7話 比較
翌朝、俺の机には見覚えのない弁当箱が置かれていた。
黒漆の二段重。箸袋には、達筆な字で「凛さんへ」と書かれている。嫌な予感しかしないまま顔を上げると、雪乃が俺の斜め後ろで完璧な角度のお辞儀をした。
「おはようございます。朝食はお済みでしたので、昼食をご用意いたしました」
「学校に重箱を持ち込むな」
「凛さんの栄養管理も専属メイドの務めです」
教室中の視線が刺さる。ひかりは口元を引きつらせながら、俺と弁当を交互に見ていた。
「凛……昨日より悪化してない?」
「俺に聞くな」
「雪乃さん、これ何人前?」
「凛さん一人分です」
「溺愛が物量で来てる」
雪乃は涼しい顔で微笑むだけだった。だが、その指先は俺の机の端に触れている。まるで、そこが自分の領域だと示すように。
昼休みになると、雪乃は当然のように俺の隣へ座った。いや、座る前に周囲を見た。その一瞥だけで、俺に話しかけようとしていた男子たちが数歩下がる。
「凛さん、お口に合えばよろしいのですが」
蓋を開けると、彩りの整った料理が並んでいた。出汁巻き卵、鶏の照り焼き、季節の野菜、炊き込みご飯。見た目だけで分かる。美味い。絶対に美味い。
だから困る。
「……作ったのか」
「はい。凛さんの好みを調べました」
「どうやって」
「ひかりさんに」
俺が振り向くと、ひかりが露骨に目を逸らした。
「ごめん、雪乃さんの圧に負けた」
「幼馴染失格だろ」
「だって“凛さんが朝食を抜きがちなのは本当ですか”って、泣きそうな顔で聞いてくるんだもん!」
雪乃は表情を変えずに、俺の箸を整えた。
「凛さんがご自身を大切にしないなら、私が大切にします」
その言葉は甘いはずなのに、少し重かった。
胸の奥がざわつく。俺はまだ雪乃の気持ちに答えていない。なのに彼女は、当たり前みたいに俺の生活へ入り込んでくる。優しく、丁寧に、逃げ場を減らすように。
「雪乃」
「はい」
「そこまでしなくていい」
雪乃の手が止まった。
ほんの一瞬、彼女の瞳に影が落ちる。
「……迷惑、でしたか」
違う、と言いかけて止まった。
違うのか。
俺は本当に迷惑だと思っていないのか。周囲の視線は痛い。家の思惑も怖い。雪乃の好意を信じ切れない自分もいる。けれど、弁当を見た瞬間、少し嬉しかったのも事実だった。
その沈黙を、雪乃は別の意味で受け取ったらしい。
「申し訳ありません」
彼女は静かに蓋を閉じた。
「凛さんに喜んでいただきたかっただけなのですが、また一方的でしたね」
声は落ち着いていた。
けれど、指先が震えていた。
昨日の手紙を思い出す。嘘だと思わないでください。あの文字が胸に刺さる。
「待て。食べないとは言ってない」
雪乃が顔を上げる。
「本当ですか」
「重いとは思った。でも、嫌だとは言ってない」
「……重い」
「そこだけ拾うな」
雪乃は少しだけ俯いた。
「私は、加減が分かりません。好きな方に何かをして差し上げたいと思うと、どうしても全部差し出したくなります」
さらりと言うな。
教室で言うな。
案の定、周囲が一斉にざわめく。ひかりが「うわぁ」と小さく漏らした。
雪乃は俺だけを見ていた。
「凛さんが私を信じられないのなら、信じられるまで尽くします。凛さんが私から逃げるなら、逃げた先でお待ちします。凛さんが私を見ないなら、見ざるを得ない場所に立ちます」
「それ、告白じゃなくて包囲網だろ」
「はい。恋の包囲網です」
「認めるな」
思わず突っ込むと、雪乃がふっと笑った。
その笑顔に、胸が跳ねた。
悔しいが、可愛いと思ってしまった。昨日まで傷ついた顔ばかり思い出していたせいか、その笑みがやけに眩しい。
だが、平穏は長く続かなかった。
午後、祐介からメッセージが届いた。
『今夜、父上も交えて話す。雪乃家の件だ』
画面を見た瞬間、体温が下がった。
雪乃の好意が、また家の材料にされる。俺の隣にいる彼女を、豊橋家は利用価値で測る。兄は悪気なく正論を並べ、父は利益を語る。そこに俺の気持ちはない。
スマホを伏せると、雪乃がすぐに気づいた。
「凛さん?」
「何でもない」
「嘘です」
即答だった。
彼女は俺の手元を見て、すべて察したように目を細めた。
「祐介様ですか」
「……関係ない」
「あります。凛さんが苦しそうな顔をしています」
その声が優しすぎて、逆に苦しくなった。
「やめろよ」
「何をでしょう」
「そうやって、全部分かったみたいに俺の中に入ってくるな」
雪乃の表情が固まる。
言ってから後悔した。
けれど止まらなかった。
「お前の気持ちが本物でも、家は違う。豊橋も雪乃も、俺たちを勝手に使う。兄さんだってそうだ。結局、お前がそばにいればいるほど、俺はまた比べられる」
「私は、凛さんを比べません」
「お前はそうでも、周りは違う!」
教室が静まり返った。
雪乃は傷ついた顔をした。
それでも逃げなかった。
「では、私を遠ざけますか」
彼女の声は、震えていた。
「凛さんを苦しめるなら、私は専属を辞めるべきですか」
違う。
そう言いたいのに、言葉が出ない。
雪乃は俺の沈黙を見つめ、ゆっくり微笑んだ。泣きそうなほど綺麗な笑みだった。
「私は、辞めません」
「雪乃」
「たとえ凛さんに嫌われても、私はあなたの味方でいます。あなたが私を疑っても、突き放しても、私だけはあなたを祐介様の代わりにしません」
その言葉に、胸が抉られた。
彼女は一歩近づき、俺の机に置かれた弁当箱へ手を添える。
「だから今日は、食べてください。私の気持ちを受け取れなくても構いません。けれど、凛さんのために作ったものまで嘘にしないでください」
教室の空気が痛いほど静かだった。
俺は箸を取った。
一口食べる。
悔しいほど美味かった。
「……うまい」
雪乃の瞳が、少しだけ潤んだ。
「よかった」
その一言は、小さく震えていた。
俺はようやく理解した。
雪乃の溺愛は、俺を縛る鎖であると同時に、彼女自身が壊れないための命綱でもあるのだと。
俺が信じないたび、彼女はもっと近づく。
俺が逃げるたび、彼女はもっと尽くす。
そして俺は、その重さを怖がりながらも、少しずつ手放せなくなっていた。
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