第1話 処分済みの少女
石の床に、男が仰向けに倒れていた。
その上に、少女が覆いかぶさっている。
少女の歯は、男の首筋に深く沈んでいた。
喉が鳴る。
一度。二度。
男の指が床を掻いた。爪が石の目地に引っかかり、かすれた音を立てる。
少女は離れない。
細い腕のどこにそんな力があるのか、男の肩を押さえつけたまま、ただ飲み続けている。
狭い部屋だった。
大人が三人も入れば身動きが取れなくなるほどの石室で、窓はない。
壁際には、木製の台車が一台。人ひとりがちょうど横たわれる長さで、荷台には汚れた布が敷かれている。
分厚い鉄扉は、半ばまで開いていた。その隙間から、廊下のランプの灯りが細く差し込んでいる。
灯りが、少女の姿を照らした。
裾の裂けた麻の貫頭衣。骨の浮いた手足。
くすんだ金色の髪が、男の胸元に垂れている。その中に一房だけ、色の抜け落ちたような銀の筋が混じっていた。
男の手が、少女の肩を叩いた。
押しのけようとしたのか、それとも助けを求めたのか。
叩く力は、すぐに弱くなった。
やがて腕は床に落ち、二度と持ち上がらなかった。
それでも、少女は止まらない。
冷えていく男の身体から、最後の温もりまで飲み干そうとするように、首筋に顔を埋め続けた。
――その時。
少女の中に、知らない景色が流れ込んできた。
◇◆◇◆◇◆
ギシ、ギシと車輪が軋む。
台車を押しているのは、節くれだった男の手だ。
荷台には、布をかけられた何かが載っている。布の端から、細い足首がはみ出していた。足首には、番号を刻んだ札がぶら下がっている。
(重くはねえ。どいつもこいつも、軽い)
石の廊下を抜け、格子扉をくぐる。その先は、なだらかな上り坂だ。
坂の突き当たりの木戸を開ければ、外の夜気が流れ込んでくる。
何度も、何度も通った道だった。
景色が切り替わる。
「ガストン。君は、僕の言ったことを理解していなかったのかな」
白衣の若い男が、目の前に立っていた。
細い銀縁の眼鏡を、指で押し上げる。その仕草だけで、喉が締めつけられた。
「処分の前に、検体の記録を取る。それが手順だと伝えたはずだよ。記録のない廃棄は、僕の責任になる。僕の責任になるということは、つまり――」
「へ、へえ。申し訳ありやせん」
頭を下げる。握りしめた帽子が、手の中でくしゃくしゃに潰れた。
逆らえば、次に台車に載るのは自分かもしれない。
その恐怖が、腹の底から這い上がってくる。
◇◆◇◆◇◆
少女は、口を離した。
(……今の、は?)
荒い息が漏れる。
口の中に、鉄の味が満ちていた。
ぬるりとしたものが、唇から顎へ伝い落ちる。手の甲で拭うと、赤い色がべっとりと付いた。
(血……?)
視線を落とす。
自分の下に、男が倒れていた。
見開かれた目は天井を向いたまま、もう何も映していない。首筋には、小さな二つの傷。
少女は跳ねるように後ずさった。
背中が石壁にぶつかる。
(私が……やったの?)
覚えていない。
なぜこの部屋にいるのかも。なぜ、この男に噛みついたのかも。
それなのに、この男の顔だけは知っていた。知っているどころではない。ついさっきまで、自分がこの男だったような気さえする。
(ガストン)
名前が、自然に浮かんだ。
白衣の男にそう呼ばれていた。帽子を握りしめて、頭を下げていた。
それは、この男の記憶のはずだ。どうして、それが自分の中にあるのか。
(なら、私は……誰?)
頭の中を探る。
何もない。真っ暗な井戸を覗き込んでいるように、底が見えない。
ただ一つだけ、指先に引っかかるものがあった。
(……エヴァ?)
エヴァ。
エヴァって、何だろう。
そう呼ばれていたような気がする。誰に、いつ呼ばれていたのかは思い出せない。けれど、その響きだけが、かすかに温かかった。
少女――エヴァは、自分の手を見下ろした。
両の手首に、赤黒い痣が輪になって残っている。何かで長く縛られていた痕だ。
腕は枯れ枝のように細い。立ち上がる力など、残っていないはずの身体だった。
それなのに、壁に手をつくと、あっさりと立ち上がることができた。膝も震えない。
部屋の隅に目を向ける。
灯りの届かない暗がりのはずなのに、石の継ぎ目の一本一本までがはっきりと見えた。床に転がる木屑も、壁を這う小さな虫も。
肩から、髪がこぼれ落ちた。
鉄扉の隙間から差し込む灯りが、それを照らす。
銀色だった。
根元から毛先まで、月の光を紡いだような、艶のある銀色。
(これが、私の髪?)
見覚えがあるような、ないような。
自分の身体なのに、自分のものではない。
まるで、知らない何かに作り替えられてしまったかのように。
エヴァは、倒れた男を見つめた。
人を、殺した。
その事実だけが、冷たい石のように胸の底へ沈んでいく。
視線が、壁際の台車で止まった。
ガストンの記憶の中で、彼が押していた台車。
同じ形だった。同じように、汚れた布が敷かれている。
布には、茶色く乾いた染みがいくつも重なっていた。
エヴァは、喉元に手をやった。
指先に、硬いものが触れる。紐で首から下げられた、小さな金属の札だった。
灯りにかざすと、刻まれた文字が読めた。
――B-VII
記憶の中の、細い足首を思い出す。
あの足首にも、同じような札が下がっていた。
(あの台車には……次は、私が載るはずだった)
背筋が凍りついた。
この男は、処分する者を運んでいた。そして今夜、この部屋に来たのは――。
エヴァは鉄扉に駆け寄った。
隙間に手をかけ、廊下へ踏み出そうとする。
カツン、と。
遠くで、何かが鳴った。
身体が勝手に止まった。
足音だ。そう思った瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
冷たい台。手首に食い込む革の帯。
覗き込む誰かの影。腕に刺さる、細い針。
(いや……いや……!)
気づけば、エヴァは部屋の奥へ後ずさっていた。
壁の隅。膝を抱えて小さくなっていれば、誰にも見つからない。そんな場所へ、身体が勝手に戻ろうとしている。
――だめ。
エヴァは、歯を食いしばった。
ここに残れば、次は台車だ。あの布の上に寝かされて、坂の上の木戸から運び出される。
(戻らない。もう、戻らない)
足音は、それきり途絶えていた。
エヴァはゆっくりと息を吐き、倒れた男へ向き直った。
男の腰には、鉄の輪に通された鍵束がぶら下がっている。
近づきたくなかった。ついさっき、自分が殺した相手だ。見開いたままの目が、こちらを責めているような気がする。
それでも、エヴァは膝をつき、自分から手を伸ばした。
革紐をほどく。鍵束が、じゃらりと重い音を立てた。
(……ごめんなさい)
廊下は、ひんやりとした石造りだった。
等間隔に掛けられたランプが、床に丸い灯りの溜まりを作っている。その間の暗がりも、今のエヴァには昼間のように見えた。
道は、知っていた。
ガストンが何度も台車を押した道だ。この先を右へ。突き当たりに格子扉。それを抜ければ、外へ続く上り坂。
知らないはずの道を、エヴァの足は迷わずに進んだ。
格子扉は、記憶のとおりの場所にあった。
太い鉄の棒が縦に並び、通路を完全に塞いでいる。錠前には、親指が入りそうなほど大きな鍵穴。
エヴァは鍵束を持ち上げた。
鍵は、十本以上ある。
(どれ……?)
ガストンなら、迷わず選んだだろう。指先が、形を覚えていたはずだ。
けれど、エヴァの指は何も覚えていない。
一本目。入らない。
二本目。入るが、回らない。
金属の擦れる音が、廊下に反響する。
(静かに……お願い、静かにして)
手が震える。鍵束が揺れて、また音が鳴る。
コツ、コツ、コツ。
今度は、はっきりと聞こえた。
足音だ。石の壁に反響して、どこから近づいてくるのかわからない。
五本目。回らない。
六本目。
ガチリ、と重い手応えがあった。
錠前が外れる。
エヴァは格子扉を押し開け、その向こうへ滑り込んだ。
格子扉の先には、上り坂が続いていた。
その坂の途中で、灯りが一つ揺れている。
エヴァは足を止めた。
足音の主は、後ろではなかった。
手提げのランプを掲げて、白衣の若い男が立っていた。
もう片方の手には、細いガラスの小瓶と、小さな鋏。
細い銀縁の眼鏡。
その奥の、寝不足で落ちくぼんだ目。
(この人……)
ガストンの記憶で見た顔だった。
帽子を握りしめるガストンを、冷たい声で責めていた男。
けれど、それだけではなかった。
エヴァの身体が、勝手に一歩下がる。
背中が粟立ち、指先が冷たくなる。
記憶にはない。思い出せない。それなのに、身体がこの男を知っている。
男もまた、動きを止めていた。
ランプの灯りが、エヴァの全身をなぞる。口元の血。しっかりと石を踏む素足。そして、肩に流れる髪。
「……B-VII ?」
かすれた声だった。
「いや、そんなはずは……ない。君は、廃棄が決まって……決まっていたはずだ。それに、その髪は――」
男の視線が、銀色の髪に吸いつく。
眼鏡を押し上げる指が、小刻みに震えていた。
「一房だけだった。あの変化は一房で止まって……止まったから、僕は失敗だと判断したんだ。それが、全部……全部、銀に……」
男は、手にした小瓶と鋏を見下ろした。
もう必要なくなった、とでもいうように。
顔を上げた時、男の目から怯えが消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、エヴァの知らない種類の光だった。飢えた者が、ようやく食べ物を見つけた時のような。
「……B-VII」
男は、穏やかな声で言った。
「怖がらなくていい。大丈夫だよ。君の身体には今、とても大事なことが起きているんだ。きちんと調べなければいけない。だから、部屋に戻ろう」
男が、ゆっくりと手を差し伸べる。
白衣の袖が揺れた。
その手が近づいた瞬間、エヴァの腕に、細い針の痛みが蘇った。
「……嫌です」
声が出た。
自分の声を聞いたのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
男の手が、宙で止まる。
「戻りません。私は、もう……あそこには戻りません」
男は、しばらく黙っていた。
それから差し伸べていた手を下ろし、一歩、横へ動いた。
坂の幅は、大人二人がようやくすれ違えるほど。男が真ん中に立つだけで、その先の木戸は見えなくなった。
「そうか」
男は、眼鏡を押し上げた。
「なら、仕方ないね。君を部屋に戻すのは、僕の仕事なんだ。それに……僕には、君がどうしても必要なんだよ」
外へ続くたった一本の道を、白衣の男が塞いでいた。




