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第3話 血の刃

 妹。

 その言葉が、耳に届いた。


 けれど、エヴァは止まらなかった。


 止まれなかった、のかもしれない。

 喉の奥で燃え上がった渇きが、言葉の意味を考えるより先に、身体を動かしていた。


 ――部屋に戻ろう。

 ――痛くはしない。


 この人は、そう言って笑った。

 穏やかな声で、台車の待つ部屋へ連れ戻そうとした。腕に針を突き立てようとした。

 騙そうとした相手に、躊躇う余裕など残っていなかった。


 エヴァは、ベルナールの首筋に歯を立てた。


「あ……っ、が……」


 ベルナールの手が、エヴァの肩をつかむ。

 爪が食い込む。押しのけようと、必死に力を込めている。

 けれど、エヴァの身体はびくともしなかった。


 喉が鳴る。

 温かいものが、乾ききった身体の隅々まで染み渡っていく。


 ガストンの時とは違った。

 あの時は、何もわからなかった。気づいた時には、全部が終わっていた。

 今は、わかる。自分が何をしているのか。腕の中で、一人の人間の力が少しずつ抜けていくのが。


 わかっていて、止められない。


 ベルナールの指から、力が抜けた。

 肩をつかんでいた手が、白衣の袖ごと、ずるりと滑り落ちる。


「……ファニー」


 かすれた声が、エヴァの耳元で震えた。


「すまない……」


 それが、最後だった。


 ベルナールの身体が、石壁に沿ってずり落ちていく。

 鼻の上から眼鏡が外れ、かつん、と小さな音を立てて床に落ちた。


(ファニー……?)


 知らない名前だった。

 誰に向けた言葉なのかも、なぜ謝ったのかも、エヴァにはわからなかった。


 ――その時。

 また、知らない景色が流れ込んできた。


◇◆◇◆◇◆


 机の上に、蝋燭が一本だけ灯っている。

 夜更けの研究室だった。


 その向かいに、男が座っていた。

 黒い外套。椅子の背にもたれ、片手で細身の短剣を弄んでいる。

 名前は知らない。知らされたこともない。ただ「使いの男」とだけ、心の中で呼んでいた。


「また失敗か、研究屋」


 男は、短剣の刃を目の高さに持ち上げた。

 そして、その刃先を、ゆっくりと舐めた。


 ぞっと、背筋が冷えた。

 あの刃には、毒が塗られていない。毒など使わなくても、人を殺せる自信があるのだ。

 それが、余計に怖かった。


「も、申し訳……ありません。次の被験体では、必ず。必ず成果を……」


「次、ね」


 男は鼻で笑った。


「あの方は気が長くない。妹の腕の細さでも測っておけ」


 息が止まった。


「お前がしくじれば、次の台に載るのはあの娘だ。お前が切り刻んできた連中と、同じようにな」


 男は短剣を鞘に収め、音もなく立ち上がった。

 扉の前で、一度だけ振り返る。蝋燭の火が、その横顔を半分だけ照らした。


「次は、ないぞ」


 机の下で、拳を握りしめる。

 懐には、小さな押し花の栞が入っていた。最後に会った日、妹がくれたものだ。

 お兄ちゃん、無理しないでね――そう言って笑った顔が、瞼の裏に浮かぶ。


 ファニー。

 僕が死んでも、君は助からない。

 僕が逆らえば、君が台に載る。


 だから、僕は――。


◇◆◇◆◇◆


 エヴァは、ゆっくりと顔を上げた。


 身体が、温かかった。

 冷えきっていた指先にまで、血が巡っている。さっきまで残っていた手の震えも、いつの間にか止まっていた。

 命を一つ飲み干した分だけ、自分の身体が満たされている。その事実から、目を逸らすことはできなかった。


 口元を拭う。

 足元には、ベルナールが倒れていた。その胸元から、色褪せた押し花の栞が半分だけ覗いている。


(ファニー。この人の、妹)


 守れなくて、すまない、と。


 なぜ、兵を呼ばなかったのかもわかった。

 判定の誤りが知られれば、責任を問われる。成果を出せなければ、妹が台に載せられる。

 この人は、ずっと誰かに怯えていた。あの使いの男に。その向こうにいる、「あの方」と呼ばれる誰かに。


(この人も……誰かに、縛られていたんだ)


 自分を台に縛りつけた男が、別の誰かに縛られていた。

 その誰かが何者なのかは、記憶のどこにも残っていなかった。


 エヴァは、自分の手首に目を落とした。

 赤黒い痣の輪。

 この痕をつけた革の帯を締めたのは、きっとこの人だ。針を刺したのも。番号で呼んだのも。


 胸の奥が、ざらついた。

 許せるわけではない。この人がしてきたことは、何も変わらない。

 それでも、ただ憎むだけでは済ませられない何かが、喉の奥に引っかかっていた。



 頭の奥で、何かが疼いていた。


 記憶とは別に、もっと乾いたものが流れ込んでいる。

 文字。数字。図形。

 紙の上に書きつけられた、無数の言葉の断片。


 最初は、意味がわからなかった。

 知らない国の言葉を、いきなり大量に浴びせられたようなものだった。


 それでも、文字を読むことには不思議と抵抗がなかった。

 どこかで、こうして机に向かっていた気がする。誰かに教わりながら、わからない言葉を一つずつ覚えていった気がする。

 それがいつのことだったのかは、やはり思い出せなかった。


 けれど、じっと目を閉じていると、ばらばらだった断片が少しずつ繋がっていく。

 散らばった糸が、一本の紐に撚り合わされていくように。

 頭の巡りが、さっきまでより明らかに速い。


 ――血は、器に従う。

 ――意志によって形を与えられた血は、刃にも、盾にもなる。

 ――傷を介さず、体表より血を滲出させ、これを錬成する。


 研究の名称が、断片の中央に記されていた。


 血装錬成《ブラッドフォージ》。


(これが……あの人が、私に作ろうとしていたもの)


 断片の端に、走り書きのような記録が混じっていた。


 ――被験体B-VII

 ――頭髪の一房に銀化を確認。

 ――血装錬成、発現せず。

 ――吸血衝動、攻撃性ともに著しい。制御不能と判断。

 ――廃棄。


 自分のことだった。

 ほんの数行。たったそれだけの言葉で、自分は台車に載せられることになったのだ。


 ベルナールは、これを完成させられなかった。

 だから、エヴァを失敗作と判定した。


 エヴァは、右手の人差し指を立てた。

 指先に、意識を集める。

 血は器に従う。形を与える。刃の形を、思い描く。


 何も起きない。


 もう一度。

 今度は、指先がじんと熱くなった。皮膚の下で、何かが動く。

 赤い雫が、ぷつりと指先に滲み出た。けれど、それはすぐに形を失い、ただの血になって床に落ちた。


(違う。もっと……はっきりと)


 ベルナールの鋏。使いの男の短剣。

 記憶の中にある刃物の形を、一つずつ思い浮かべる。

 薄く、細く、鋭く。


 三度目。


 指先から滲み出た血が、雫にならずに伸びた。

 細く、薄く、まっすぐに。

 ランプの灯りを受けて、それは小さく緋色に光った。


 指の長さほどの、血の刃だった。


「……できた」


 思わず、声が漏れた。


 ベルナールが、どれだけ追い求めても届かなかったもの。

 それが今、エヴァの指先にある。


 その代わりのように、喉の奥がかすかに疼いた。

 満たされたばかりのはずの渇きが、ほんのわずかに戻ってきている。


(自分の血を、使うから……?)


 エヴァは刃を見つめ、それから、そっと指の力を抜いた。

 刃は溶けるように崩れ、指先に吸い込まれて消えた。



 床に落ちた眼鏡を、拾い上げた。

 細い銀縁。片方のレンズに、小さなひびが入っている。


 ベルナールが、何度も指で押し上げていた眼鏡だ。

 迷った時も、嘘をつく時も、この人はいつもこれに触れていた。


 なぜ拾ったのか、自分でもよくわからなかった。

 ただ、ここに置いていくべきではない気がした。

 ファニーという少女が、どこかで兄の帰りを待っているのなら。


 首から下げた札の紐に、眼鏡のつるを通して結びつける。

 胸元で、B-VIIの札と銀縁の眼鏡が、かちりと触れ合った。


 エヴァは、坂の上を見上げた。


 石畳に刻まれた二本の溝が、闇の奥へ続いている。

 その先に、木戸があった。

 板の隙間から、冷たい夜気と、橙色の揺れる光が漏れていた。


 足音を殺して、木戸の前まで上る。

 板の隙間に、目を寄せた。


 外は、石壁に囲まれた小さな中庭だった。

 ガストンの記憶が、その先を教えてくれる。中庭を抜けた正面に、鉄の門。門を出れば、森へ続く細い荷車道。台車の荷は、いつもその森の奥へ運ばれていった。


 松明が一本、壁の金具に差してある。その下に、男が二人。

 鎖帷子に、腰の剣。一人は槍を壁に立てかけ、もう一人は欠伸を噛み殺していた。


「ガストンの奴、遅えな。今夜も一台運ぶって話だったろ」


「どうせまた、どっかで酒でもくすねてんだろ」


 槍の男が、つまらなそうに笑う。


「そういや、研究屋の若いのが妙なこと言ってたぜ。万が一、被験体が逃げ出したら、殺さずに捕まえろってよ」


「生かしたまま? 面倒くせえ」


「仕方ねえだろ。あいつらは、死体より生きた奴のほうが値打ちがあるんだと。手足の一本くらいなら、折っても構わねえらしいがな」


 エヴァは、息を止めた。


 木戸の外へ出るには、あの二人の前を通るしかない。

 中庭は狭く、身を隠せるような物陰もなかった。

 見つかれば、捕まる。手足を折られて、またあの台に縛りつけられる。


 待つことも考えた。

 ガストンの記憶では、見張りが入れ替わるのは夜明けだ。その時なら、一瞬だけ中庭が空く。

 けれど、それまでにガストンの死体が見つかる。ベルナールの死体も。

 夜が明けるより先に、この施設のすべてが自分を探し始める。


 隠れる場所はない。待つ時間もない。

 残っているのは、あの二人の前を通り抜ける道だけだった。


 エヴァは、自分の右手を見下ろした。


 ガストンを殺した時、自分は自分ではなかった。

 ベルナールを殺した時、自分は渇きに勝てなかった。

 どちらも、エヴァが選んだことではない。


 けれど、今は違う。

 喉は渇いていない。頭もはっきりしている。

 引き返すことも、ここで膝を抱えることもできる。


(それでも――)


 部屋の隅で、小さくなっていた自分。

 台に縛られ、針を刺され、番号で呼ばれていた自分。

 誰かに決められるまま、運ばれるのを待っていた自分。


(もう、誰にも私を委ねない)


 指先に、意識を集める。

 皮膚の下で、血が応えるように熱を帯びた。


 今度は、自分の意思で選ぶ。


 エヴァは、木戸に手をかけた。

 古い蝶番が、ぎい、と長く軋む。


 松明の光が、銀色の髪を照らした。

 二人の兵士が、同時に振り向く。


「――誰だ!」

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