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ラ・ヴィータ

 日が落ちてから、店に着いた。


 料理店『ラ・ヴィータ』。ガイドブックの三十二頁に載っている。挿絵では表に葡萄棚があって、実際にもあった。


「ほら、あった」


「ありましたねぇ」


 ウッカリーノは、案内した本人であるにもかかわらず、この店に入るのは初めてだった。彼の商売の相手はこういう店に入らない。


 石の床、白い壁、油皿の灯り。奥の竈から音がしている。客は七分ほど埋まっていた。


 席に着き、ミトが二人を見上げた。


「座って」


「は」


「食べてね。今日は、あなたたちのために来たんだから」


 スケとカシは、一拍だけ動きを止めた。任務中に卓につくのは規律違反である。


 だが主が食べろと言えば、食べる。二人は椅子を引いた。


 運ばれてきたのは、平たい鍋のまま置かれた魚だった。


 白身の魚が丸ごと一尾。煮汁が濁らずに澄んでいて、貝が口を開き、緑の草と、赤い実がいくつも浮いている。湯気が上がった。


「魚!」


 ミトが言った。


「魚だね!」


「アクアパッツァってやつでさぁ。この辺の名物で」


 ミトは鍋を覗き込んだ。それから匙で煮汁をすくって、赤い実をひとつ持ち上げた。


「これ、なに」


「トマトで」


「トマト」


「へえ」


「教会は、これについて何て言ってるの」


 ウッカリーノが匙を取り落としかけた。


「は?」


「食べ方。焼くのか、生でいいのか、断食の日はどうなのか」


「……いや、何も」


「何も?」


「聞いたことありませんねぇ。食い物にいちいち教会がどうこうってのは」


 ミトは赤い実を匙に載せたまま、しばらく黙っていた。


 彼女の時代、口に入るものにはすべて扱いが定められていた。魚も、獣も、乳も、酒も。何をいつどう食べるかは、彼女が決めて、書かせて、写させたものだった。


 この実には、何もない。


 千八百年のあいだに料理のほうが増えすぎて、規定が追いつかなくなっている。彼女が作った制度は、彼女の知らない世界を裁けない。


「……スケ」


「はい」


「これ、食べていいの?」


「……ミト様が決めることでは」


「そっかぁ」


 ミトは口に入れた。


 噛んで、目を丸くして、それから鍋のほうへ身を乗り出した。


「酸っぱい」


 もう一つ食べた。


「おいしい。今日よりこの糧は食べていいことにします」


「はっ」


「はっ、仰せのままに」


 三つ目を取ろうとして、匙が煮汁に沈んだ。ミトは匙を置いて、魚の身を崩しにかかった。


 白身がほろりと外れる。煮汁を絡めて口に運ぶ。今度は何も言わなかった。


「……ミト様」


「なに」


「お顔についております」


「取って」


 沼の魚ではなかった。泥の底にいた、脂の乗った、十月のあの魚ではない。あれはもうどこにもない。


 これは別の魚で、別の煮方で、別の店だった。


 昔の店はなくなっていて、代わりに新しい店が建っていた。それだけのことだった。


「食べて。二人とも」


「は」


 スケが匙を取り、カシが黙って続いた。二人が魚を口に入れるところを、ミトは最後まで見ていた。


 それが今日、彼女がやりたかったことのすべてだった。満足した。


 鍋が半分ほど減った頃、ミトはガイドブックを卓に開いた。油の跳ねを気にする様子はなかった。


「商人」


「ウッカリーノでさぁ」


「ウッカリーノ。この、カッチュッコというのは?」


「そりゃ海の方の料理でしてね。魚を何種類もぶち込んで、赤くして、パンを浸して食う。ポルト・ラ・クアリアが本場で」


「近いの?」


「ここから五日はかかりまさぁ」


「行こう」


「今からですかい!?」


 ウッカリーノは声を上げてから、周りを見て縮こまった。


「いや、あのですね、五日ってのは馬車を乗り継いでの話で、途中に町が三つ四つあって、検問もあって、そんな思いつきで――」


「明日でもいいよ」


「明日でもですねぇ!?」


 やばい、この娘は本気だ、とウッカリーノは思った。


 彼の中で計算が始まっていた。


 昼間もらったあの金貨のことである。白くて、重くて、教皇庁の刻印が入っていて、彼が生涯に見たどの金属とも違っていた。銀貨でも金貨でもない。ああいうものは、彼の知っている貨幣の一覧に載っていない。


 ひょっとすると貴族の家に代々あるような、記念の品なのかもしれない。そう思うことにした。そう思わないと落ち着かなかった。


 問題は、『使えない』ということだ。


 この店の勘定にあれを出すわけにはいかない。出したところで釣りも払えないだろう。店主が困るだけだし、下手をすれば人を呼ばれる。つまり今日の飯代は自分が払う。


 昼間、大金をもらったはずなのに、なぜかその日のうちに財布が軽くなっている。


「勘定は、あっしが」


「そう? ありがとう」


 娘はあっさり頷いた。金を持っている人間の頷き方ではなかった。かといって、持っていない人間の頷き方でもなかった。


 払うという行為に関心がないのだ、とウッカリーノは気づいた。


 背中が少し寒くなった。


 ――明日の朝いちばんで、あれを換金しよう。


 彼は決めた。まっとうな両替商に持ち込んで、あれが何なのかを教えてもらう。値がつけばそれでよし、つかなければ捨ててもいい。とにかく手元に置いておくのが落ち着かない。


 それが、彼が生涯でいちばん高くついた思いつきになる。


「ウッカリーノ」


「へえ」


「明日も案内してくれる?」


「……そりゃもう、喜んで」


 葡萄棚の外は、もうすっかり夜だった。

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