第55話 花火大会①
友人たちとの勉強会から数日後、花火大会当日の昼下がり。
帰省の際に父さんから押し付けられた甚兵衛を身に纏った俺は、明瀬家のリビングで冷えた麦茶を啜っていた。
対面の席では、陽華のお父さん――信幸さんが、ニコニコと微笑んでいる。
「元気そうで何よりだ、辰巳くん。あの子との同棲……失礼、お泊まりはどうだったかな?」
明らかにわざとでしょう、と言いたくなったのをグッと堪えつつ、今日までのおよそ一か月弱の出来事を頭の中で反芻する。
「何と言うか……人間って慣れる生き物なんだなぁ、と」
最初の頃はあれだけ緊張していたのに、今となってはもはや彼女が居ないことに違和感を覚えるようになってしまった。
果たしてこの夏休みが終わった後はどうなってしまうことやら。
微妙な表情を浮かべる俺に、声を上げて笑う信幸さん。
「ははっ、気持ちはわかるよ。私も同棲を始めた直後は随分緊張したものだ。まぁ私たちは交際から同棲開始するまでが長かったから、慣れるのにそこまで時間はかからなかったかな?」
「そういうものですか」
ついに同棲って言ったな。あまり否定できない一方で、彼女のお父さんの前で積極的に肯定するのも憚られる気がする。
沈黙する俺に構わず、信幸さんは上機嫌に語りかけてくる。
「冬休みはどうするんだい? クリスマスは一緒に過ごすとして、辰巳くんも帰省するんだろう?」
「あまり詳しく話してはないですけど、年末年始はそれぞれの家族のところで過ごすことになると思います。イブは一緒に過ごして、そこから先は未定って感じですかね」
「恋人たちの聖夜だからねぇ……ちなみにイブは泊まりでもいいんだよ?」
「……いや、流石に。まだ高一ですし」
「一か月も同せ……お泊まりしておいて今更かい?」
それを言われると反論できない。聖夜だからと必要以上に意識する必要もない、か?
懊悩しているところに、同じ部屋で一か月も生活していたのに一度も手を出さなかった君だからこそ信頼できる、とフォローだか何だかよくわからない言葉を頂いてしまった。
ごっほん、と大きく咳払い。
「ま、まぁクリスマスまで三か月以上ありますし。それだけあれば、俺も陽華も大分落ち着くと思うんで」
「……本当に落ち着くかな?」
数か月もあれば……流石に……。
そんな益体もない話をしている間に、陽華の準備も完了したらしい。
廊下の方から、陽華とお母さん――香陽さんの楽しそうな声が聞こえてくる。
『ねぇママ、ほんとにこれで大丈夫なの? 髪型とかもうちょっと……』
『とっても可愛いから大丈夫よ~。ほら、早く行かないと辰巳くんも待ちくたびれちゃうわよ?』
『うぅ、わかってるよぅ』
二人のそんなやり取りを耳にして、高まる期待に思わず腰が落ち着かなくなってしまう。
固唾を飲んで見守る中で、ゆっくりとリビングのドアが開かれ――その先に立っていた陽華の姿に、俺は大きく息を呑んだ。
「えへへ……ど、どうかな?」
薄い化粧を施した頬を微かに朱に染めて、小さくはにかむ陽華。
彼女が身に纏うのは、澄み渡る夏空を切り取ったかのような、鮮やかな
空色の浴衣だ。袖と裾に刺繍された白い花模様が、彼女の清楚な佇まいをいっそう引き立てている。
いつもは肩で揺れている髪は高くアップにまとめられ、可愛らしいデザインの髪飾りがキラリと光る。
「――――……」
「……た、辰巳くん?」
陽華がとんでもない美少女であることは、十二分に理解していたつもりだった。だったが……まさかこれほどとは。
鮮やかな彩りながらも、華美に過ぎず楚々とした装いの浴衣は、陽華の美貌を上品に引き立てている。
どこか不安げにこちらを見つめる、普段より少し大人びた横顔に心臓が跳ねるのを感じた。
「ど、どうしよう、辰巳くんが動かなくなっちゃった……」
「陽華があんまり綺麗だから見惚れちゃってるのよ。愛されてるわねぇ」
「……なんだか、付き合う前のことを思い出すね。でもそろそろちゃんと褒めてほしいなー?」
呆然と見つめる先で、赤らんだ陽華の頬がぷっくりと膨れるのを見てようやく我に返った。
「……ごめん、あまりにも綺麗でつい見惚れてた。浴衣の意匠もその髪型も、凄く似合ってる。……あいつらに見せるのがもったいないぐらいだ」
「ふふ、喜んでくれてよかった! 辰巳くんのためのオシャレなんだから、たっぷり堪能してね♪」
心の内を正直に綴った褒め言葉は彼女のお眼鏡にかなったらしい。満面の笑みでそんなことを言われれば、本当に独り占めしたくなってしまう。
独占欲を抱く一方で、こんなに可愛い女の子が俺の彼女なのだという優越感もあり……つくづく男というのはどうしようもないなと思う。
内心で呆れつつ、更なる褒め言葉を重ねようとしたところで……生暖かい目で見守る大人の視線に気付いて踏み止まった。
「おや、もういいのかい?」
「これ以上は二人きりの時にやるので」
「ほう」
「あら」
「もう、辰巳くんってば」
感心したような声を漏らす夫婦と、嬉しそうに相好を崩す陽華。
何とも居た堪れない雰囲気の中で、席を立ち陽華の方へ向かう。手元の巾着袋を揺らして朗らかに頷く彼女の様子を見るに、準備は万端のようだ。
花火の前に遊ぶ時間のことを考えれば、早めに向かうに越したことはないだろう。
改めて信幸さんたちに向き直り、二人揃って丁寧に頭を下げた。
「浴衣の用意から着付けまで、本当にありがとう。パパ、ママ。とっても心強かったし、嬉しかった!」
「俺からもお礼を言わせてください、ありがとうございます」
「そんなにかしこまらないで? 娘のためにキレイない衣装を着せてあげるのは、親の役目であり喜びでもあるんだから♪」
「お母さんの言う通りだ。二人とも、存分に楽しんでおいで」
二人の温かい言葉に見送られて、俺たちは明瀬家を後にしたのだった。
§
「すまん、待たせた」
「遅れてごめんね、電車が混んでて……」
「おー、やっと来……おぉ~」
待ち合わせ場所として指定された、花火大会の会場最寄りの駅前。
ランドマークの銅像の前で突っ立っていた橋本を見つけて声をかければ、何やら感心したような声が返ってきた。
「何だよ?」
「いやぁ……お前ら目立つなぁって」
俺たちの姿と周囲の様子を見渡しながらの言葉に、思わず顔を顰める。
その美貌から常に人目を惹きつける陽華が、鮮やかな浴衣で着飾っているのだ。普段の二割増しで注目されるだろうと覚悟していたのだが、やはり見通しが甘かったようだ。
優越感だなんだと暢気なことを考えていた、一時間前の自分を張り倒してやりたくなる。
強面で上背のある俺と密着して移動していたおかげで、直接何かされることこそなかったものの……出店を回る前から相応に疲弊してしまった。
「まぁいいだろそれは。他の皆は?」
「もう集まってるよ。日陰で待ってもらってるから、まずは合流しようぜ」
どうやら俺たちが一番最後に到着したらしい。
残暑が厳しいこの季節に外で待たせてしまったことを申し訳なく思いつつ、人並みをかき分けて橋本の背を追う。
……電車の中でも思ったが、やはり凄まじい人込みだ。
老若男女問わず多くの人々が行きかい、その中には俺たちのように浴衣や甚兵衛を着た人の姿もそれなりの数が見受けられた。
周囲から浮いてしまわないか少し心配だったが、この様子なら大丈夫そうだ。それでも目立つのは避けられなさそうだが。
駅から少し離れた場所にあるベンチの方に向かうと、木陰で涼んでいた面々が手を振って出迎えてくれた。
「あっ、陽華たち来た~! こっちこっち~!」
「こんにちは。陽華、柳田くん」
「お疲れ様っす師匠!」
元気よく飛び跳ねる向井さん、折り目正しく挨拶してくれる高宮さん、ビシッと勢いよく頭を下げる濱崎。
残りの二人、森山と篠原さんも、手を振ったり小さく頭を下げたりして出迎えてくれた。
遅れたことを詫びながら……女性陣の服装を見て、思わず目を瞠った。
「わぁ……! 陽華の浴衣、すっごく綺麗!」
「えぇ、明るいけれど落ち着いた色合いで、陽華にとても似合ってると思うわ」
「ありがとう! そういう二人と詩織ちゃんも、浴衣とっても似合ってるよ! みんなも浴衣を着てくるなんて聞いてなかったからびっくりしちゃった」
「佳凛さんのお家のものを借りたんだけど……ほ、本当に似合ってる? こんなの着るの子どもの時以来で……」
「もちろん!」
「詩織ちゃんかわいいよ~!」
なるほど、高宮さんの浴衣なのか。そう言えば高宮さんは、所謂良家のお嬢様だと聞いたことがあるような……お金持ちの家って浴衣を何着も持っているものなのか?
益体もない疑問を振り払って、両手を合わせて高宮さんに拝む橋本の肩を叩く。
「お前も似合ってるって言ってやれよ」
「今日だけで十回近くは言ってるわ! 俺がいつも何でもかんでも”可愛い”って言ってるせいで、微妙に信用してくれねんだわ」
「あー……」
「バイブスかかってんのは否定しねぇけど、シオは何着ても可愛いんだから胸張ってりゃいいのになぁ」
「バイアスな」
さらりと惚気られた気がするが、傍から見た俺たちもこんな感じなのかもしれないな。
「悪いけど、君たちの場合もっと酷いよ」
「……まだ何も言ってないだろ」
「明らかに渋い顔で何かを言いかけて口を噤んでたからね、大体わかるさ」
「無自覚って行き過ぎると罪っすよねぇ」
「……悪かったよ」
実にムカつく表情で肩を竦める森山と濵崎を睨みつつ……あまり反論もできないので、小さく謝罪の言葉を呟くに留めた。
こほん、と咳払いを挟んで辺りを見回す。
「結局今日集まったのはこれで全員か?」
「まぁなー。赤坂たちは例のサッカー部独り身組の集まりで来ねーし」
「言い方ヤバいっすよ……あ、南はそもそも行かないらしいっす」
「岡くんは……まぁ、言わずもがなというか」
苦笑して言葉を濁す森山の視線の先には、女性陣と楽しそうに談笑する陽華の姿があった。……まぁ、事情は理解した。
「あいつもそろそろ割り切れないもんかなぁ」
「割り切ってはいるでしょ。それはそれとして、好きだった人が別の男と仲睦まじくいちゃついてるのを見るのがキツいだけで」
「どっちにしろ今日来るのはやめた方がよかったっすね。あいつが明瀬さんの浴衣姿なんか見たら、完全に石像になっちゃうっすよ!」
そう言ってけらけらと笑う濱崎に、森山と橋本の白けた視線が突き刺さる。
「未だに今日一度も向井さんを直視できない君が、どの口で岡くんをあげつらってるんだい」
「ガチで関係進めたいんだったら一言褒めるぐらいはやってみろや」
「ぐはぁっ!?」
さっきから明後日の方向を見て話してると思ったらそう言うことか。
数日前の勉強会を通して少しは慣れたものかと思えば、まだまだ先は遠いらしい。
今日の花火大会で距離が縮まればいいが……と他人事のように考えていると、急に橋本がこちらに水を向けてきた。
「師匠だってんなら少しはこいつを見習う姿勢を見せろや。なぁ柳田!」
「そもそも師匠じゃないんだが。何だよいきなり」
「このヘタレバカに手本を見せてやりな! おーい明瀬さーん! 柳田が話があるってさ!」
「おまっ、何を……!」
あまりに不意打ちすぎて止める間もなかった……前にもこんなことがあった気がするな。
高宮さんたちと談笑していた陽華が、橋本の呼びかけに反応してこちらに振り向いた。
純粋な疑問と信頼に満ちた純粋な瞳に見つめられて、思わず怯む。
「あー……その浴衣、本当に似合ってる。綺麗だよ」
「……んふふ、なぁに? もう何度も言ってもらってるよ?」
「時間を置いて改めて思ったんだよ。誉め言葉は何度口にしたっていいだろ?」
「あはは、そうだね! ありがとう辰巳くん、すっごく嬉しい!」
「それならよかった」
満面の笑みで喜ぶ陽華に、俺も笑みを返して……謎のドヤ顔を見せる橋本を睨む。
「見たか濱崎、これがお前が目指すべき姿だ」
「いい加減にしろよお前」
その後も何だかんだ、わちゃわちゃとやり合って。
俺たちが会場に向けて出発したのは、それから十分以上経ってのことだった。




