2話 私はあなたを見ています
雪乃光莉という存在は、良くも悪くも目立つ。
彼女が廊下を歩けば、自然と道が空く。教師は信頼を寄せ、同級生は憧れを抱き、下級生は遠巻きに眺める。成績は学年一位。運動会ではリレーのアンカーを任され、文化祭では実行委員に推薦され、誰かが困っていれば最短距離で解決策を提示する。
完璧。
その一言で片づけられる人間は、たいていの場合、周囲から勝手に祭り上げられているだけだ。だが雪乃の場合は違った。本人が本当に、完璧に近かった。
だからこそ俺は、彼女の視線が気になっていた。
朝、教室に入ると一度だけ目が合う。授業中、教師に指名された俺が答えると、彼女はなぜか満足げに小さく頷く。昼休み、購買へ向かう途中ですれ違えば、偶然を装うには綺麗すぎるタイミングで挨拶をしてくる。
それら一つ一つは、特別と呼ぶにはあまりにも些細だった。
けれど、積み重なると無視できない。
俺は昔から、人の視線には敏感だった。豊橋という姓に向けられる期待。兄と比較する値踏み。跡取り争いに利用できるかどうかを探る大人たちの目。そういうものに囲まれて育てば、嫌でも分かるようになる。
人は、理由もなく近づいてこない。
まして雪乃光莉ほどの人間が、俺に興味を持つ理由など限られている。
豊橋家の情報か。兄への接触か。あるいは俺を通して何かを測ろうとしているのか。
そう考えた方が、よほど自然だった。
放課後、俺は図書室の奥にある自習席で参考書を開いていた。家に帰れば、派閥だの後継だのという余計な話が耳に入る。だから最近は、学校で勉強を済ませることが増えていた。
静かな空間に、ページをめくる音だけが落ちる。
数式を追っていた指先が、ふと止まった。
少し離れた席に、雪乃が座っていた。
窓際の席。夕方の光を受けた横顔は、現実味がないほど整っている。細い指がシャープペンを滑らせるたび、ノートに規則正しい文字が並んでいく。その姿は絵画じみていて、周囲の空気まで彼女のために澄んでいるようだった。
俺は視線を戻した。
偶然だ。
そう片づけようとした瞬間、雪乃が顔を上げた。
目が合う。
彼女は驚いた様子もなく、ただ静かに微笑んだ。まるで、俺がそこにいることを最初から知っていたように。
「豊橋くん」
図書室にふさわしい、低く抑えた声だった。
「……何か用か」
「少しだけ、よろしいですか」
断る理由はいくらでもあった。勉強中だとか、用事があるとか、関わるつもりはないとか。だが、そう言う前に、雪乃は自分のノートを閉じて立ち上がっていた。
彼女は俺の向かいに座ると、数枚のプリントを差し出した。
「先週の実力テストの解き直しです。豊橋くんが落としていた問題、たぶんここだと思います」
プリントには、俺が間違えた問題と同系統の応用問題がまとめられていた。解説は丁寧で、無駄がない。俺の弱点を正確に突いている。
背筋に、冷たいものが走った。
「なんで分かる」
「あなたの答案の傾向を見れば、ある程度は」
「俺の答案を見たのか」
「いいえ。掲示された順位と、各科目の平均、先生方の反応。それと、普段の授業での解き方から推測しました」
さらりと言われて、言葉に詰まる。
化け物か。
そう思った。兄と同じだ。情報の断片から、人よりもずっと先の答えに辿り着く。俺が必死に隠している弱ささえ、彼女には透けて見えているのかもしれない。
「余計なお世話だな」
自分でも、少し刺々しい声だと思った。
雪乃は怒らなかった。ただ、睫毛を伏せる。
「そうですね。ですが、放っておけませんでした」
「俺を?」
「はい」
即答だった。
その迷いのなさが、むしろ怖かった。
「どうして」
俺が問うと、雪乃はほんのわずかに唇を結んだ。完璧な彼女らしくない、ためらいの表情だった。だがそれは一瞬で消え、彼女はいつもの涼やかな顔に戻る。
「あなたが、諦めたふりをするのが上手だからです」
胸の奥を、見えない指で押された気がした。
「豊橋くんは、自分には届かないと口にしながら、それでも勉強をやめていません。誰も見ていない場所で努力して、結果が出ても満足せず、悔しそうな顔をする。そういう人を、私は軽く扱えません」
図書室の静けさが、急に重くなる。
俺は反射的に目を逸らした。そんなふうに言われることに慣れていなかった。評価されることはあっても、それは大抵、豊橋家の人間としてのものだった。俺自身の努力を、真正面から言葉にされたことなど、ほとんどない。
だからこそ、受け取れなかった。
「買いかぶりだ」
「そうでしょうか」
「そうだ。俺は祐介には勝てない。五位で足踏みしてる時点で、たかが知れてる」
「私は、そうは思いません」
雪乃の声が、少しだけ強くなった。
顔を上げると、彼女は真っ直ぐ俺を見ていた。学年一位の余裕でも、優等生の善意でもない。もっと個人的で、熱を帯びた視線だった。
「少なくとも私は、豊橋くんを見ています」
その言葉は、告白に似ていた。
けれど俺は、そう受け取らなかった。
受け取れなかった。
雪乃光莉ほどの少女が、俺個人に興味を持つはずがない。彼女が見ているのは、豊橋家の跡取り候補としての俺か、兄と比較される俺か、あるいは何か別の目的のための俺だ。
そうでなければ、説明がつかない。
「……物好きだな」
俺はプリントを彼女へ押し返した。
「悪いけど、そういうのはいらない。俺に構う暇があるなら、一位を維持することでも考えた方がいい」
雪乃の指が、プリントの端で止まった。
ほんの少しだけ、彼女の表情が揺れた気がした。けれど次の瞬間には、また完璧な微笑みに戻っている。
「分かりました。今日は、これで失礼します」
雪乃は静かに立ち上がった。
去っていく足音は、最後まで乱れなかった。
ただ、彼女が残していった空気だけが、妙に冷たく胸に残った。
その翌日から、雪乃は俺に余計なことを言わなくなった。
朝の挨拶は変わらない。廊下ですれ違えば微笑む。けれど、以前のように踏み込んでくることはなかった。適切な距離。礼儀正しい態度。誰が見ても完璧なクラスメイト。
望んだ通りのはずだった。
なのに、胸の奥が少しだけざわついた。
「凛、あんた雪乃さんに何かした?」
昼休み、ひかりが俺の席にやってきて、呆れたように言った。
「何もしてない」
「その言い方、絶対何かした人のやつ」
「向こうが勝手に構ってきただけだ」
「で、あんたが勝手に突き放したんでしょ」
反論できなかった。
ひかりは小さくため息をつく。
「あの人、誰にでも優しいけど、誰にでもあんな顔するわけじゃないよ」
「分かったようなことを言うな」
「分かるよ。女の子だもん」
その言葉を、俺は鼻で笑うこともできなかった。
放課後、昇降口へ向かう途中で、俺は中庭にいる雪乃を見つけた。彼女は一人で立っていた。風に揺れる黒髪を指先で押さえ、どこか遠くを見るように目を細めている。
声をかけるべきではない。
そう思った。
だが、足は止まっていた。
雪乃がこちらに気づく。目が合った瞬間、彼女は少しだけ驚いた顔をして、それから静かに微笑んだ。
「豊橋くん」
その声はいつも通りだった。
けれど俺には、昨日よりも少しだけ寂しく聞こえた。
「昨日は、悪かった」
気づけば、そう言っていた。
雪乃は目を瞬かせる。
「どうして謝るのですか」
「言い方が悪かった」
「いいえ。私が踏み込みすぎました」
あまりにも綺麗に引かれて、逆に息苦しくなる。
俺は雪乃のことを何も知らない。完璧で、優秀で、兄と同じ側にいる人間だと勝手に決めつけていた。けれど、その完璧さの奥に何があるのかを、考えようともしなかった。
雪乃は俺を見つめたまま、静かに言った。
「それでも私は、あなたを見ています」
昨日と同じ言葉。
だが今度は、逃げる理由を探す前に、胸が跳ねた。
夕暮れの中庭で、彼女の瞳だけがやけに鮮明に見える。完璧な優等生の仮面の奥で、隠しきれない感情がかすかに揺れていた。
それが何なのか、俺はまだ知らない。
知ろうともしていなかった。
ただ一つだけ、分かったことがある。
雪乃光莉は、俺の日常に入り込もうとしている。
静かに、丁寧に、逃げ道を塞ぐように。
そして俺はまだ、その意味を甘く見ていた。
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