8話 家族の団欒
その日の夜、豊橋家の食卓は、いつもより静かだった。
広すぎるダイニング。磨き上げられた長机。並べられた料理は一流のはずなのに、味などほとんどしない。父は上座に座り、兄の祐介はその右手側にいる。大学生になって家を出たはずの兄が、こういう時だけ当然のように中心へ戻ってくるのが、いかにも豊橋家らしかった。
そして俺の斜め後ろには、雪乃が立っていた。
メイド服ではない。雪乃家の者として正式な場に出るためか、今日は落ち着いたワンピース姿だった。それでも姿勢は変わらない。俺の後ろに控え、必要があればすぐ動ける距離にいる。
父の視線が、俺ではなく雪乃へ向いた。
「雪乃家の令嬢が、凛の専属を望んだと聞いた」
「はい」
雪乃は一礼した。
「私の意思です」
「豊橋としては悪い話ではない。雪乃家との結びつきは、今後の凛にとって大きな後ろ盾になる」
ほら見ろ、と思った。
結局そうだ。
雪乃の気持ちも、俺の戸惑いも、この家ではすぐに戦力として換算される。誰が誰を好きかではなく、どの家とどの家が結びつくか。誰がどの派閥に立つか。俺の人生はいつだって、そういう盤面の上に置かれる。
祐介が静かに口を開いた。
「凛、お前はどうしたい」
その問いに、俺はすぐ答えられなかった。
どうしたい。
そんなことを聞かれるとは思わなかった。兄はいつも正しい答えを知っている。父の意向を読み、家の利益を考え、もっとも合理的な道を選ぶ。だから今回も、雪乃家との関係を利用しろと言われるのだと思っていた。
「……どうって」
「雪乃さんの好意を、家の都合にするかどうかだ」
兄の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさが余計に刺さる。
「お前が望まないなら、俺から父上に言う。雪乃家との話は、凛個人の問題として扱うべきだと」
思わず兄を見る。
父がわずかに眉を動かしたが、祐介は表情を変えなかった。
「なぜだよ」
「なぜ?」
「兄さんなら、利用しろって言うと思ってた」
言った瞬間、場の空気が冷えた。
父の視線が厳しくなる。けれど祐介は、怒らなかった。むしろ困ったように笑った。
「お前は俺を何だと思っているんだ」
「完璧な豊橋家の後継者」
「それは評価が高すぎるな」
「嫌味かよ」
「本音だ」
兄はそこで、まっすぐ俺を見た。
「凛。俺はお前を駒だと思ったことはない」
胸の奥が、妙にざわついた。
「ただ、お前が何も言わないから、俺はいつも勝手に判断していた。お前は家の争いに巻き込まれたくないのだろうと。俺が前に出れば、お前は少し楽になるのだろうと」
「……そんなの」
違う、と言いたかった。
けれど、本当に違うのか分からなかった。
俺は兄に嫉妬していた。勝ちたいと思っていた。だが同時に、兄が前に立つことで、自分が期待と失望から逃げられていたのも事実だった。
それが悔しかった。
「凛さん」
背後から雪乃の声がした。
振り返ると、彼女は静かに俺を見ていた。いつもの甘い圧ではない。逃げる俺を捕まえる視線でもない。ただ、俺が自分の言葉を選ぶのを待っている顔だった。
「私は、凛さんの意思を聞きたいです」
「雪乃まで、それを聞くのか」
「はい。私は専属ですから」
こんな場でも、その言葉を使うのか。
呆れそうになって、けれど少しだけ救われた。
専属。
雪乃にとってそれは、俺を縛るための言葉だと思っていた。けれど今は違う。俺の後ろに立ち、俺の言葉が潰されないように守るための位置でもあるのだと、ようやく分かった。
俺は箸を置いた。
「俺は、雪乃の気持ちを家の道具にしたくない」
声は震えた。
それでも続けた。
「でも、雪乃がそばにいることを、全部拒む気もない。迷惑だし、重いし、たまに怖いけど」
「凛さん」
「最後まで聞け」
雪乃が口を閉じる。
俺は深く息を吸った。
「それでも、俺のことを見てくれてるのは分かる。兄さんの代わりじゃなくて、豊橋の名前でもなくて、俺を見てるって……少しは、分かってきた」
言い終えた瞬間、顔が熱くなった。
恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。父と兄の前で何を言っているのか。だが、取り消す気にはなれなかった。
雪乃は両手を胸の前で握っていた。
泣きそうな顔だった。
だが、泣かなかった。
「凛さん」
「ただし、学校でメイド服はやめろ」
「それは検討します」
「即答で了承しろ」
「凛さんに見ていただくには、有効ですので」
父の前だぞ。
兄の前だぞ。
そう思ったが、祐介が小さく笑ったせいで、何も言えなくなった。
「雪乃さん」
兄が声をかける。
「はい」
「凛は面倒な男だ。疑い深いし、すぐ逃げる。自分を低く見積もるくせに、負けず嫌いだ」
「存じております」
「そのうえ、素直じゃない」
「存じております」
「おい」
二人して何を確認している。
雪乃は淡々としていたが、どこか誇らしげだった。俺の欠点を列挙されているのに、なぜか嬉しそうですらある。
「ですが、そういうところも含めて、私は凛さんが好きです」
真正面から言われて、思考が止まった。
父が咳払いをした。祐介は楽しそうに目を細めている。俺だけが、逃げ場を失って固まっていた。
雪乃は俺の隣まで歩み寄ると、そっと膝を折った。
まるで本物のメイドのように、俺の視線より低い位置から見上げてくる。その仕草は従順なのに、瞳だけは絶対に逃がさない強さを持っていた。
「凛さんが私を信じられるまで、私は待ちます。ですが、他の誰かに譲るつもりはありません」
「……譲るって何を」
「凛さんの隣です」
甘くて、重い。
その言葉に、心臓が嫌なほど跳ねた。
「ひかりさんにも、祐介様にも、豊橋家のどなたにも。凛さんの一番近くは、私がいただきます」
「お前、今さらっと兄さんまで対象に入れたな」
「念のためです」
「何の念だよ」
「凛さんは自覚が薄いので」
父の前でなければ、頭を抱えていた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
重い。危うい。少し間違えば、俺ごと全部抱え込もうとするような好意だ。けれど、その中心には確かに俺がいる。豊橋家の駒ではなく、兄の劣化版でもなく、ただの豊橋凛としての俺が。
祐介が席を立った。
「父上。雪乃家との件は、凛個人の意思を優先する。それでよろしいですね」
父はしばらく黙っていたが、やがて短く息を吐いた。
「好きにしなさい。ただし、豊橋の名に傷をつけるな」
それが父なりの許可なのだろう。
食事の場が終わると、俺は廊下に出た。背後には、また雪乃がついてくる。
「凛さん」
「何だ」
「先ほどの言葉、とても嬉しかったです」
「忘れろ」
「一生覚えています」
「重い」
「はい」
認めるな。
そう言おうとした瞬間、雪乃が俺の袖を軽く掴んだ。
驚いて振り返る。
彼女は少しだけ俯いていた。
「今日は、少しだけ不安でした」
「お前でも?」
「はい。凛さんが、私を家の都合ごと嫌いになるのではないかと」
その声は小さかった。
俺はようやく気づく。
雪乃は強引で、完璧で、怖いくらい俺を見ている。けれど、その内側ではずっと怯えているのだ。自分の好意をまた嘘にされることを。重いと拒まれることを。俺のそばにいる理由を失うことを。
俺は袖を掴む彼女の手を見た。
白く細い指が、かすかに震えている。
「嫌いには、なってない」
それだけ言うのが精一杯だった。
雪乃が顔を上げる。
「本当ですか」
「嘘はつかない」
雪乃は数秒固まった後、ゆっくりと微笑んだ。
その笑顔は、今までで一番危うくて、一番嬉しそうだった。
「では明日も、お弁当を作ります」
「量は減らせ」
「愛情もですか?」
「それは……加減しろ」
「努力します」
絶対にする気がない返事だった。
俺はため息をついた。
それでも、袖を掴む手を振り払うことはしなかった。
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