引越しと出会い
段ボールの山に囲まれた部屋で、私は大きく息を吐き出した。
「……終わった」
つぶやいた声は、がらんとしたリビングに吸い込まれるように消えていった。
都内、家賃と広さのバランスが奇跡的に良かったこのマンション。24歳。手取りで払えるギリギリのラインで決めた、私の新しい城だ。
小坂 真緒。24歳。
前の会社を辞める時、いろんなことがあった。
頼まれたことは何でも「大丈夫」と笑って引き受けていた。そうして無理を重ねた結果、ある日突然、涙が止まらなくなった。
心機一転、事務職へ転職し、これを機に一人暮らしを始めたのだ。
「明日からまた、頑張ろう」
自分を鼓舞するように小さく呟き、私は床に散らばった緩衝材のプチプチを片付け始めた。
時刻は23時を回っている。
初日の荷ほどきはここまでが限界だ。明日からの仕事に備えて、せめてベッドだけは確保しないと。
そう思って立ち上がった時、ふとネットスーパーの注文品をエントランスまで取りに行かなければいけないことを思い出した。冷凍食品が入っている。明日まで置いておいたら溶けてしまう。
「……あー、もう」
私は重い腰を上げ、玄関へと向かった。
ドアを開け、廊下に出た瞬間。
すぐ隣の部屋のドアが開く音と重なった。
「あ」
思わず声が出た。
私の部屋のすぐ隣、角部屋の住人が出てきたところだった。
黒いキャップを深く被り、黒いマスクで顔の下半分を完全に隠している。身長が高い。部屋着のようなグレーのスウェットを着ているけれど、どこか一般人離れした雰囲気がある人だ。
目が合った。……ような気がした。
けれど、相手の視線はすぐに逸らされた。
「……あの、すみません。今日引っ越してきた、小坂と申します」
私は努めて明るく、近所付き合いの基本である挨拶を口にした。
けれど、返ってきたのは、言葉ですらなかった。
相手の男は、こちらを一度チラリと見たあと、視線を下に戻し、極めて事務的な動作で小さく会釈をしただけだった。
言葉を交わすどころか、関わりたくないというオーラが全身から滲み出ている。
「あ……」
私の挨拶は宙を舞い、そのまま廊下の静寂の中に消えた。
男はそのまま、無言でエレベーターの方へと歩いていく。
カツン、カツンと響く硬質な足音。
私は廊下に一人、取り残された。
「何……あの人」
無意識に眉をひそめる。
都会の人は冷たいと聞いたことはあるけれど、ここまであからさまだとは。
まあ、いい。隣人と仲良くしようなんて、そもそも甘い考えだったのかもしれない。ここは都内だし、誰にも踏み込まれず、誰にも干渉しない。それこそが、私が求めていた「平穏」なのだから。
私は心の中でそう自分に言い聞かせ、少しだけ気分を立て直してエントランスへと向かった。
◇
翌日からの仕事は忙しく、心機一転というほど余裕のある日々ではなかった。
新しい職場、新しい人間関係、そして一人暮らしの家事。
気づけば一週間が過ぎていた。
その間、隣人の姿を一度も見かけることはなかった。
夜遅くに帰宅して、玄関を開けるとき、ふと隣のドアに目をやる。けれど、そこからは人の気配も、生活の音もほとんど聞こえてこない。
本当に人が住んでいるのだろうか、と思うほどだ。
金曜日の夜。
一週間を乗り切った解放感と、どっと押し寄せる疲労感。私はスーパーで買い込んだ食材を抱え、重い足取りでマンションの廊下を歩いていた。
金曜の夜だというのに、誰にも会わず、誰とも話さず、ただ静かな部屋に帰るだけ。
そんな自分が少しだけ寂しいけれど、それが今の私にはちょうどいいのだと思っていた。
重い袋を抱え、家のドアの前に立った時だった。
「……ッ」
私はバランスを崩した。
袋の底が破れ、中に入れていた炭酸水のペットボトルが床に転がり、勢いよく廊下の奥へと転がっていく。
「あ、ちょっと!」
慌てて追いかけようとしたが、荷物を落とさないようにするのが精一杯で、上手く動けない。
ペットボトルはコロコロと音を立てながら、廊下の角、隣の部屋のドアの前で止まった。
絶望的な気分になった。
なぜ、よりによってあそこまで転がっていくのか。
隣人にまた変なところを見られたくない。そう思って早足で駆け寄った時だった。
ガチャリ、と音がして、隣のドアが開いた。
「……あ」
中から出てきたのは、例の男だった。
前回と同じ、黒いキャップに黒いマスク。
そして、彼が床に転がっていたペットボトルを拾い上げた。
私と目が合う。
相手は、またしても無愛想に私を見ていた。
少しだけ目つきが鋭い。不機嫌そう、という言葉がぴったりな表情だ。
「……これ」
彼は低く、掠れた声でそう言って、ペットボトルを突き出してきた。
受け取ろうと手を伸ばすと、彼の指先が私の手に触れた。
驚くほど冷たい手だった。
「すみません、ありがとうございます」
私は精一杯の礼を言った。
けれど、彼は一言も返さず、そのまま私の横を通り過ぎていった。
何だろう、この人。
ただの無愛想な住人というより、もっと深い……何か、社会と隔絶されたような空気を纏っている気がする。
彼がエレベーターに乗るのを見届けようとしたが、彼は立ち止まり、エレベーターを待つ間、ため息を一つこぼした。
その背中が、あまりにも疲れて見えた。
肩を落とし、まるで世界中の重荷を背負っているかのような立ち姿。
あの背中を見た瞬間、私の胸の奥で、小さく何かが軋んだ。
私も、転職する前はそんなふうだったのかもしれない。
誰にも言えない疲れを抱えて、誰にも見せないように、自分を鎧で固めていた日々。
……いや、いけない。
同情なんて、お節介の始まりだ。彼は私と関わりたくないのだ。挨拶すら返さない相手に、踏み込む理由なんてない。
私は自分の部屋に入り、ドアを閉めた。
静寂。
ようやく手に入れた、私だけの城。
でも、炭酸水のペットボトルを冷蔵庫に入れながら、私はなぜか、先ほどの彼の背中の温度を思い出していた。
◇
数日後。
仕事帰りに駅前のカフェで友人である奈々と会っていた。
「で、どうなのよ。新しいマンションは」
奈々はアイスラテをストローでかき混ぜながら、ニヤニヤと私を覗き込んでくる。
「別に、普通だよ。静かだし、通勤も楽だし」
「ふーん。で、隣人は? 素敵なイケメンとかいないわけ?」
「……いない。というか、会ったけど、ものすごく感じが悪いの」
私がそう言うと、奈々は「えー!」と声を上げた。
「顔は? 顔はいいの?」
「よくわからない。いつも帽子とマスクしてるから」
「あー、怪しい! それ絶対、何かの隠密行動してる人だよ。小説家とか、訳ありのフリーランスとか?」
「怪しいのは確かかもね。でも、関わらないのが一番だよ。そういう人とはトラブルになりたくないし」
私はそう言って、カップを口元に運んだ。
彼と関わったところで、何が生まれるわけでもない。私には私の生活があるし、彼には彼の世界がある。
交わることなんてない、平行線だ。
そう思っていた。
あの日までは。
その数日後、深夜に帰宅した時のことだ。
私は仕事の資料作成が長引き、時計は2時を回っていた。
疲れで頭がボーッとする中、マンションの廊下を歩く。
ふと、隣の部屋の前で、誰かが座り込んでいるのが目に入った。
心臓が跳ねた。
え、何? 誰か倒れてる?
「……あの、大丈夫ですか?」
声をかけようとして、私は自分の足が止まった。
うずくまっていたのは、隣人の男だった。
彼はドアの前で膝を抱え、頭を抱えていた。
キャップは床に落ちている。マスクは外れていて、その下に隠されていた横顔が、廊下の薄暗い照明の中にさらされていた。
息をのんだ。
……きれいな人だ。
整いすぎた目鼻立ち。どこか憂いを帯びた、吸い込まれそうな横顔。
彼が顔を上げた瞬間、私は自分が見た光景を理解するのに時間がかかった。
どこかで見覚えがある。
毎日通勤電車で見かける広告の、テレビのニュース番組の隅っこで、いつもキラキラした笑顔を振りまいているあのグループ。
「……瀬名、湊……?」
思わず名前を口にしていた。
テレビの中では、太陽みたいに眩しくて、王子様と言われているアイドル。
その人が今、私の家の前で、こんなに無防備で、こんなに弱々しい姿で、一人で震えている。
彼はぼんやりとした瞳で、私を見上げた。
焦点が合っていないような、虚ろな目。
「……あ」
彼は、私だと気づいていないようだった。
あるいは、誰が来てもどうでもいいと思っているのか。
私は、どうしていいかわからず、その場に立ち尽くした。
知ってしまった。
このマンションに住む、孤独で無愛想な隣人の正体を。
それは、私の平穏な生活が終わり、波乱の扉が開く合図だとも知らずに。




