4話 メイド
翌日、雪乃光莉は学校を休んだ。
朝のホームルームで担任がその事実を告げた瞬間、教室に小さなどよめきが広がった。無理もない。雪乃は入学以来、遅刻も欠席もほとんどない優等生だった。体調不良という理由だけで、周囲が勝手に不安を膨らませるほどには、彼女の存在は大きい。
俺は、何も言わなかった。
言えることなどなかった。
昨日の自習室。彼女の告白。俺が吐いた言葉。罰ゲームか、嘘告か、兄に告白した方が似合っている。思い返すたびに、自分の声が耳の奥で腐っていくようだった。
だが同時に、俺はまだ自分を守る言い訳を手放せずにいた。
あれは嘘だ。
雪乃光莉ほどの少女が、俺を本気で好きになるはずがない。あの完璧な少女が、兄ではなく俺を選ぶ理由がない。そう考えれば、昨日の俺の態度も最低ではなく、防衛だったことになる。
そう思い込まなければ、呼吸がしづらかった。
昼休み、ひかりが俺の机の前に立った。
「凛、昨日、雪乃さんに何言ったの」
いつもの軽さはなかった。
「別に」
「別に、であの人が休むと思う?」
「俺のせいって決まったわけじゃないだろ」
「そういう逃げ方、凛らしくないよ」
言葉が刺さる。
ひかりは俺の事情を知っている。豊橋家のことも、兄への劣等感も、名前目当てで近づいてきた人間に何度も傷つけられたことも。だからこそ、普段なら俺の警戒心を無理に否定したりはしない。
そのひかりが、今日だけは明らかに怒っていた。
「あんた、雪乃さんのことをちゃんと見た?」
俺は答えなかった。
「肩書きとか、成績とか、完璧とか、そういうのじゃなくてさ。ひとりの女の子として、ちゃんと見た?」
反論は、喉の奥で止まった。
見ていない。
俺は雪乃のことを、兄と同じ側の人間だと決めつけていた。完璧で、傷つかなくて、何でも持っていて、俺なんかを本気で見るはずがない存在だと。
そう決めつけた方が楽だった。
自分が選ばれなかった時に、傷つかずに済むから。
「……放っておいてくれ」
俺がそう言うと、ひかりはしばらく俺を見下ろし、やがて小さく息を吐いた。
「凛って、頭いいのに、恋愛だけは本当に馬鹿だよね」
その言葉だけを残して、彼女は席へ戻っていった。
放課後になっても、雪乃は来なかった。
空席の机は、ただそこにあるだけなのに妙に目についた。整然とした彼女の席。机の端に置かれた予備の参考書。誰かが勝手に触ることを許さないような、静かな領域。
俺は結局、その日も自習室へ向かった。
勉強をするためではない。いつもの場所に行けば、昨日のことを少しは整理できる気がしたからだ。
夕暮れの自習室は、昨日と同じように静かだった。
違うのは、扉の前で立ち止まるたび、雪乃の声が蘇ることだった。
私は、あなたのことが好きです。
あの言葉に嘘があっただろうか。
思い返せば思い返すほど、分からなくなる。震える指。赤く染まった頬。傷ついた瞳。演技だと切り捨てるには、あまりにも痛々しかった。
けれど、本気だと認めるには、俺の心が弱すぎた。
その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。
振り返ると、そこにいたのは雪乃ではなかった。
黒いスーツを着た初老の男が、深々と頭を下げていた。仕立ての良い服。隙のない所作。学校という場所に似つかわしくないほど洗練された気配。明らかに一般人ではない。
「豊橋凛様でいらっしゃいますね」
「……誰ですか」
「雪乃家に仕えております、執事の神崎と申します」
雪乃家。
その言葉で、俺はようやく理解した。
雪乃光莉もまた、ただの優等生ではない。家柄、能力、環境。そのすべてを背負ってあの完璧さを保っている人間なのだと。
「お嬢様の件で、少々お話がございます」
「俺に話すことなんてありません」
「ございます」
穏やかな声なのに、拒絶を許さない響きがあった。
神崎は懐から一通の封筒を取り出した。白く厚い紙。差出人の名はない。だが、封の美しい押し跡だけで、雪乃のものだと分かった。
「本来であれば、お嬢様ご自身からお渡しするべきものでしょう。しかし、現在のお嬢様には、それが難しいご様子です」
胸が嫌な音を立てた。
「……体調不良じゃないんですか」
「肉体的な不調ではございません」
神崎の言葉は丁寧だった。
だが、その丁寧さがかえって重かった。
「昨夜、お嬢様は初めて泣かれました。幼少より、どのような試練にも涙を見せなかった方が、です」
息が詰まった。
雪乃が泣いた。
俺の言葉で。
「その報告を、俺にしてどうするつもりですか。責めたいなら、はっきり責めればいい」
「責めるつもりはございません。お嬢様がそれを望まれておりませんので」
神崎は静かに封筒を差し出した。
「ただ、これだけはお伝えいたします。お嬢様の告白は、嘘ではございません」
受け取った封筒が、やけに重かった。
開けるべきではないと思った。
開ければ、逃げ場がなくなる。
それでも指は、勝手に封を切っていた。
中には、丁寧な文字で綴られた手紙が入っていた。
豊橋くんへ。
昨日は突然困らせてしまい、申し訳ありませんでした。あなたが私の言葉を信じられないことは、きっと私にも責任があります。私はいつも、完璧に振る舞うことばかりを選んできました。だから、私自身の気持ちまで作り物に見えたのかもしれません。
けれど、これだけは知っていてください。
私は、豊橋凛という人を見ていました。
豊橋家の跡取り候補ではなく、誰かの弟でもなく、自分の弱さを隠しながら、それでも前に進もうとするあなたを見ていました。
あなたが私の気持ちを受け取れないのなら、それでも構いません。
ですが、嘘だとは思わないでください。
私は、あなたにだけは、嘘をつきたくありません。
文字が滲んで見えた。
泣いているわけではない。ただ、目の焦点が合わなかった。手紙を持つ指に力が入らない。
嘘ではなかった。
少なくとも、この手紙は嘘ではない。
そう分かった瞬間、昨日の自分の言葉が、刃になって全部返ってきた。
「お嬢様は本日、学校をお休みになりましたが、明日には登校されます」
神崎が言った。
「そして、豊橋様にお会いするつもりでおられます」
「……俺に?」
「はい。お嬢様は、諦めの悪い方ですので」
その言い方に、かすかな親しみが混じった。
「ただし、今までと同じ形ではないでしょう」
「どういう意味ですか」
神崎は一礼した。
「お嬢様は、決めてしまわれました。豊橋様のおそばにいるための、最も確実な方法を」
嫌な予感がした。
雪乃光莉は優秀だ。目的が決まれば、最短で手段を選ぶ。しかも彼女には、それを実行できるだけの能力と家の力がある。
神崎は最後に、静かに告げた。
「明日、正式な形でお分かりになるかと」
それだけ言って、彼は去っていった。
残された俺は、手紙を握ったまま立ち尽くしていた。
謝らなければならない。
そう思った。
だが同時に、遅すぎるとも思った。
俺は彼女の本気を嘘だと決めつけ、傷つけ、逃げた。その結果、雪乃光莉は何かを決めた。完璧で、優秀で、そして少しだけ危うい彼女が、俺のそばにいるための最も確実な方法を。
翌朝。
俺の人生は、予想もしない形で壊れ始める。
教室の扉が開いた瞬間、誰もが息を呑んだ。
そこに立っていたのは、雪乃光莉だった。
ただし、制服姿ではない。
黒を基調にした上品なワンピース。白いエプロン。丁寧に結ばれた髪。どこからどう見ても、屋敷に仕える本物のメイドそのものだった。
教室中が凍りつく。
雪乃はまっすぐ俺の席へ歩いてくると、優雅に一礼した。
「おはようございます、凛様」
昨日までの完璧なクラスメイトは、そこにいなかった。
代わりにいたのは、俺だけを見つめる、逃げ道のない美少女だった。
「本日より、あなたの専属メイドとしてお仕えいたします」
微笑む雪乃の瞳は、赤くも腫れていなかった。
ただ、昨日よりも深く、甘く、どこか危うい熱を宿していた。
「もう二度と、私の気持ちを見失わせません」
その瞬間、俺は理解した。
俺は告白をあしらったのではない。
彼女の中にある、最後の遠慮を壊してしまったのだ。
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