捕縛
宿は、ガイドブックの十九頁に載っていた。
「ここでさぁ。三部屋、取っておりやすんで」
「ありがとう」
「明日の朝、迎えに来まさぁ」
娘は頷いて、二人の連れと一緒に中へ入っていった。
扉が閉まってから、ウッカリーノは大きく息を吐いた。
悪い一日ではなかった。むしろ十年ぶんの上等だ。飯を奢らされたのは痛かったが、あの白い金貨が本物なら――本物でなくとも、あれだけの細工物なら――どこかで値はつく。
彼は夜の道へ歩き出した。
両替商は朝まで開かない。塒に戻って、藁の下にでも埋めておけばいい。
三つ目の辻で、鎧の音がした。
「よう。ウッカリーノ」
四人いた。
顔は知っている。向こうも知っている。この町で三十年やっていれば、そういう仲になる。年に何度か袖の下を包み、何度か殴られ、何度か見逃してもらう。そういう間柄だった。
「今夜は稼いだって聞いたぜ」
「めっそうもない。飯代で消えましたよ」
「見せろ」
抵抗はしなかった。抵抗するとひどくなることを知っている。懐から出して渡した。いつも通り、いくらか取られて終わるはずだった。
先頭の男が、それを灯りにかざした。
「なんだこりゃ」
「さあ。まあ、記念の品ってやつでしょう」
「銀じゃねえな」
「銀じゃありませんねぇ」
「まて。この顔、どこかで見たな」
男は表の横顔を見たまま、しばらく記憶を探っていた。
それから、裏返した。
そして、止まった。
彼が見ていたのは刻印だった。ウッカリーノにはただの模様に見えていたそれを、騎士は知っていた。この国で、それを押していい役所はひとつしかない。
「……おい」
声の質が変わっていた。
その瞬間から、これはいつもの話ではなくなった。四人にとっても事故だった。彼らはただ、いつも通りに小銭を取り上げるつもりで声をかけただけである。
「連れてけ」
屋敷の地下は、石の床だった。
棒で打たれた。
太いものではない。人を殺すための道具ではなく、痛みだけを長く出すための道具だった。腕、腿、背中。骨を折らないように、位置を選んで打ってくる。
訊かれることは、ずっと同じだった。
「どこで手に入れた」
「道案内をしたら、恵んでくれたんでさぁ」
「どこの誰だ」
「知りませんて。名前も聞いてねぇ」
「ふざけるな」
また打たれる。
油皿が三度替わった。三度目のときには、自分が何時間ここにいるのか分からなくなっていた。
夜半を過ぎた頃、上から靴音が降りてきた。
入ってきた男は、鎧を着ていなかった。上着の襟が糊で立っていて、指がきれいだった。
「これか」
バルジェッロ・アウトリーノは、白金貨を灯りの下に置いた。
「……旧白金貨だ」
こちらを見もせずに、部下から報告を受けている。行列が旧市街を通ったこと。地面が割れたこと。流れのヒーラーの噂。彼は一つずつ確認しては、頷いていた。
彼にとってこの地下室は、今夜回るいくつかの場所のうちの一つだった。
「商人」
ようやく顔が向いた。
「これがいくらか、知っているか」
「……いえ」
「これ一枚で、軍隊が一月買える」
ウッカリーノの息が止まった。
軍隊が。
一月。
あの娘は、これを、道を訊いた礼に渡した。財布から適当に一枚抜いて。買い物に使えると思い込んで。
「……えっ」
「今更驚くな」
「いや、あの、旦那、待ってくだせぇ」
彼は初めて、必死になった。
「あっしは本当に知らねぇんで! 貴族のお嬢さんが道に迷ってて、案内したら、これをくれて――」
「その額をか」
「その額をでさぁ!」
「それが通ると思うのか」
通らなかった。
自分でも分かっていた。真実というものは、時として、考えうる最悪の嘘より嘘くさい。
棒が上がった。
――ただ。
打たれながら、ウッカリーノは別のことを考えていた。
自分は本当に知らない。あの三人が何者なのか、どこから来たのか、なぜそんなものを持っているのか、何ひとつ知らない。それは嘘ではない。
だが、『宿は知っている』。
自分で案内した。ガイドブックの十九頁。三部屋。あそこを言えば、この痛みは今すぐ終わる。
言えば終わる、ということも、彼にはよく分かっていた。
言わなかった。
理屈はなかった。強いて言えば、商売の筋というやつだった。
彼は三十年、金を持っている人間から巻き上げて生きてきた。持っていない人間からは取らない。それは矜持ではなく、単にそういう商売の型だった。
この連中がやっているのは、その逆である。
宿を言えば、あの三人は取られる側に回る。魚を旨そうに食っていた娘と、黙って卓についた男二人が、この地下に並ぶことになる。
それはいけない。それは彼の商売ではなかった。
油皿がまた替わった。
「言え。誰だ」
「……言えるわけねぇだろ」
声が掠れていた。彼は笑っていた。笑うと肋が痛んだ。
「あの三人が何なのか、こっちが聞きてぇんだ」
石の高窓が、うっすら青くなりはじめていた。




