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ウッカリーノ

 畦道から町へ戻り、水路沿いの角を曲がったところで、声がかかった。


「お嬢さん」


 樽の上に腰かけた男が、片手を上げていた。


 三十半ばか、もう少し上か。日に灼けて、髭の剃り跡が青い。上着は仕立てのいいものだが袖が擦り切れていて、指には石の入っていない指輪がいくつも嵌まっている。足元には風呂敷包みと、蓋の開いた行李がひとつ。


「さっきから同じ道を三度も通ってますぜ」


 ミトは足を止めた。


 実際、三度だった。地下から上がって沼を探して一度、教会からの帰りに一度、そして今である。


「迷ってるでしょう」


「うん」


「でしょうねぇ」


 男は樽から降り、埃を払った。


「あっしはウッカリーノと申しやして、まあ、この辺のことなら大抵は。困ってる旅の方を放っておけない性分でしてね」


 嘘ではなかった。この角に座って、迷った人間が三度目に通るのを待つのが彼の商売である。


 彼が見ていた絵は、こうだ。


 仕立てのいいマントを引きずった小柄な娘。連れは二人きり、どちらも姿勢がよく、身なりが整いすぎている。良家の令嬢が供を二人つけて物見遊山に来て、案の定はぐれた。


 ――カモとしては完璧だった。彼が読み違えたのは、身分の桁だけである。


「お嬢さん、顔色が悪い。どこか座れるところをお探しで?」


「ううん」


 ミトは笑ってみせた。


 麦畑から何ひとつ立ち直ってはいなかったが、受け答えはできた。人前で表情を作るのは、彼女が最初に習った技能のひとつである。膝をつきたい気分のときに背筋を伸ばすことは、千八百年前から変わらず得意だった。


「探しものは、もう済んだの」


「そりゃあ結構」


 ウッカリーノは行李を開けた。


 ――主が悪人と向き合っておられる。


 スケとカシは、動かなかった。


 二人は幼い頃から教典で読んできた。聖女は身分を隠して市井を歩き、悪しき者にこそ自ら近づき、これを改めさせたと。数え切れないほどの逸話がある。騎士団の朝の朗読は今もそこから始まる。


 目の前の男は、どう見ても正直者ではない。


 つまり、これから始まるのだ。二人はそう理解した。教典の一節が、今日この道端で。


「へへ、こいつをご覧じろ」


 行李から出てきたのは一冊のガイドブックだった。


「聖都までの道中案内でさぁ。宿も飯屋も、通行の作法も全部載ってる。旅の方には必需品で」


 ミトが受け取って開いた。


 そして、止まった。


 絵が入っていた。それも一枚や二枚ではない。町の門、橋、聖堂の正面。線が細く、影が細かい網目で刻まれていて、ページをめくるたびに次の絵が出てくる。


「……これ」


「へえ」


「これ、誰が描いたの」


「そりゃ職人が版を彫って」


「一冊にこれだけ? すごい」


 ミトは顔を上げた。目が明らかに変わっていた。


「同じ本、他にもあるの」


「そりゃありまさぁ。何百冊と刷ってる」


「何百」


「活版印刷でさぁ! 職人が一枚一枚彫ってるわけじゃない。字の粒がありましてね、そいつを並べて組んで、上から紙を当てて刷る。組み替えりゃ次の本になる」


「……えっ」


 ミトは本と男を交互に見た。


「じゃあ誰が書いたの」


「だから誰も書いてないんですって!」


「誰も書いてない本があるの!?」


「書いてありますでしょうが、そこに!」


 ウッカリーノは声を張り上げてから、我に返って咳払いをした。客に大声を出すのは商売として最悪である。


 だがこの娘は、腹を立てるどころか本に顔を近づけて、紙の縁を指でこすっていた。


「すごいね、これ」


「……そりゃどうも」


 ほわー、と、連れの男たちと共に、本に見とれている。3人ともただの本が珍しいのだ。

 ウッカリーノは、これはしめた、と思った。いくらお金を取れるか、皮算用をしていた。


「ウッカリーノ」


 ミトは本を抱えたまま言った。


「あのね、この本に載ってるお店に行きたいんだけど、道が分かんないの。案内してくれる?」


「そりゃもう喜んで。日が暮れる前に――」


「これ、あげる」


 カシの手が動いた。


 腰の袋から抜いて差し出したものが、傾いた日を受けて白く光った。


 銀ではない。金でもない。刻印は教皇庁のもので、表に温和な若い女の横顔があった。先代聖女だった。どことなく目の前の娘に似ている。


 ウッカリーノの手が止まった。指が半分だけ開いた形で、空中に留まっている。


 彼は一度、それを見た。


 それから娘を見た。


 もう一度それを見た。


「お金らしいよ」


 ミトが言った。


「最近はこういうので買い物するらしいの。私もついこの前教えてもらった」


「……つい、この前」


「うん」


 ウッカリーノは受け取った。受け取ってしまった。受け取らないという選択肢は、彼の中に存在しなかった。手のひらの上でそれは、彼が生涯に見たどの金属よりも重かった。


「あんたたち」


 声が裏返った。


「一体、何者なんですかー!?」

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