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お隣さんは人気アイドル?!  作者: いゆ


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2/7

警戒


 廊下の薄暗い照明が、彼の顔をより一層青白く照らしていた。


 目の前にいるのは、昨日までテレビの向こう側で眩しい笑顔を振りまいていたはずの「瀬名湊」本人だ。いや、そう確信していいのだろうか。

 あまりの非現実的な状況に、私の思考回路は一時停止していた。


「……あの、大丈夫ですか?」


 私は震える声で尋ねた。

 彼は座り込んだまま、ぐしゃりと髪をかきむしる。私の言葉など、最初から聞こえていないかのように。


「……帰れよ」


 絞り出したような声が廊下に響いた。

 それは、拒絶というよりも、自分自身を閉ざすための叫びのようだった。

 驚いたことに、彼の瞳には涙が浮かんでいる。テレビの中の彼からは想像もつかない、ひどく脆くて、どこか壊れてしまいそうな表情だった。


 助けを求めているわけではない。

 ただ、誰にも見つからない場所で、限界を迎えていただけなのだ。


 私は咄嗟に言葉を失った。

 声をかけるべきか、それともこのまま部屋に引きこもるべきか。真面目で空気を読みがちな私の性格が、判断を迷わせる。

 でも、もし私がここで見捨てたら、彼はこの冷たい廊下で朝を迎えることになる。


「ここ、床冷えますよ。……風邪、引きます」


 お節介だとはわかっていた。

 でも、無視して通り過ぎることはできなかった。


「……放っておいてくれって言ってるだろ!」


 彼はガタッと音を立てて立ち上がった。

 ふらつく足元を壁に預け、こちらを睨む。鋭い視線。でも、その瞳の奥には、私への攻撃性よりも強い、自分自身への嫌悪感が宿っていた。


 私は一歩、彼の方へ踏み出した。


「お節介なのはわかっています。でも、放っておいて誰かが通ったらどうするんですか。……部屋に入った方がいい」


 私の言葉に、彼は短く鼻で笑った。自嘲気味な、乾いた笑いだった。


「……そうだな。あんたが騒ぎ立てる前に、消えるよ」


 彼は力なくドアノブに手をかけ、鍵を開けた。

 私の顔を一瞥もしないまま、彼は部屋の中へ消えていった。バタン、と乱暴に閉められたドアの音が、深夜の廊下に大きく響く。


 私は一人、取り残された。

 心臓がまだ早鐘を打っている。

 あれが、日本中が夢中になっている人気アイドル?

 信じられない。でも、あの顔を見間違えるはずがない。

 私は重い足取りで自分の部屋に戻り、鍵をかけた。


 その夜、私はほとんど眠れなかった。

 壁一枚向こう側には、誰にも言えない秘密を抱えた男が眠っているのか、あるいは眠れずにいるのか。

 ……せっかく選んだ平穏な暮らしが、引っ越して早々に台無しだ。

 私の静かな日常は、今日で終わったのかもしれない。



 それから数日が過ぎた。

 日常というものは恐ろしい。あんな非現実的な出来事があったにもかかわらず、私は淡々と会社に行き、淡々と業務をこなしていた。

 ただ、隣のドアを通り過ぎる時だけ、以前よりも少しだけ意識してしまう。


「……今日も、気配がないな」


 結局、あの夜以来、彼とは一度も顔を合わせていない。

 私としても、このまま穏やかな日々が続いてくれた方が良いに決まっている、


 金曜の夜。

 仕事帰りに、私はマンション近くのコンビニに立ち寄った。

 溜まった書類仕事のせいで、帰宅が遅くなってしまった。何か簡単に食べられるものでも買おうと、雑誌コーナーの前を通り過ぎる。


 視界の端に、見覚えのある顔が飛び込んできた。


『瀬名湊、飛躍の理由。独占インタビュー』


 週刊誌の表紙だった。

 そこには、あの夜の無防備な彼とは別人のような、完璧に作り込まれた「アイドル・瀬名湊」が微笑んでいた。

 

 洗練されたスーツ、整えられた髪、全てを悟ったかのような優しい眼差し。


 私は思わず立ち止まり、その雑誌を手に取った。

 これがあの時の、廊下で震えていた男と同一人物だなんて。

 人間の仮面というのは、どうしてこれほどまでに精巧なのだろう。


「……嘘みたい」


 小さく呟いたその時。

 自動ドアが開く音と、カランという軽快なベルの音が鳴った。


 店内の空気が、ふっと変わった気がした。

 入ってきたのは、黒いキャップにパーカーを被った男。

 深夜のコンビニには珍しくない格好だけれど、その佇まいだけで、周囲とは異質な空気を纏っている。


 私の手の中で、雑誌の瀬名湊と、目の前の男が重なった。


 ……瀬名、湊。


 私の視線に気づいたのか、彼は雑誌コーナーの横を通り過ぎる際、ふと顔を上げた。

 目が合った。

 彼は私に気づいた瞬間、表情を凍りつかせた。


「……っ」


 彼が私の隣に立ち、パーカーのフードを深く被り直す。

 その手つきに、明らかな動揺が見えた。

 私は慌てて視線を逸らし、手に持っていた雑誌を棚に戻そうとした。


 まずい。気づかれた。

 そう思った瞬間、彼の低い声が耳元に届いた。


「……誰にも言わないでください」


 声のトーンは低く、淡々としている。

 けれど、その中には「どうせあんたも、俺をネタにするんだろう?」という決めつけが混じっていた。


 私は雑誌を棚に押し込み、彼の方を向いた。

 彼もまた、私を睨みつけるように見ている。彼にとって私は、自分の秘密を握り、それを面白おかしく言いふらすかもしれない「外敵」なのだ。


 その視線に、ふつふつと怒りが湧いてきた。


 疲れて帰ってきて、ただパンを買おうとしただけなのに。

 誰にも迷惑をかけないように、ひっそりと生きていこうと決めたばかりなのに。

 どうして、見ず知らずの他人に、そんな勝手なレッテルを貼られなければならないのか。


 私は彼を真っ直ぐに見据えた。

 今まで、人に気を遣ってばかりで、反論なんてしたことがなかった。

 でも、今の私は、あの頃の私とは違う。


「興味本位で、人の家のことなんて話しません」


 私の言葉に、彼は目を見開いた。

 少し驚いたような、それから少し呆れたような顔。


「…私にそんな暇はないし、そもそも興味もありません。ご安心を」


 私はそう言い捨てて、雑誌コーナーから足早に離れた。

 背中越しに、彼の呆然とした視線を感じた気がしたけれど、振り返ることはしなかった。


 レジへ向かい、パンと飲み物を置く。

 店を出て、マンションへの帰り道を歩く間も、怒りで少し手が震えていた。


「……なんなのよ、もう」


 ただの隣人だと割り切るつもりだった。

 勝手に警戒されて、こっちまで巻き込まれるなんて。本当に迷惑な話だ。


 私は空を見上げた。

 夜の都会の空は、星一つ見えない。

 でも、私の心の中には、少しだけ風が吹き抜けていた。


 彼には彼の、どうしようもない苦しさがあるのかもしれない。

 でも、私には私の矜持がある。

 自分を守るために人を傷つけるようなことは、したくない。


 隣の部屋には、アイドルの瀬名湊がいる。

 その事実は、私の中で少しだけ、別の意味を持ち始めていた。


 ……単なる「隣人」としてではなく、もう少しだけ、厄介な相手として。


 マンションのエントランスが見えてくる。

 私は深く息を吸い込み、決意を固めた。


 次は、絶対に負けない。

 もしまた彼が何か言ってきたら、ちゃんと、一言言い返してやるんだから。



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