麦畑
麦畑だった。
刈り入れの済んだ土が、低いほうへ向かってどこまでも続いている。畝が引かれ、水路が真っ直ぐに切られ、遠くに小屋がひとつ。人はいなかった。十月の畑は、次を播く前の土をさらしているだけだった。
水は、一滴もなかった。
ミトは畦の上に立って、それを見ていた。
畑の隅に、石が並んでいる。
耕すのに邪魔だっただろうに、掘り起こされずに残されていた。長方形に、地面すれすれの高さで。建物の基礎だと分かる並び方をしている。
ミトは畦を降りて、そこへ歩いていった。
石の一つに、文字が彫られていた。
風雨で角が丸くなっているが、深く刻まれているので消えてはいない。細く角ばった、教区台帳の隅にあったのと同じ書体だった。この土地の者はもう誰も読めない。
その脇に、もう一行あった。
こちらは彫りが浅く、線が震えている。鑿の角度が定まっておらず、途中で一度失敗して彫り直した跡がある。大人の道具を勝手に持ち出した子供の仕事だった。
――ミト、ここにきた。
――おとうとと、ふたりで。
ミトはしゃがんで、指でその溝をなぞった。
自分の字だった。
千八百年、聖女は死ななかった。
病まず、老いず、傷が残らず、ただ生き続けた。その間に王国は倒れ、帝国は入れ替わり、彼女が立てた教会だけが残って、彼女の言葉を共通語に翻訳し、原語のほうを捨てた。沼は埋められ、名は忘れられ、町の名前にだけ「砦」が残った。
弟がどうなったかは、誰も記録していない。
二人は動かなかった。
スケもカシも、麦畑には目を向けていなかった。跪きもせず、声もかけず、鞘に手を添えたまま、ただ立っている。彫像のような立ち方だった。
彼らは幼い頃から教えられている。この国も、教会も、自分たちの騎士団も、すべてこの方が作られたのだと。だから待つ。この方が次に何か仰るまで、何をしていいかは決まらない。
主が黙り込んだのだと、それだけは分かっていた。
ミトは指を離した。膝の土を払って、立ち上がる。
もう一度だけ、畑を見た。
「……戻ろっか」
「は」
「はい」
三人は畦道を引き返した。
魚の話は、それきり出なかった。




