9話 十分だけください
翌朝、雪乃は本当に弁当を作ってきた。
ただし、量は半分になっていた。昨日の重箱ではなく、黒い布に包まれた普通の弁当箱。そこに小さなメモが添えられている。
――愛情は減らしていません。
俺はその一文を見た瞬間、机に額をぶつけたくなった。
隣でひかりが肩を震わせている。笑いを堪えているのが丸分かりだった。
「凛、愛されてるねえ」
「他人事だと思って楽しむな」
「だって面白いもん。昨日まで曇ってた雪乃さんが、今日は完全に攻めに戻ってるし」
ひかりの視線の先で、雪乃は俺の斜め後ろに立っていた。制服姿だ。さすがにメイド服で登校するのはやめたらしい。だが、胸元には小さな白いリボンが結ばれている。どう見ても、メイド服の名残だった。
「雪乃、そのリボンは何だ」
「専属の証です」
「校則的にアウトじゃないのか」
「教師の方には、家政実習用の試作品と説明してあります」
「根回しが早い」
「凛さんのそばにいるためなら、私は迅速です」
怖い。
だが、その怖さにも少し慣れてきている自分が一番怖かった。
昼休み、俺は雪乃の弁当を食べた。量は適正。味は相変わらず完璧。昨日より少し薄味で、朝食を抜きがちな俺でも食べやすいよう調整されていた。
俺の生活習慣を分析している。
普通なら引くところだ。
なのに、箸が止まらなかった。
「……うまい」
小さく呟くと、雪乃の表情がふわりと緩んだ。
その笑顔を見たひかりが、少しだけ複雑そうな顔をする。
「ねえ凛、放課後ちょっと話せる?」
その一言で、雪乃の空気が変わった。
笑顔はそのまま。だが、瞳の奥にすっと影が差す。
「ひかりさん。ご用件でしたら、私も同席いたします」
「幼馴染同士の話なんだけど」
「凛さんに関わる話でしたら、私にも関係があります」
「専属だから?」
「はい」
静かな衝突だった。
周囲の生徒たちは、また始まったと言わんばかりに息を潜めている。俺は弁当を飲み込んでから、ため息をついた。
「雪乃、少しだけ外してくれ」
言った瞬間、雪乃の顔から色が消えた。
本当に、一瞬で。
「……私がいると、邪魔ですか」
違う。
即座にそう言うべきだった。
けれど俺は、また一拍遅れた。
その遅れだけで、雪乃は傷ついたように目を伏せた。
「承知しました。私は、廊下でお待ちしています」
彼女は綺麗に一礼し、弁当箱を片づけると、音もなく教室を出ていった。
残された空気が重い。
ひかりは眉を寄せた。
「凛、今のは駄目」
「分かってる」
「分かってない。雪乃さん、あんたに嫌われるの本気で怖がってるよ」
「……俺だって、どうすればいいか分からないんだよ」
本音がこぼれた。
雪乃の好意は嬉しい。けれど重い。信じたい。けれど怖い。近づかれると息が詰まるのに、離れられると落ち着かない。
矛盾だらけだった。
ひかりは、珍しく静かな声で言った。
「じゃあ、分からないって言いなよ。黙るのが一番傷つくんだから」
その言葉に、昨日の雪乃の手紙が重なった。
嘘にしないでください。
俺は立ち上がった。
廊下に出ると、雪乃は窓際に立っていた。背筋は伸びている。表情も整っている。だが、両手は胸元のリボンを強く握っていた。
「雪乃」
呼ぶと、彼女はすぐ振り返った。
その早さが、ずっと俺の声を待っていたのだと告げていた。
「はい、凛さん」
「さっきのは、邪魔って意味じゃない」
「では、どういう意味ですか」
「……分からない」
雪乃の瞳が揺れる。
俺は逃げずに続けた。
「お前がそばにいるのは、嫌じゃない。でも、近すぎると怖い。ひかりと話す時にお前がいると、また何か誤解させるんじゃないかって思う。だから外してほしかった。でも、それを上手く言えなかった」
言葉にすると、情けなかった。
けれど雪乃は、馬鹿にしなかった。
ただ、痛そうに微笑んだ。
「私は、ひかりさんが羨ましいのです」
「ひかりが?」
「はい。凛さんの過去を知っていて、凛さんが自然に言葉を返せる相手です。私は、まだ凛さんに警戒されています。だから、少し離れただけで不安になります」
雪乃は胸元のリボンを握ったまま、目を伏せた。
「凛さんが私を見なくなるのではないかと。昨日の告白も、手紙も、今日のお弁当も、全部なかったことにされるのではないかと。そう考えると、胸の奥が冷たくなります」
完璧な少女の声が、かすかに震えていた。
「私は、重い女です」
「知ってる」
「即答しないでください」
「でも、嫌いじゃない」
雪乃が固まった。
今度は俺が目を逸らしそうになったが、ぎりぎり堪えた。
「困るし、振り回されるし、正直怖い時もある。でも、お前が俺のためにしてくれたことまで嫌だとは思ってない」
雪乃の頬が、ゆっくり赤くなる。
「それは……少しは、期待してもよろしいのでしょうか」
「少しだけなら」
「では、少しだけ独占しても?」
「駄目だ」
「残念です」
本気で残念そうにするな。
だが、そのやり取りで雪乃の表情が少し戻った。胸元のリボンから手が離れる。
その瞬間、予鈴が鳴った。
教室へ戻ろうとした俺の袖を、雪乃がそっと掴む。
「凛さん」
「今度は何だ」
「放課後、十分だけください」
「何する気だ」
「メイドとしてではなく、雪乃光莉として、お話がしたいです」
その言い方は反則だった。
俺は少し迷ってから頷いた。
「十分だけな」
「はい」
雪乃は嬉しそうに微笑んだ。
けれど、その指はまだ俺の袖を離さなかった。
「……雪乃?」
「すみません。もう少しだけ」
「予鈴鳴ったぞ」
「分かっています」
「じゃあ離せ」
「あと三秒だけ」
そう言って、雪乃は俺の袖を大事そうに握った。
たった三秒。
けれど、その三秒の間、彼女はまるで失くしかけた宝物を確かめるみたいな顔をしていた。
俺は何も言えなかった。
重い。
危うい。
それでも、その手を振り払おうとは思わなかった。
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