第2話 嘘を見抜く少女
ランプの灯りが、坂の石壁を揺らしている。
白衣の男は、道の真ん中から動かなかった。
大人二人がようやくすれ違えるほどの、狭い上り坂。
床は石畳で、真ん中には車輪の跡が二本、浅い溝になって刻まれている。何度も、何度も、同じ場所を台車が通った跡だ。
その溝の先に、外へ通じる木戸がある。男の白衣の向こうに隠れて、今は見えない。
エヴァは、後ろに下がりそうになる足を、その場に縫い止めた。
背後には格子扉。その奥には、男の死体が転がる部屋。
戻る場所など、どこにもない。
「……そんなに怖い顔をしないでほしいな」
男が、ふっと肩の力を抜いた。
ランプを足元の石に置き、空いた手を胸の前で軽く広げてみせる。武器は持っていない、とでも言うように。
「いきなり道を塞いだのは、僕が悪かった。順番を間違えたね。まずは、名乗るところから始めよう」
男は、眼鏡を押し上げた。
「僕はベルナール。この施設の研究者で……君の担当だった」
担当。
その言葉が、冷たい指のように首筋を撫でた。
「君には、知る権利がある。だから、本当のことを話すよ」
ベルナールは、言葉を選ぶように一度目を伏せた。
「君は、廃棄物と判定された。実験の成果が出なかった被験体は、そう呼ばれて処分される。……判定を下したのは、僕だ」
エヴァは、息を呑んだ。
台車。汚れた布。足首の札。
あの部屋で見たものが、一つの言葉で繋がっていく。
「でも、それは僕の誤りだった。君の身体は、失敗なんかじゃなかったんだ。むしろ逆だよ」
ベルナールの視線が、エヴァの銀色の髪をなぞる。
「それと、もう一つ。これは、君にとって良くない話だ」
声が、わずかに低くなった。
「さっき君を動かしたもの――血への渇きは、また来る。必ず来る。今は満たされていても、半日もすれば、また喉が焼けるように乾き始める」
「……また?」
「そう。外に出ても、それは変わらない。君はまた、誰かを襲うことになる」
エヴァの脳裏に、天井を見つめたままの目が浮かんだ。
見開かれたまま、もう何も映さない目。
指先が、かすかに震えた。
「だから、僕に任せてほしい。その渇きを抑える方法を、一緒に探そう。君がこれ以上、誰も傷つけずに済むように」
穏やかな声だった。
嘘は、言っていない気がした。少なくとも、今の言葉には。
エヴァは、自分の手のひらを見下ろした。
まだ、赤いものがこびりついている。拭っても拭っても、指の間に残っていた。
(また、誰かを)
外に出たとして、その先に何があるのか。
自分が誰なのかもわからない。帰る場所も思い出せない。
あるのは、喉の奥に眠っている渇きだけ。それがまた目を覚ませば、今度は誰の首筋に噛みつくのだろう。
この人の言うとおりにすれば、それを止められるのかもしれない。
一瞬だけ、そう思った。
思ってしまった自分が、ひどく怖かった。
「……それで」
エヴァは、唇を湿らせた。
口の中には、まだ鉄の味が残っている。
「私は、どうすればいいんですか」
ベルナールの表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「まずは、検査が必要だ。君の身体に何が起きたのか、きちんと調べないといけない。血の状態、髪の変化、それから――」
「どこで、ですか」
「部屋だよ。設備は部屋にある。だから、さっきの部屋に戻ろう。大丈夫、すぐに済むから」
エヴァは、まばたきを一つした。
(部屋に、設備……?)
あの石室を思い出す。
窓のない、狭い部屋。あったのは、壁際の台車と、汚れた布だけだった。
検査の道具など、一つもない。
「あの部屋には、台車しかありませんでした」
ベルナールの口が、一瞬止まった。
「……ああ、いや。部屋というのは、君がいた区画のことじゃなくて。その、研究棟の……奥の部屋のことだよ。言い方が悪かった」
言い直した。
ガストンの記憶の中で、この人は一度も言葉に詰まらなかった。責める時でさえ、きちんと順番に話していた。
それなのに、今の言葉だけ、順番が崩れた。
エヴァは、ベルナールの手元に目を落とす。
足元のランプの横に、細いガラスの小瓶と、小さな鋏が置かれていた。
「その鋏は、何を切るためのものですか」
「これは……」
「生きている人を調べるための道具には、見えません」
ベルナールは答えなかった。
ガストンの記憶が、静かに蘇る。
――処分の前に、検体の記録を取る。それが手順だ。
――記録のない廃棄は、僕の責任になる。
(この人は、私の髪を切りに来たんだ)
死体になった被験体から、最後の記録を採るために。
部屋に戻ろうと言ったのも、たぶん同じこと。台車が待つあの部屋に、戻そうとしている。
エヴァは、まっすぐにベルナールを見た。
「一つだけ、聞かせてください」
「……何かな」
「検査が終わったら、私をここから出してくれますか」
坂の上から、冷たい風が吹き下ろしてきた。
ランプの炎が、大きく傾ぐ。
「それは……」
ベルナールの指が、眼鏡に伸びた。
押し上げる。けれど眼鏡はずれていない。指はそのまま、つるの上で止まった。
「それは、僕が決めることじゃ……決めることじゃないんだ。検査の結果次第で、その、結果が良ければきっと……きっと、悪いようには……」
「決められないんですね」
エヴァの声は、自分でも驚くほど静かだった。
「出してくれるとは、言わないんですね」
ベルナールは、口を開いたまま固まっていた。
やがて、その唇がゆっくりと閉じる。
「……君は、賢いね」
眼鏡の奥で、何かが切り替わった。
「なら、話はここまでだ」
ベルナールの手が、白衣の内側に滑り込んだ。
取り出されたのは、細い硝子の筒だった。先端に、長い針が光っている。
エヴァの足が、凍りついた。
針。
あの針だ。
見たことがある。何度も、何度も。
思い出せないはずなのに、腕の内側が、その冷たさを覚えていた。皮膚の下に沈んでいく感触も、その後に来る、手足が鉛のように重くなる感覚も。
冷たい台。手首に食い込む革の帯。
覗き込む影と、腕に沈んでいく、細い痛み。
(いや……)
「すぐに眠くなる。それだけだよ。痛くはしない」
ベルナールが、一歩踏み出した。
エヴァは下がろうとする。けれど、背中が格子扉に当たった。鉄の棒が、肩甲骨に食い込む。
ベルナールの手が、エヴァの手首をつかんだ。
痣の上だった。
赤黒い輪の痕を、指が正確に締めつける。
頭の奥が、真っ白になった。
縛られている。また、縛られている。
逃げられない。動けない。声も出ない。
何度も、何度も、こうやって押さえつけられてきた。
「やっぱり。こんなに細い腕じゃ、何もできないよ」
ベルナールの声は、ほっとしたように柔らかかった。
「怖がらなくていい。目が覚めたら、全部終わってるから。痛くは、しないから」
針の先が、腕に近づいてくる。
ランプの灯りを受けて、先端が白く光った。
あと、指一本分。
(――嫌)
あの部屋の隅で、膝を抱えようとした自分がいた。
小さくなっていれば、見つからない。じっとしていれば、早く終わる。
ずっと、そうしてきた。
(もう、嫌)
台車に載せられて、坂の上の木戸から運び出される。
布をかけられ、足首の札だけを揺らしながら。
(戻らないって、決めた)
エヴァは、つかまれた腕に力を込めた。
押し返す。
ベルナールの腕が、あっけなく持ち上がった。
「……え?」
ベルナールの声が、裏返った。
針の先が、エヴァの腕から離れていく。一寸、二寸。彼が両腕で押し込もうとしても、止まらない。
「な……なんで。待って、なんで……」
エヴァ自身も、驚いていた。
重いはずの身体が、軽い。
枯れ枝のような腕なのに、男の腕を押し返している。
ふと、手のひらに、知らない感触が蘇った。
車輪の軋む台車を押す、節くれだった手。重い荷を毎晩運び続けた、太い腕の感覚。
エヴァは、もう片方の手でベルナールの手首をつかんだ。
ひねる。
「あ、ぐっ……!」
注射器が指から離れ、石の床に落ちた。
硝子の割れる、乾いた音。
中の液体が、坂を伝って流れていく。
ベルナールが、よろめきながら後ずさる。
その足が、置いていたランプを蹴った。
ランプが倒れ、転がる。
灯りが壁から壁へと大きく揺れ、二人の影をめちゃくちゃに引き伸ばした。
「なんで……こんな、こんなはずは……」
ベルナールは、自分の手首を押さえていた。
信じられないものを見る目で、エヴァを見ている。
「君の腕は、こんなに細いのに。廃棄の前は、まともに立つことも……立つこともできなかったのに……!」
ベルナールの視線が、坂の下へ走った。
格子扉の向こう、廊下の奥。人を呼べば、見張りの兵が駆けつけてくるはずの方向だ。
けれど、彼の唇は動かなかった。
呼べば、知られてしまう。
廃棄と判定した被験体が、生きて歩いていること。自分の判定が誤っていたこと。
その責任が、誰に向かうのか。
ガストンの記憶の中で、彼はその言葉を口にしていた。
――記録のない廃棄は、僕の責任になる。
(この人も、怖いんだ)
ガストンが、この人を怖がっていたように。
この人もまた、誰かを怖がっている。
エヴァは、一歩前に出た。
ベルナールが、一歩下がる。
坂を、逆に上っていく。
追う者と、追われる者が、さっきとは入れ替わっていた。
ベルナールの背中が、石壁にぶつかった。
逃げ場を探して、左右に目が泳ぐ。
エヴァは、その胸元を片手で押さえた。
それだけで、ベルナールは壁に縫い止められたように動けなくなった。
「やめ……」
そのとき。
エヴァの喉の奥で、何かが疼いた。
目の前に、ベルナールの首筋がある。
白い肌の下で、青い血管がどくどくと脈打っていた。速い。怯えた獣のように、速い。
その脈の音が、やけに大きく聞こえる。
(……喉が)
乾いていく。
さっき満たされたはずなのに。半日もすれば、と彼は言ったのに。
焼けるような渇きが、喉の奥からせり上がってくる。
――君はまた、誰かを襲うことになる。
ベルナールの言葉どおりだった。
エヴァの唇が、ゆっくりと開く。
ベルナールの顔から、血の気が引いた。
見開かれた目に、緋く光る二つの瞳孔が映り込んでいる。
「待って」
眼鏡が、鼻の上でずれていた。
押し上げる指は、もう動かない。
「待って、待ってくれ。お願いだ。僕には……僕には、妹が――」




