3話 告白
雪乃光莉は、距離の取り方まで完璧だった。
近づきすぎれば警戒されると分かっているのか、彼女はあれから必要以上に踏み込んでこなくなった。朝の挨拶。授業中に目が合った時の小さな会釈。放課後の図書室で、数席離れた場所に座るだけの沈黙。
たったそれだけ。
それだけなのに、俺は以前よりも彼女を意識するようになっていた。
人間は不思議なもので、向けられていたものが少し引くだけで、その空白を追ってしまう。関わるなと思っていたはずなのに、声をかけられない日は妙に落ち着かない。見られていると警戒していたくせに、視線が外れると胸の奥がざわつく。
厄介だった。
俺は誰かに期待されたくない。好意を向けられても、それが本物かどうか疑ってしまう。豊橋の姓に寄ってきた人間は、俺自身に興味などなかった。跡取り候補という肩書きに価値を見出し、兄の方が有力だと知った瞬間、綺麗に離れていった。
だから、雪乃の態度も信用できなかった。
彼女は優秀だ。俺よりも遥かに聡い。学年一位の彼女が、理由もなく俺に構うとは思えない。何か目的がある。そう考えた方が自然だった。
そんな折、次の実力確認テストが行われた。
結果は、三位。
掲示板に張り出された自分の名前を見つけた瞬間、周囲から小さなどよめきが起きた。豊橋凛が上がっている。そう囁く声が耳に届く。俺を見ていた連中の目に、また少しだけ期待の色が戻った。
不快だった。
上がれば寄ってくる。下がれば離れる。人の評価など、所詮は数字と肩書きで簡単に向きを変える。
「三位、おめでとうございます」
背後から聞こえた声に振り返ると、雪乃が立っていた。
彼女の名前は、当然のように一番上にある。二位との差も圧倒的だった。完璧な勝者が、三位の俺に祝福を告げている。その構図が、どうにも滑稽に思えた。
「一位様に祝われるほどの順位じゃない」
「私は、本当に嬉しいです」
その言葉が自然すぎて、逆に胸が乱された。
「どうしてお前が嬉しいんだよ」
「あなたが、前に進んだからです」
雪乃はそう言って、ほんの少しだけ微笑んだ。
その笑みは、教室で誰にでも向けるものとは違っていた。控えめで、熱っぽくて、隠しきれない感情がにじんでいる。周囲にいた生徒たちが、何かを察したようにざわめいた。
俺は反射的に一歩引いた。
雪乃の表情が、わずかに固まる。
「……豊橋くん」
「悪い。教室戻る」
逃げるようにその場を離れた。
自分でも最低だと思った。だが、あの視線を正面から受け止めるだけの準備が俺にはなかった。彼女の言葉が本物に聞こえれば聞こえるほど、俺はそれを否定したくなる。
本物の好意など、俺に向けられるはずがない。
そう思っていなければ、今まで自分を守ってきた壁が崩れてしまいそうだった。
放課後、俺はいつものように自習室へ向かった。
誰もいない静かな教室。窓の外では運動部の声が遠く響いている。机に参考書を広げても、文字が頭に入ってこなかった。三位という数字。雪乃の微笑み。周囲のざわめき。すべてが混ざって、思考を乱す。
しばらくして、扉が静かに開いた。
入ってきたのは、雪乃だった。
彼女は俺の姿を見ても驚かなかった。むしろ、ここにいると分かって来たような顔をしていた。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
いつもの丁寧な声。
けれど今日は、その奥にわずかな震えがあった。
「……何の用だ」
雪乃は扉を閉め、俺から二つ離れた席で足を止めた。近すぎず、遠すぎない距離。逃げ道を残しているようで、実際にはこちらの反応をすべて見逃さない位置だった。
「今日、言わなければいけないと思いました」
「何を」
問い返した瞬間、嫌な予感がした。
雪乃は胸の前で指を重ね、静かに息を吸う。完璧な少女の仮面が、少しずつ剥がれていくようだった。頬に淡い赤が差し、瞳はまっすぐ俺だけを映している。
「豊橋くん」
名前を呼ばれただけで、空気が変わった。
「私は、あなたのことが好きです」
時間が止まった。
冗談のような言葉だった。いや、冗談でなければ困る言葉だった。雪乃光莉が、俺を好き。学年一位で、誰からも憧れられ、完璧で、兄と同じ側にいる彼女が、豊橋凛を好きだと言った。
意味が分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
「……は?」
間の抜けた声が出た。
雪乃は目を逸らさなかった。
「突然で困らせていることは分かっています。けれど、これ以上曖昧にしたくありませんでした。私は、あなたが努力しているところも、諦めたふりをして悔しがるところも、誰よりも自分に厳しいところも、全部――」
「ちょっと待て」
俺は彼女の言葉を遮った。
聞いてはいけないと思った。
その先まで聞いてしまえば、彼女の声を本物として受け取ってしまう。そうなれば俺は、きっと期待する。信じてしまう。信じた後で裏切られた時、今度こそ立てなくなる。
だから、先に壊すしかなかった。
「それ、罰ゲームか何かか?」
雪乃の表情が、凍った。
「……え?」
「最近そういうの流行ってるのか? 学年一位の雪乃光莉が、豊橋家の落ちこぼれ候補に告白して反応を見る、みたいな」
言葉が口から出るたび、自分の内側が冷えていく。
雪乃は何も言わない。
それでも俺は止まれなかった。
「悪いけど、そういうのに付き合うほど暇じゃない。俺をからかうなら、もっと上手くやれよ。いくらなんでも設定が雑すぎる」
雪乃の指先が、小さく震えた。
その瞬間、胸が痛んだ。
だが俺は、気づかないふりをした。
雪乃は唇を開きかけて、閉じた。瞳の奥にあった熱が、ゆっくりと傷に変わっていく。完璧な彼女が、初めて年相応の少女みたいに見えた。
「……嘘では、ありません」
か細い声だった。
「私は、本気です」
「本気ならなおさら意味が分からない」
最低な返しだと分かっていた。
それでも、俺は笑った。軽く、薄く、何でもないことのように。
「俺じゃなくて、祐介にでも告白した方がいいんじゃないか。お前みたいな完璧な人間には、ああいうやつの方が似合ってる」
雪乃の瞳から、すっと光が消えた。
怒ったのだと思った。
けれど違った。
彼女は泣かなかった。声を荒らげもしなかった。ただ、信じていたものを目の前で踏みにじられたような顔で、静かに俺を見ていた。
「……そうですか」
雪乃は、ゆっくりと頭を下げた。
「お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」
それだけ言って、彼女は自習室を出ていった。
扉が閉まる音は、やけに小さかった。
残された俺は、しばらく動けなかった。
勝ったわけでも、拒絶できたわけでもない。ただ、何か取り返しのつかないものを踏み壊した感覚だけが、手のひらに残っている。
雪乃光莉の告白は、きっと嘘だ。
そう思うことにした。
そうでなければ、俺は今すぐ彼女を追いかけなければならなくなる。
そして、その勇気はなかった。
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