救出
朝になっても、ウッカリーノは来なかった。
ミトは宿の窓辺で、ガイドブックを開いたまま外を見ていた。半刻ほどそうしていた。
スケが階下へ降り、戻ってきて言った。
「昨夜、この辺りで商人が一人、連れて行かれたそうです」
「どこに」
「バルジェッロの屋敷かと」
ミトは本を閉じた。
閉じる音は小さかった。それから彼女は立ち上がって、マントの襟を直した。
「スケ、カシ」
「……はい」
「行こうか」
石が動く音がした。
ウッカリーノは顔を上げようとして、うまくいかなかった。首を回すと肩から背中まで痛みが走る。そのまま横目で壁のほうを見た。
地下牢の奥、床と壁の継ぎ目のあたり。
積んである石が、内側から押されていた。
音は静かだった。人が力任せに壊しているのではなく、はまっているものを正しい順番で外しているような外れ方だった。
隙間から冷たい空気が来る。黴と水と、古い石の匂い。
最初に出てきたのは、大男だった。革の筒を背負っている。次に、小柄な影。
「うわ」
ウッカリーノは声を出した。
娘だった。昨日、飯を幸せそうに食べていた娘である。マントの裾が相変わらず地面についていた。
彼女はまっすぐこちらへ来て、格子の前で足を止め、少し首を傾けた。
「ウッカリーノ、来たよ」
――なんで。
彼の頭に浮かんだのは、その一語だった。
自分は言わなかった。宿の場所を、ガイドブックの十九頁を、三部屋を。棒で打たれながら、油皿が三度替わるあいだ、言えば終わると分かっていて言わなかった。
あれは、この三人が地下に並ばないためにやったことだ。
それが今、地下に並んでいる。
「……なんで来やがった、馬鹿野郎」
声はほとんど出ていなかった。
娘は答えなかった。
もう一人の男が格子に手をかけ、蝶番のほうを押した。金属が短く鳴って、扉が内側へ倒れた。
娘が中に入ってきて、床にしゃがんだ。
近い。息がかかるくらいの距離だった。
彼女はウッカリーノの顔を見て、腕を見て、それから服の破れたところから覗いている腿を見た。
「痛い?」
「……いや、まあ、大したこたぁ」
「嘘」
「へえ」
「痛いでしょう」
ウッカリーノは黙った。
娘は、彼の手首に指を三本当てた。
――光った。
最初は、灯りが揺れたのだと思った。油皿の炎が風で動いた程度の、そういう変化だと。
違った。
光は娘の指から出ていた。白くて、熱がなくて、輪郭が水のように滲んでいる。それが手首から腕へ、腕から肩へ、肩から背中へと移っていった。
通ったところが、順番に静かになっていった。
肋の痛みが消える。息が深く吸える。腿の裂けたところがどうなっているのか見ようとして、見えたときにはもう塞がっていた。血の跡だけが服に残っている。
ウッカリーノは、それを最初から最後まで見ていた。
驚いたのは、その早さだ。
息を三つ吸うほどの時間だった。
彼は回復魔法を知っている。この町にも使える者はいる。医者にかかれば手を当てて、しばらく押したり離したりして、四半刻ほどかけて痛みを引かせてくれる。金を出せばの話だが。
あれは、こういうものではない。
あれは治すのを『手伝う』ものだ。傷が治るのを早くしてやる。人の体が自然に治ることを、後押してやる。
今のは違った。
後押しされたのではない。『戻された』。
昨夜からの数時間が、なかったことにされた。
「……あんた」
ウッカリーノは、自分の腕を見ていた。
教会の壁に、絵がある。どこの教会にもある。金の光を手から出している女の絵で、その足元に人が集まって、手を伸ばしている。
子供の頃から見ていた。ただの絵だと思っていた。ああいうふうに描く決まりなのだと。
絵の描き方の問題ではなかったのだ、と彼は思った。
あれは、実際に奇跡を見た人間が、見たままを描いたのだ。
「あんた」
喉が、うまく動かなかった。
「あんた、何だ」
「ミトだよ」
娘は立ち上がって、埃を払った。
「昨日も言ったでしょ」
「そうじゃねぇ! そうじゃなくて――」
「立てる?」
立てた。
昨日の朝よりも軽いくらいだった。
ウッカリーノは、自分の手のひらを開いたり閉じたりしながら、この三人が何なのかを考えていた。考えても分からなかった。分からないが、一つだけはっきりしたことがある。
昨夜、自分は正しい方を選んだ。
あれを売らなくてよかった。理由は今も説明できないが、売らなくてよかった。
「おい、お嬢さん」
「なに」
「ここ、バルジェッロの屋敷だ。あの野郎、上にいる」
「そう」
娘は、少しも慌てなかった。
「ちょうどいいね」
階段の上で、扉が開いた。




