5話 謝罪と後悔
教室は、完全に沈黙していた。
朝のざわめきも、椅子を引く音も、誰かが教科書を机に落とした音さえ、すべて遠くに消えていた。視線の中心にいるのは、黒と白のメイド服に身を包んだ雪乃光莉。そして、その雪乃に「凛様」と呼ばれた俺だった。
意味が分からない。
いや、言葉としては理解できる。専属メイド。仕える。もう見失わせない。だが、それが現実として目の前に立っていることを、脳が拒絶していた。
雪乃は一礼した姿勢からゆっくりと顔を上げた。いつもの制服姿ではないだけで、彼女の印象は大きく変わっていた。完璧な優等生というより、どこかの屋敷からそのまま抜け出してきた令嬢付きの使用人。だが、その気品は消えていない。むしろ、従う立場になったはずなのに、周囲を支配する存在感は増していた。
「待て。どういうことだ」
俺の声は、自分でも情けないほど掠れていた。
雪乃は微笑んだ。
「言葉通りです。本日より、私は凛様の専属メイドです」
「学校で言うことじゃないだろ」
「凛様が学校にいらっしゃる以上、私も学校でお仕えする必要があります」
論理としては成立しているようで、根本的に何も成立していなかった。
クラス中が固まる中、最初に我に返ったのはひかりだった。彼女は俺と雪乃を交互に見て、次に雪乃のメイド服を見て、最後に俺を睨んだ。
「凛、何したの」
「俺が聞きたい」
「絶対あんたが原因でしょ」
否定できなかった。
昨日、俺は雪乃の本気を踏みにじった。その結果がこれだと言われれば、因果関係としては最悪だが通ってしまう。問題は、どうして傷つけられた側が、傷つけた相手の専属メイドになるという結論に至ったのかだ。
担任が教室に入ってきたのは、その直後だった。
担任も当然、雪乃の姿を見て足を止めた。教師として何か言うべきだと分かっている顔だったが、雪乃が一枚の書類を差し出すと、その表情は別の意味で固まった。
雪乃家と豊橋家の名が並んだ正式な許可書。
どうやら、大人たちの間ではすでに話がついているらしい。
豊橋家の名を見た時点で、俺は嫌な予感を覚えた。家の連中ならやりかねない。雪乃家との関係強化。俺の監視。兄派閥への牽制。理由はいくらでも作れる。そこに雪乃本人の希望が乗ったなら、話は驚くほど簡単に通る。
つまりこれは、雪乃の暴走であると同時に、豊橋家と雪乃家の思惑が噛み合った結果でもある。
最悪だった。
担任は数秒の沈黙の末、何も見なかったことにするような顔で出席簿を開いた。大人とは、こういう時に現実より書類を信じる生き物らしい。
授業が始まっても、俺の横には雪乃が立っていた。
正確には、俺の席の斜め後ろ。邪魔にならず、教師の視界にも入りすぎず、しかし俺が少しでも動けば即座に対応できる絶妙な位置だった。ノートを取ろうとシャープペンを探せば、白い手袋をした指が静かに差し出す。消しゴムを落とせば、音がする前に拾われる。喉が渇いたと思った瞬間には、水筒が机の端に置かれている。
怖いほど有能だった。
そして怖いほど、俺だけを見ていた。
授業が終わると、教室中の視線が一気に俺へ集まった。問い詰めたい。騒ぎたい。面白がりたい。そんな感情が空気に満ちる。だが、雪乃が俺の前に一歩出ただけで、誰も近づけなくなった。
「凛様はお疲れです。ご用件がある方は、私を通してください」
柔らかな声だった。
だが、圧があった。
学年一位の美少女が、微笑みながら周囲を制圧している。しかもメイド服で。現実感がなさすぎて、誰も突っ込めない。
ひかりだけが、遠慮なく俺の机に手をついた。
「雪乃さん、ちょっと凛借りてもいい?」
雪乃の瞳が、ほんの少しだけ細くなった。
「幼馴染だからといって、凛様を私物化する権利はありません」
「いや、それ今の雪乃さんが言う?」
「私は専属ですので」
静かな火花が散った。
俺は頭を抱えたくなった。昨日まで俺の周囲は、少なくとも表面上は平穏だったはずだ。それが一晩で、幼馴染と学年一位のメイドが俺を挟んで睨み合う状況になっている。
ラブコメとしては派手かもしれない。
当事者としては地獄だった。
昼休み、俺は雪乃を連れて屋上前の階段まで逃げた。人目を避けるには、そこしかなかった。
雪乃は文句ひとつ言わずについてきた。むしろ、二人きりになれたことを喜んでいるようにすら見えた。階段の踊り場に立つ彼女は、背筋を伸ばし、両手を前で重ね、完璧なメイドの姿勢を崩さない。
「説明しろ」
「どの点についてでしょうか」
「全部だ」
雪乃は少し考えるように目を伏せた。
「私は、凛様に私の気持ちを嘘だと思われました」
「……それは」
「謝罪は、まだ受け取りません」
先に封じられた。
雪乃は静かに続ける。
「私は考えました。どうすれば、あなたに私の本気を理解していただけるのか。言葉では足りませんでした。手紙でも、おそらく足りない。ならば、行動で示すしかありません」
「それで専属メイドか?」
「はい。私は凛様の一番近くにいます。あなたの努力も、弱さも、傷も、誰より近くで見ます。そして、あなたにも私を見ていただきます」
その言葉に、背筋が冷えた。
恋愛感情としては甘い。だが、逃げ場を塞ぐ宣言としては重い。雪乃光莉は、自分の本気を証明するために、自分の立場も周囲の目も全部利用して俺の隣を取りに来たのだ。
「迷惑だって言ったら?」
「それでも、お仕えします」
「拒否権は?」
「凛様が本当に嫌だとおっしゃるなら、考えます」
「じゃあ――」
「ですが、その前に私は、あなたが昨日の言葉を本心で言ったのか確認します」
言葉が止まった。
雪乃の瞳は、逃げ道を許さないほど真っ直ぐだった。
「私の告白を嘘だと決めつけたのは、本当に私を見てそう判断したからですか。それとも、傷つくのが怖かったからですか」
痛いところを突かれた。
答えられない俺を見て、雪乃は微笑んだ。勝ち誇った笑みではない。寂しさと執着が混じった、綺麗なのに危うい笑みだった。
「凛様は、優秀です。けれど、ご自分の感情から逃げるのは下手ですね」
「……お前に言われたくない」
「私は逃げません。逃げたくない相手を、ようやく見つけましたから」
階段の踊り場に、沈黙が落ちた。
謝らなければならない。
そう思っていた。だが、雪乃は謝罪だけで終わらせる気がない。彼女は傷ついたまま、俺の前に戻ってきた。泣いて、考えて、決めて、そして俺の逃げ道を塞ぎに来た。
完璧な少女は、恋をするとここまで厄介なのか。
いや、違う。
俺が彼女の本気を軽く扱ったから、こうなった。
「雪乃」
「はい、凛様」
「その呼び方やめろ」
「専属メイドですので」
「学校でメイド服もやめろ」
「凛様が私の気持ちを信じてくださるまでは、この姿が最も分かりやすいかと」
「分かりやすすぎて社会的に死ぬ」
「ご安心ください。凛様の名誉は私が守ります」
「お前が一番脅かしてるんだよ」
雪乃は、そこで初めて小さく笑った。
その笑顔は、昨日の告白前に見せたものに少しだけ似ていた。胸の奥が鈍く痛む。俺はその痛みから目を逸らさず、ゆっくり息を吐いた。
「昨日は、悪かった」
雪乃の笑みが止まった。
「お前の気持ちを、嘘だって決めつけた。傷つけた。最低だったと思う」
「……はい」
「でも、すぐ信じられるかは分からない」
正直に言うしかなかった。
俺はまだ怖い。雪乃の本気を認めることも、自分が期待してしまうことも、いつかまた比較されて捨てられることも。全部怖い。
雪乃は静かに聞いていた。
「だから、時間をくれ」
それは謝罪であり、保留であり、俺なりの精一杯だった。
雪乃はしばらく黙った後、深く一礼した。
「承知いたしました」
ほっとしかけた瞬間、彼女は顔を上げる。
「では、その時間のすべてを、私にください」
「……は?」
「凛様が私を信じるまで、私はそばにいます。朝も、昼も、放課後も。可能であれば休日も」
「重い」
「本気ですので」
即答だった。
俺は天井を仰いだ。
謝罪は受け入れられたのかもしれない。だが、それで事態が収束したわけではなかった。むしろ、ここからが始まりなのだろう。
告白を嘘だと思って軽くあしらった美少女は、なぜか俺の専属メイドとして雇われ始めた。
しかも彼女は、ただ仕えるつもりなどない。
俺のそばに立ち、俺を見張り、俺に自分を見せ続け、いつか必ず信じさせるつもりでいる。
階段の踊り場で、雪乃は優雅に微笑んだ。
「覚悟してくださいね、凛様」
甘く、静かで、逃げ場のない声だった。
「私は、あなたを諦めるのが苦手です」
その瞬間、俺は確信した。
俺の平凡な学園生活は、今日で完全に終わったのだと。
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