↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

第1話 処分済みの少女

 石の床に、男が仰向けに倒れていた。

 その上に、少女が覆いかぶさっている。

 少女の歯は、男の首筋に深く沈んでいた。


 喉が鳴る。

 一度。二度。


 男の指が床を掻いた。爪が石の目地に引っかかり、かすれた音を立てる。


 少女は離れない。


 細い腕のどこにそんな力があるのか、男の肩を押さえつけたまま、ただ飲み続けている。


 狭い部屋だった。


 大人が三人も入れば身動きが取れなくなるほどの石室で、窓はない。

 壁際には、木製の台車が一台。人ひとりがちょうど横たわれる長さで、荷台には汚れた布が敷かれている。

 分厚い鉄扉は、半ばまで開いていた。その隙間から、廊下のランプの灯りが細く差し込んでいる。


 灯りが、少女の姿を照らした。

 裾の裂けた麻の貫頭衣。骨の浮いた手足。

 くすんだ金色の髪が、男の胸元に垂れている。その中に一房だけ、色の抜け落ちたような銀の筋が混じっていた。


 男の手が、少女の肩を叩いた。

 押しのけようとしたのか、それとも助けを求めたのか。

 叩く力は、すぐに弱くなった。

 やがて腕は床に落ち、二度と持ち上がらなかった。


 それでも、少女は止まらない。

 冷えていく男の身体から、最後の温もりまで飲み干そうとするように、首筋に顔を埋め続けた。


 ――その時。

 少女の中に、知らない景色が流れ込んできた。


◇◆◇◆◇◆


 ギシ、ギシと車輪が軋む。

 台車を押しているのは、節くれだった男の手だ。

 荷台には、布をかけられた何かが載っている。布の端から、細い足首がはみ出していた。足首には、番号を刻んだ札がぶら下がっている。


(重くはねえ。どいつもこいつも、軽い)


 石の廊下を抜け、格子扉をくぐる。その先は、なだらかな上り坂だ。

 坂の突き当たりの木戸を開ければ、外の夜気が流れ込んでくる。

 何度も、何度も通った道だった。


 景色が切り替わる。


「ガストン。君は、僕の言ったことを理解していなかったのかな」


 白衣の若い男が、目の前に立っていた。

 細い銀縁の眼鏡を、指で押し上げる。その仕草だけで、喉が締めつけられた。


「処分の前に、検体の記録を取る。それが手順だと伝えたはずだよ。記録のない廃棄は、僕の責任になる。僕の責任になるということは、つまり――」


「へ、へえ。申し訳ありやせん」


 頭を下げる。握りしめた帽子が、手の中でくしゃくしゃに潰れた。

 逆らえば、次に台車に載るのは自分かもしれない。

 その恐怖が、腹の底から這い上がってくる。


◇◆◇◆◇◆


 少女は、口を離した。


(……今の、は?)


 荒い息が漏れる。

 口の中に、鉄の味が満ちていた。

 ぬるりとしたものが、唇から顎へ伝い落ちる。手の甲で拭うと、赤い色がべっとりと付いた。


(血……?)


 視線を落とす。

 自分の下に、男が倒れていた。

 見開かれた目は天井を向いたまま、もう何も映していない。首筋には、小さな二つの傷。


 少女は跳ねるように後ずさった。

 背中が石壁にぶつかる。


(私が……やったの?)


 覚えていない。

 なぜこの部屋にいるのかも。なぜ、この男に噛みついたのかも。

 それなのに、この男の顔だけは知っていた。知っているどころではない。ついさっきまで、自分がこの男だったような気さえする。


(ガストン)


 名前が、自然に浮かんだ。

 白衣の男にそう呼ばれていた。帽子を握りしめて、頭を下げていた。

 それは、この男の記憶のはずだ。どうして、それが自分の中にあるのか。


(なら、私は……誰?)


 頭の中を探る。

 何もない。真っ暗な井戸を覗き込んでいるように、底が見えない。

 ただ一つだけ、指先に引っかかるものがあった。


(……エヴァ?)


 エヴァ。

 エヴァって、何だろう。

 そう呼ばれていたような気がする。誰に、いつ呼ばれていたのかは思い出せない。けれど、その響きだけが、かすかに温かかった。


 少女――エヴァは、自分の手を見下ろした。


 両の手首に、赤黒い痣が輪になって残っている。何かで長く縛られていた痕だ。

 腕は枯れ枝のように細い。立ち上がる力など、残っていないはずの身体だった。

 それなのに、壁に手をつくと、あっさりと立ち上がることができた。膝も震えない。


 部屋の隅に目を向ける。

 灯りの届かない暗がりのはずなのに、石の継ぎ目の一本一本までがはっきりと見えた。床に転がる木屑も、壁を這う小さな虫も。


 肩から、髪がこぼれ落ちた。

 鉄扉の隙間から差し込む灯りが、それを照らす。


 銀色だった。

 根元から毛先まで、月の光を紡いだような、艶のある銀色。


(これが、私の髪?)


 見覚えがあるような、ないような。

 自分の身体なのに、自分のものではない。

 まるで、知らない何かに作り替えられてしまったかのように。


 エヴァは、倒れた男を見つめた。

 人を、殺した。

 その事実だけが、冷たい石のように胸の底へ沈んでいく。



 視線が、壁際の台車で止まった。


 ガストンの記憶の中で、彼が押していた台車。

 同じ形だった。同じように、汚れた布が敷かれている。

 布には、茶色く乾いた染みがいくつも重なっていた。


 エヴァは、喉元に手をやった。

 指先に、硬いものが触れる。紐で首から下げられた、小さな金属の札だった。

 灯りにかざすと、刻まれた文字が読めた。


 ――B-VII


 記憶の中の、細い足首を思い出す。

 あの足首にも、同じような札が下がっていた。


(あの台車には……次は、私が載るはずだった)


 背筋が凍りついた。

 この男は、処分する者を運んでいた。そして今夜、この部屋に来たのは――。


 エヴァは鉄扉に駆け寄った。

 隙間に手をかけ、廊下へ踏み出そうとする。


 カツン、と。

 遠くで、何かが鳴った。


 身体が勝手に止まった。

 足音だ。そう思った瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 冷たい台。手首に食い込む革の帯。

 覗き込む誰かの影。腕に刺さる、細い針。


(いや……いや……!)


 気づけば、エヴァは部屋の奥へ後ずさっていた。

 壁の隅。膝を抱えて小さくなっていれば、誰にも見つからない。そんな場所へ、身体が勝手に戻ろうとしている。


 ――だめ。


 エヴァは、歯を食いしばった。

 ここに残れば、次は台車だ。あの布の上に寝かされて、坂の上の木戸から運び出される。


(戻らない。もう、戻らない)


 足音は、それきり途絶えていた。

 エヴァはゆっくりと息を吐き、倒れた男へ向き直った。


 男の腰には、鉄の輪に通された鍵束がぶら下がっている。

 近づきたくなかった。ついさっき、自分が殺した相手だ。見開いたままの目が、こちらを責めているような気がする。

 それでも、エヴァは膝をつき、自分から手を伸ばした。


 革紐をほどく。鍵束が、じゃらりと重い音を立てた。


(……ごめんなさい)



 廊下は、ひんやりとした石造りだった。

 等間隔に掛けられたランプが、床に丸い灯りの溜まりを作っている。その間の暗がりも、今のエヴァには昼間のように見えた。


 道は、知っていた。

 ガストンが何度も台車を押した道だ。この先を右へ。突き当たりに格子扉。それを抜ければ、外へ続く上り坂。


 知らないはずの道を、エヴァの足は迷わずに進んだ。


 格子扉は、記憶のとおりの場所にあった。

 太い鉄の棒が縦に並び、通路を完全に塞いでいる。錠前には、親指が入りそうなほど大きな鍵穴。


 エヴァは鍵束を持ち上げた。

 鍵は、十本以上ある。


(どれ……?)


 ガストンなら、迷わず選んだだろう。指先が、形を覚えていたはずだ。

 けれど、エヴァの指は何も覚えていない。


 一本目。入らない。

 二本目。入るが、回らない。

 金属の擦れる音が、廊下に反響する。


(静かに……お願い、静かにして)


 手が震える。鍵束が揺れて、また音が鳴る。


 コツ、コツ、コツ。


 今度は、はっきりと聞こえた。

 足音だ。石の壁に反響して、どこから近づいてくるのかわからない。


 五本目。回らない。

 六本目。


 ガチリ、と重い手応えがあった。

 錠前が外れる。


 エヴァは格子扉を押し開け、その向こうへ滑り込んだ。



 格子扉の先には、上り坂が続いていた。

 その坂の途中で、灯りが一つ揺れている。


 エヴァは足を止めた。

 足音の主は、後ろではなかった。


 手提げのランプを掲げて、白衣の若い男が立っていた。

 もう片方の手には、細いガラスの小瓶と、小さな鋏。


 細い銀縁の眼鏡。

 その奥の、寝不足で落ちくぼんだ目。


(この人……)


 ガストンの記憶で見た顔だった。

 帽子を握りしめるガストンを、冷たい声で責めていた男。


 けれど、それだけではなかった。

 エヴァの身体が、勝手に一歩下がる。

 背中が粟立ち、指先が冷たくなる。

 記憶にはない。思い出せない。それなのに、身体がこの男を知っている。


 男もまた、動きを止めていた。

 ランプの灯りが、エヴァの全身をなぞる。口元の血。しっかりと石を踏む素足。そして、肩に流れる髪。


「……B-VII ?」


 かすれた声だった。


「いや、そんなはずは……ない。君は、廃棄が決まって……決まっていたはずだ。それに、その髪は――」


 男の視線が、銀色の髪に吸いつく。

 眼鏡を押し上げる指が、小刻みに震えていた。


「一房だけだった。あの変化は一房で止まって……止まったから、僕は失敗だと判断したんだ。それが、全部……全部、銀に……」


 男は、手にした小瓶と鋏を見下ろした。

 もう必要なくなった、とでもいうように。


 顔を上げた時、男の目から怯えが消えていた。

 代わりに浮かんでいたのは、エヴァの知らない種類の光だった。飢えた者が、ようやく食べ物を見つけた時のような。


「……B-VII」


 男は、穏やかな声で言った。


「怖がらなくていい。大丈夫だよ。君の身体には今、とても大事なことが起きているんだ。きちんと調べなければいけない。だから、部屋に戻ろう」


 男が、ゆっくりと手を差し伸べる。

 白衣の袖が揺れた。


 その手が近づいた瞬間、エヴァの腕に、細い針の痛みが蘇った。


「……嫌です」


 声が出た。

 自分の声を聞いたのは、ずいぶん久しぶりな気がした。


 男の手が、宙で止まる。


「戻りません。私は、もう……あそこには戻りません」


 男は、しばらく黙っていた。

 それから差し伸べていた手を下ろし、一歩、横へ動いた。

 坂の幅は、大人二人がようやくすれ違えるほど。男が真ん中に立つだけで、その先の木戸は見えなくなった。


「そうか」


 男は、眼鏡を押し上げた。


「なら、仕方ないね。君を部屋に戻すのは、僕の仕事なんだ。それに……僕には、君がどうしても必要なんだよ」


 外へ続くたった一本の道を、白衣の男が塞いでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。