1話 プロローグ
豊橋財閥。
その名を聞いて、何も知らない者はまず目の色を変える。日本有数の名家。政財界に太い根を張り、数え切れないほどの企業を傘下に収める巨大な一族。その直系に生まれた俺――豊橋凛は、世間的に見れば恵まれた側の人間なのだろう。
けれど、豊橋という姓は、俺にとって祝福であると同時に呪いでもあった。
跡取り候補。
そう呼ばれた瞬間だけ、周囲は俺に笑いかける。媚びるように近づき、友人のふりをして肩を叩き、将来への投資だと言わんばかりに好意を並べる。だが、彼らはすぐに気づく。豊橋家には、俺よりも遥かに跡取りにふさわしい男がいることに。
兄、豊橋祐介。
容姿、知性、人望、実績。どれを取っても完璧に近い男。俺が何かを一つ積み上げる頃には、兄はその先で十を成し遂げている。努力の量ではなく、到達する速度が違う。見えている世界が、そもそも違う。
豊橋家の中には、二つの派閥がある。俺を推す者たちと、兄を推す者たち。表向きは穏やかに笑い合っているが、その裏側では、互いの足元を探り、言葉の端で牽制し、血縁すら駒として扱う。そんな場所で育てば、嫌でも理解する。
期待は、愛情ではない。
利用価値がある間だけ向けられる視線だ。
だから俺は、学校ではできるだけ平凡を演じていた。目立ちすぎず、沈みすぎず、必要以上に誰とも近づかない。豊橋凛という名前に群がる人間も、豊橋凛という人間そのものを見てくれるわけではない。なら、余計な期待も失望も背負わない方がいい。
そう思っていた。
高校二年の春、学年全体の実力テストの結果が掲示された日も、俺はいつも通りの温度で廊下に立っていた。掲示板の前には人だかりができ、誰かの歓声とため息が交互に響く。紙の上に並んだ名前を、俺は上から順に追った。
五位、豊橋凛。
悪くない。むしろ十分に上位だ。普通なら胸を張っていい順位だろう。けれど、その数字を見た瞬間、俺の胸に落ちたのは達成感ではなく、冷えた諦めだった。
「凛、五位じゃん。すごいって!」
隣で弾む声がした。峯岸ひかり(みねぎし・ひかり)。幼い頃からの腐れ縁で、俺の事情を知ってもなお離れなかった数少ない人間だ。明るい茶色の髪が、廊下の光を受けて柔らかく揺れる。
「……祐介は、この頃ずっと一位だった」
俺がそう言うと、ひかりの表情が少し曇った。
「でも、凛だって十分すごいよ」
「十分、じゃ足りないんだよ。豊橋ではな」
自分で言って、嫌になる。五位を取ってなお足りないと言う自分が傲慢なのか、それとも、五位程度では届かない世界に生まれたことが不幸なのか。答えは出ない。ただ、兄の背中だけがいつも遠い。
俺は掲示板から視線を外し、教室へ戻った。
自分の席に着いても、順位表の白い紙が頭から離れなかった。五位。悪くない。けれど、一位ではない。豊橋祐介なら取れた場所に、俺はいない。その事実が、薄い棘のように胸の奥で刺さり続ける。
そんな時だった。
教室の空気が、不意に変わった。
誰かが大きな声を上げたわけではない。扉が派手に開いたわけでもない。ただ、一人の少女が入ってきただけで、ざわめきが自然と静まり、視線が彼女へ吸い寄せられていく。
雪乃光莉。
学年一位。成績優秀、容姿端麗、運動能力も群を抜いている、この学校の象徴みたいな存在。艶のある青みがかった黒髪は乱れひとつなく、長い睫毛の下の瞳は、静かな湖面のように澄んでいる。歩く姿勢、指先の動き、微笑み方まで計算されたように美しい。
兄と同じ側の人間だ。
選ばれた者。周囲から期待され、その期待を当然のように超えていく者。俺が必死に積み上げているものを、最初から持っているように見える者。
雪乃は自分の席へ向かう途中で、なぜか俺の前だけ足を止めた。
「おはようございます、豊橋くん」
教室中の視線が、今度は俺に向いた。
「……おはよう」
必要最低限に返す。彼女と親しいわけではない。特別な接点もない。だから、これ以上の会話は不要だと思った。
けれど雪乃は、ほんのわずかに目を細めた。その微笑みは、誰にでも向ける上品なものと同じに見えて、どこか違っていた。まるで、俺だけに何かを確認しているような、静かな熱を含んでいた。
「五位、おめでとうございます」
「一位に言われても嫌味にしか聞こえないな」
「そんなつもりはありません。私は、あなたの努力を知っていますから」
その言葉に、指先が止まった。
俺の努力を知っている。
どうして、そんなことを言うのか。俺は誰にも見せないようにしてきた。期待されるのが嫌で、失望されるのが怖くて、努力している姿さえ隠してきた。それなのに、雪乃光莉は当然のようにそこへ踏み込んでくる。
俺が返事に迷っていると、雪乃はそれ以上何も言わず、自分の席へ向かった。
背筋の伸びた後ろ姿を、無意識に目で追ってしまう。
完璧な少女。誰からも好かれ、誰よりも優秀で、きっと悩みなどないのだろうと思わせる存在。そんな彼女が、俺の何を知っているというのか。
その日からだった。
俺の日常の端に、雪乃光莉の気配が混じり始めたのは。
廊下ですれ違えば必ず挨拶をされる。図書室で参考書を開けば、数席離れた場所に彼女が座っている。放課後、誰もいない自習室に入ると、先に彼女がいて、静かにノートを取っている。
偶然にしては多すぎる。
けれど、彼女は何も言わない。ただ品よく微笑み、俺の視界に入る距離で、完璧な雪乃光莉のまま存在し続ける。
ひかりはそれを面白がるように眺めていた。
「ねえ凛、雪乃さんって、絶対あんたのこと見てるよね」
「見る価値なんてないだろ」
「そういうところだよ」
呆れたように言われても、俺には分からない。人が俺を見る理由は、大抵決まっている。豊橋の名前か、跡取り争いか、兄との比較。そのどれかだ。
だから、雪乃光莉が俺に向ける視線も、きっと同じ種類のものだと思っていた。
少なくとも、その時の俺はまだ知らなかった。
彼女の静かな微笑みの奥に、どれほど重く、甘く、逃げ場のない感情が隠されているのかを。
そして近いうちに、その完璧すぎる美少女が、俺の人生を根本から狂わせる一言を告げてくることを。
この時の俺は、まだ何も知らなかった。
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