表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

8話 家族の団欒

 その日の夜、豊橋家の食卓は、いつもより静かだった。


 広すぎるダイニング。磨き上げられた長机。並べられた料理は一流のはずなのに、味などほとんどしない。父は上座に座り、兄の祐介はその右手側にいる。大学生になって家を出たはずの兄が、こういう時だけ当然のように中心へ戻ってくるのが、いかにも豊橋家らしかった。


 そして俺の斜め後ろには、雪乃が立っていた。


 メイド服ではない。雪乃家の者として正式な場に出るためか、今日は落ち着いたワンピース姿だった。それでも姿勢は変わらない。俺の後ろに控え、必要があればすぐ動ける距離にいる。


 父の視線が、俺ではなく雪乃へ向いた。


「雪乃家の令嬢が、凛の専属を望んだと聞いた」


「はい」


 雪乃は一礼した。


「私の意思です」


「豊橋としては悪い話ではない。雪乃家との結びつきは、今後の凛にとって大きな後ろ盾になる」


 ほら見ろ、と思った。


 結局そうだ。


 雪乃の気持ちも、俺の戸惑いも、この家ではすぐに戦力として換算される。誰が誰を好きかではなく、どの家とどの家が結びつくか。誰がどの派閥に立つか。俺の人生はいつだって、そういう盤面の上に置かれる。


 祐介が静かに口を開いた。


「凛、お前はどうしたい」


 その問いに、俺はすぐ答えられなかった。


 どうしたい。


 そんなことを聞かれるとは思わなかった。兄はいつも正しい答えを知っている。父の意向を読み、家の利益を考え、もっとも合理的な道を選ぶ。だから今回も、雪乃家との関係を利用しろと言われるのだと思っていた。


「……どうって」


「雪乃さんの好意を、家の都合にするかどうかだ」


 兄の声は穏やかだった。


 だが、その穏やかさが余計に刺さる。


「お前が望まないなら、俺から父上に言う。雪乃家との話は、凛個人の問題として扱うべきだと」


 思わず兄を見る。


 父がわずかに眉を動かしたが、祐介は表情を変えなかった。


「なぜだよ」


「なぜ?」


「兄さんなら、利用しろって言うと思ってた」


 言った瞬間、場の空気が冷えた。


 父の視線が厳しくなる。けれど祐介は、怒らなかった。むしろ困ったように笑った。


「お前は俺を何だと思っているんだ」


「完璧な豊橋家の後継者」


「それは評価が高すぎるな」


「嫌味かよ」


「本音だ」


 兄はそこで、まっすぐ俺を見た。


「凛。俺はお前を駒だと思ったことはない」


 胸の奥が、妙にざわついた。


「ただ、お前が何も言わないから、俺はいつも勝手に判断していた。お前は家の争いに巻き込まれたくないのだろうと。俺が前に出れば、お前は少し楽になるのだろうと」


「……そんなの」


 違う、と言いたかった。


 けれど、本当に違うのか分からなかった。


 俺は兄に嫉妬していた。勝ちたいと思っていた。だが同時に、兄が前に立つことで、自分が期待と失望から逃げられていたのも事実だった。


 それが悔しかった。


「凛さん」


 背後から雪乃の声がした。


 振り返ると、彼女は静かに俺を見ていた。いつもの甘い圧ではない。逃げる俺を捕まえる視線でもない。ただ、俺が自分の言葉を選ぶのを待っている顔だった。


「私は、凛さんの意思を聞きたいです」


「雪乃まで、それを聞くのか」


「はい。私は専属ですから」


 こんな場でも、その言葉を使うのか。


 呆れそうになって、けれど少しだけ救われた。


 専属。


 雪乃にとってそれは、俺を縛るための言葉だと思っていた。けれど今は違う。俺の後ろに立ち、俺の言葉が潰されないように守るための位置でもあるのだと、ようやく分かった。


 俺は箸を置いた。


「俺は、雪乃の気持ちを家の道具にしたくない」


 声は震えた。


 それでも続けた。


「でも、雪乃がそばにいることを、全部拒む気もない。迷惑だし、重いし、たまに怖いけど」


「凛さん」


「最後まで聞け」


 雪乃が口を閉じる。


 俺は深く息を吸った。


「それでも、俺のことを見てくれてるのは分かる。兄さんの代わりじゃなくて、豊橋の名前でもなくて、俺を見てるって……少しは、分かってきた」


 言い終えた瞬間、顔が熱くなった。


 恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。父と兄の前で何を言っているのか。だが、取り消す気にはなれなかった。


 雪乃は両手を胸の前で握っていた。


 泣きそうな顔だった。


 だが、泣かなかった。


「凛さん」


「ただし、学校でメイド服はやめろ」


「それは検討します」


「即答で了承しろ」


「凛さんに見ていただくには、有効ですので」


 父の前だぞ。


 兄の前だぞ。


 そう思ったが、祐介が小さく笑ったせいで、何も言えなくなった。


「雪乃さん」


 兄が声をかける。


「はい」


「凛は面倒な男だ。疑い深いし、すぐ逃げる。自分を低く見積もるくせに、負けず嫌いだ」


「存じております」


「そのうえ、素直じゃない」


「存じております」


「おい」


 二人して何を確認している。


 雪乃は淡々としていたが、どこか誇らしげだった。俺の欠点を列挙されているのに、なぜか嬉しそうですらある。


「ですが、そういうところも含めて、私は凛さんが好きです」


 真正面から言われて、思考が止まった。


 父が咳払いをした。祐介は楽しそうに目を細めている。俺だけが、逃げ場を失って固まっていた。


 雪乃は俺の隣まで歩み寄ると、そっと膝を折った。


 まるで本物のメイドのように、俺の視線より低い位置から見上げてくる。その仕草は従順なのに、瞳だけは絶対に逃がさない強さを持っていた。


「凛さんが私を信じられるまで、私は待ちます。ですが、他の誰かに譲るつもりはありません」


「……譲るって何を」


「凛さんの隣です」


 甘くて、重い。


 その言葉に、心臓が嫌なほど跳ねた。


「ひかりさんにも、祐介様にも、豊橋家のどなたにも。凛さんの一番近くは、私がいただきます」


「お前、今さらっと兄さんまで対象に入れたな」


「念のためです」


「何の念だよ」


「凛さんは自覚が薄いので」


 父の前でなければ、頭を抱えていた。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 重い。危うい。少し間違えば、俺ごと全部抱え込もうとするような好意だ。けれど、その中心には確かに俺がいる。豊橋家の駒ではなく、兄の劣化版でもなく、ただの豊橋凛としての俺が。


 祐介が席を立った。


「父上。雪乃家との件は、凛個人の意思を優先する。それでよろしいですね」


 父はしばらく黙っていたが、やがて短く息を吐いた。


「好きにしなさい。ただし、豊橋の名に傷をつけるな」


 それが父なりの許可なのだろう。


 食事の場が終わると、俺は廊下に出た。背後には、また雪乃がついてくる。


「凛さん」


「何だ」


「先ほどの言葉、とても嬉しかったです」


「忘れろ」


「一生覚えています」


「重い」


「はい」


 認めるな。


 そう言おうとした瞬間、雪乃が俺の袖を軽く掴んだ。


 驚いて振り返る。


 彼女は少しだけ俯いていた。


「今日は、少しだけ不安でした」


「お前でも?」


「はい。凛さんが、私を家の都合ごと嫌いになるのではないかと」


 その声は小さかった。


 俺はようやく気づく。


 雪乃は強引で、完璧で、怖いくらい俺を見ている。けれど、その内側ではずっと怯えているのだ。自分の好意をまた嘘にされることを。重いと拒まれることを。俺のそばにいる理由を失うことを。


 俺は袖を掴む彼女の手を見た。


 白く細い指が、かすかに震えている。


「嫌いには、なってない」


 それだけ言うのが精一杯だった。


 雪乃が顔を上げる。


「本当ですか」


「嘘はつかない」


 雪乃は数秒固まった後、ゆっくりと微笑んだ。


 その笑顔は、今までで一番危うくて、一番嬉しそうだった。


「では明日も、お弁当を作ります」


「量は減らせ」


「愛情もですか?」


「それは……加減しろ」


「努力します」


 絶対にする気がない返事だった。


 俺はため息をついた。


 それでも、袖を掴む手を振り払うことはしなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

応援が次回更新の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ