鐘を打っている。
あれが、日本中が夢中になっている人気アイドル?
信じられない。でも、あの顔を見間違えるはずがない。
私は重い足取りで自分の部屋に戻り、鍵をかけた。
その夜、私はほとんど眠れなかった。
壁一枚向こう側には、誰にも言えない秘密を抱えた男が眠っているのか、あるいは眠れずにいるのか。
……せっかく選んだ平穏な暮らしが、引っ越して早々に台無しだ。
私の静かな日常は、今日で終わったのかもしれない。
◇
それから数日が過ぎた。
日常というものは恐ろしい。あんな非現実的な出来事があったにもかかわらず、私は淡々と会社に行き、淡々と業務をこなしていた。
ただ、隣のドアを通り過ぎる時だけ、以前よりも少しだけ意識してしまう。
「……今日も、気配がないな」
結局、あの夜以来、彼とは一度も顔を合わせていない。
私としても、このまま穏やかな日々が続いてくれた方が良いに決まっている、
金曜の夜。
仕事帰りに、私はマンション近くのコンビニに立ち寄った。
溜まった書類仕事のせいで、帰宅が遅くなってしまった。何か簡単に食べられるものでも買おうと、雑誌コーナーの前を通り過ぎる。
視界の端に、見覚えのある顔が飛び込んできた。
『瀬名湊、飛躍の理由。独占インタビュー』
週刊誌の表紙だった。
そこには、あの夜の無防備な彼とは別人のような、完璧に作り込まれた「アイドル・瀬名湊」が微笑んでいた。
洗練されたスーツ、整えられた髪、全てを悟ったかのような優しい眼差し。
私は思わず立ち止まり、その雑誌を手に取った。
これがあの時の、廊下で震えていた男と同一人物だなんて。
人間の仮面というのは、どうしてこれほどまでに精巧なのだろう。
「……嘘みたい」
小さく呟いたその時。
自動ドアが開く音と、カランという軽快なベルの音が鳴った。
店内の空気が、ふっと変わった気がした。
入ってきたのは、黒いキャップにパーカーを被った男。
深夜のコンビニには珍しくない格好だけれど、その佇まいだけで、周囲とは異質な空気を纏っている。
私の手の中で、雑誌の瀬名湊と、目の前の男が重なった。
……瀬名、湊。
私の視線に気づいたのか、彼は雑誌コーナーの横を通り過ぎる際、ふと顔を上げた。
目が合った。
彼は私に気づいた瞬間、表情を凍りつかせた。
「……っ」
彼が私の隣に立ち、パーカーのフードを深く被り直す。
その手つきに、明らかな動揺が見えた。
私は慌てて視線を逸らし、手に持っていた雑誌を棚に戻そうとした。
まずい。気づかれた。
そう思った瞬間、彼の低い声が耳元に届いた。
「……誰にも言わないでください」
声のトーンは低く、淡々としている。
けれど、その中には「どうせあんたも、俺をネタにするんだろう?」という決めつけが混じっていた。
私は雑誌を棚に押し込み、彼の方を向いた。
彼もまた、私を睨みつけるように見ている。彼にとって私は、自分の秘密を握り、それを面白おかしく言いふらすかもしれない「外敵」なのだ。
その視線に、ふつふつと怒りが湧いてきた。
疲れて帰ってきて、ただパンを買おうとしただけなのに。
誰にも迷惑をかけないように、ひっそりと生きていこうと決めたばかりなのに。
どうして、見ず知らずの他人に、そんな勝手なレッテルを貼られなければならないのか。
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
今まで、人に気を遣ってばかりで、反論なんてしたことがなかった。
でも、今の私は、あの頃の私とは違う。
「興味本位で、人の家のことなんて話しません」
私の言葉に、彼は目を見開いた。
少し驚いたような、それから少し呆れたような顔。
「…私にそんな暇はないし、そもそも興味もありません。ご安心を」
私はそう言い捨てて、雑誌コーナーから足早に離れた。
背中越しに、彼の呆然とした視線を感じた気がしたけれど、振り返ることはしなかった。
レジへ向かい、パンと飲み物を置く。
店を出て、マンションへの帰り道を歩く間も、怒りで少し手が震えていた。
「……なんなのよ、もう」
ただの隣人だと割り切るつもりだった。
勝手に警戒されて、こっちまで巻き込まれるなんて。本当に迷惑な話だ。
私は空を見上げた。
夜の都会の空は、星一つ見えない。
でも、私の心の中には、少しだけ風が吹き抜けていた。
彼には彼の、どうしようもない苦しさがあるのかもしれない。
でも、私には私の矜持がある。
自分を守るために人を傷つけるようなことは、したくない。
隣の部屋には、アイドルの瀬名湊がいる。
その事実は、私の中で少しだけ、別の意味を持ち始めていた。
……単なる「隣人」としてではなく、もう少しだけ、厄介な相手として。
マンションのエントランスが見えてくる。
私は深く息を吸い込み、決意を固めた。
次は、絶対に負けない。
もしまた彼が何か言ってきたら、ちゃんと、一言言い返してやるんだから。




