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6話 兄と弟

 その日の放課後、俺は逃げるように校門を出た。


 背後には、当然のように雪乃がいる。


 制服に戻る気配はない。黒いメイド服のまま、数歩後ろを音もなくついてくる。歩幅は乱れず、姿勢は美しく、周囲から向けられる好奇の視線さえ、彼女は涼しい顔で受け流していた。


 むしろ、動揺しているのは俺だけだった。


「……雪乃」


「はい、凛様」


「その呼び方、本当にやめろ」


「では、凛さん」


「距離の詰め方が極端なんだよ」


「専属ですから」


 便利な言葉のように使うな。


 そう言いたかったが、言えばまた何か完璧な理屈で返される気がして、俺は口を閉じた。


 通学路の途中、スマホが震えた。画面に表示された名前を見て、足が止まる。


 豊橋祐介。


 大学生になって家を出てからも、兄は相変わらず俺の上にいた。名門大学で成績上位。学生起業家としても注目され、財閥内部ではすでに次期当主候補として扱われている。学校という小さな世界で三位だ五位だと揺れている俺とは、立っている舞台が違う。


 通話に出ると、穏やかな声が耳に届いた。


『凛、今いいか』


「……何」


『雪乃家の令嬢が、お前の専属になったと聞いた』


 情報が早すぎる。


 いや、豊橋家なら当然か。俺の周囲で起きたことなど、家の中ではすでに共有されているのだろう。


『面白いことになったな』


「笑い事じゃない」


『笑ってはいない。だが、雪乃家との縁は大きい。お前にとっても悪い話ではないはずだ』


 その言い方に、胸の奥が冷えた。


 やはりそうだ。


 大人たちも、兄も、これを恋愛としては見ていない。家と家の関係。後継争いにおける材料。俺という人間に付随する価値。雪乃がどれだけ本気だと言っても、周囲は簡単にそれを利用する。


「兄さんも、俺を駒として見るんだな」


 電話の向こうで、少しだけ沈黙が落ちた。


『凛』


「切る」


 返事を待たずに通話を終えた。


 指先が冷えていた。


 兄に悪意があったわけではないのだろう。それは分かっている。祐介はいつも正しい。家のことを考え、利益を見て、合理的に判断する。だからこそ、俺は兄に勝てない。


 そして、だからこそ苦しい。


 隣に並んだ雪乃が、静かに俺を見上げていた。


「祐介様からですか」


「……様づけする必要ないだろ。大学生の兄貴だよ」


「凛さんにとって、大きな存在なのですね」


「大きすぎるんだよ」


 自嘲が漏れた。


 夕方の住宅街を歩きながら、俺は言わなくてもいいことまで口にしていた。兄がどれだけ優秀か。俺がどれだけ追いつけないか。豊橋家の中で、俺がどう見られているか。雪乃に話したところで何が変わるわけでもないのに、言葉は止まらなかった。


 雪乃は最後まで黙って聞いていた。


 やがて、俺の少し前に回り込み、深く一礼する。


「私は、凛さんを祐介様の代用品として見たことはありません」


「……そんなの、分からないだろ」


「分かります。私の心ですから」


 強い言葉だった。


 顔を上げた雪乃の瞳には、いつもの危うい熱があった。だが今は、それ以上にまっすぐな意思が見えた。


「私は、あなたが兄君を見上げながら、それでも折れずに進もうとしている姿を好きになりました。勝てないと口にしても、勝ちたい気持ちを捨てきれないところを。諦めたふりをして、自分を追い込み続ける不器用さを。私は、そこに惹かれました」


「……俺は、そんな綺麗な人間じゃない」


「知っています」


 即答だった。


「嫉妬もする。逃げもする。傷つくのが怖くて、人の好意を疑う。昨日のように、私を傷つけることもある」


「そこまで言うか」


「ですが、それでも好きです」


 言葉が出なかった。


 雪乃は一歩近づいた。


「だから私は、あなたのそばにいます。家の都合でも、雪乃家の利益でも、祐介様への対抗心でもありません。私が、そうしたいのです」


 その言葉を、今度は嘘だと切り捨てられなかった。


 あまりに近く、あまりに真剣で、逃げ道がなかった。


 けれど、受け入れることもまだできない。俺の中には、長い時間をかけて積もった不信がある。名前を見て寄ってきた人間。兄を知って離れていった人間。期待して、失望して、また期待することに疲れた自分。


 それらを、一日で消せるほど俺は器用ではなかった。


「雪乃」


「はい」


「俺はまだ、お前の気持ちに答えられない」


「承知しています」


「それでも、そばにいるのか」


「はい」


「傷つくかもしれないぞ」


 雪乃は、そこで薄く笑った。


 綺麗なのに、少しだけ怖い笑みだった。


「もう傷つきました。ですから次は、凛さんにも同じくらい私を意識していただきます」


「……発想が物騒なんだよ」


「恋ですから」


「恋ってそんな戦略的なものだったか?」


「少なくとも私は、勝つつもりでいます」


 そう言って、雪乃は俺の鞄へ手を伸ばした。反射的に避けようとしたが、それより早く彼女は取っ手を掴む。


「お持ちします」


「自分で持てる」


「知っています。ですが、私が持ちたいのです」


 奪い合いになるかと思ったが、雪乃の指は思ったより強かった。成績だけでなく運動もできる彼女らしい。俺が力を込めれば取り返せたかもしれない。だが、彼女の横顔を見ていると、そんな気が失せた。


 どこか満足げだった。


 俺の鞄を持つだけで、どうしてそんな顔をするのか分からない。


 いや、本当は少し分かり始めていた。


 雪乃光莉は、俺の一番近くにいる理由が欲しいのだ。メイドという立場は、そのための手段であり、盾であり、宣言でもある。誰に何を言われても、彼女は「専属ですから」と言えば俺のそばに立てる。


 その強引さは迷惑だ。


 だが、昨日の俺に傷つけられた少女が、それでも離れるのではなく近づくことを選んだのだと思うと、胸の奥が重くなる。


 家の前に着くと、門の前に黒塗りの車が停まっていた。


 豊橋家の車だ。


 運転席から降りてきた使用人が、俺と雪乃に深く頭を下げる。その奥、後部座席の窓がゆっくりと下がった。


 そこにいたのは、兄だった。


「久しぶりだな、凛」


 整った顔。落ち着いた声。大学生になっても、いや、大学生になったからこそ、祐介はより完成された人間に見えた。俺よりも先に大人の世界へ足を踏み入れ、そこで当然のように評価されている男。


 雪乃が俺の隣で、静かに一礼する。


「お初にお目にかかります、祐介様。雪乃光莉と申します」


「噂は聞いている。凛の専属だそうだね」


「はい」


 兄の視線が、俺と雪乃の間を一度だけ往復した。


 それだけで、値踏みされた気がした。


「凛、少し話そう」


「何を」


「お前の今後についてだ」


 その言葉に、胃の奥が重くなる。


 今後。


 豊橋家の人間がその言葉を使う時、そこに俺の意思はあまり含まれない。家にとってどう動くべきか。兄派と凛派の均衡をどう取るか。雪乃家との関係をどう利用するか。きっと、そういう話だ。


 だが、俺が答えるより先に、雪乃が一歩前に出た。


「申し訳ございません、祐介様。凛さんは本日、心身ともにお疲れです。重要なお話でしたら、日を改めていただけますでしょうか」


 空気が止まった。


 豊橋祐介に、正面から待ったをかけた。


 兄は少しだけ目を細めた。怒ったわけではない。むしろ、興味を持ったように見えた。


「君は、凛を守るつもりなのかな」


「はい」


 雪乃は迷わず答えた。


「専属ですので」


 またそれか、と突っ込みたかった。


 けれど今回は、その言葉が少しだけ頼もしく聞こえた。


 兄は小さく笑った。


「なるほど。凛、お前は面白い人に好かれたな」


「他人事みたいに言うな」


「他人事ではないさ。だが、今日は引こう」


 窓が上がっていく。


 車が静かに走り去るまで、雪乃は俺の前に立ち続けていた。


 その背中は細い。


 けれど、不思議と揺るがなかった。


「……余計なことをしたと思っているか?」


 俺が聞くと、雪乃は振り返った。


「いいえ。必要なことをしました」


「兄さん相手に、よく言えるな」


「凛さんの前ですので」


 どういう理屈だ。


 そう思いながらも、俺は少しだけ笑ってしまった。


 雪乃はそれを見逃さなかった。満足そうに目を細め、俺の鞄を胸元に抱える。


「今、笑いましたね」


「笑ってない」


「笑いました」


「気のせいだ」


「では、気のせいでも嬉しいです」


 夕暮れの光の中で、雪乃は穏やかに微笑んだ。


 その笑顔を見て、俺はようやく思った。


 彼女を信じられるかは、まだ分からない。


 けれど、彼女が俺のために立ってくれたことだけは、事実だ。


 そしてその事実は、俺が築いてきた疑いの壁に、小さなひびを入れるには十分だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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