大団円
ヴェスコヴォ・トビーザリオがジャンセーナに着いたのは、その日の午後だった。
馬車を降りるなり、彼はまず、町の様子に困惑した。
道が、きれいだった。
石畳に塵ひとつ落ちていない。表通りの関所には人が並んでおらず、番の騎士が籠を担いだ老人に「お通りください」と頭を下げていた。横を、孫らしい少年が走っていった。
角の向こうで、荷車を押していた男がよろけた。
鎧の音が四つ、殺到した。騎士たちが荷車を支え、男の背に手を添え、うち一人が「どちらまで運びましょう」と訊いている。男は困惑していた。
トビーザリオも困惑していた。
「猊下、こちらでございます」
治安長官バルジェッロ・アウトリーノが、揉み手をしながら先導する。糊の効いた襟の男で、腰の低さが度を越していた。
連れて行かれたのは、表通りから二本外れた、鐘楼のない教会だった。
「これはこれは、司教猊下。ようこそこのような貧しい教区へ」
出てきた司祭が、深く礼をした。左腕に、真新しい腕章が巻いてある。『監査官』と書いてある。それから、脇の卓を示した。
布をかけた木箱が積んである。四つ。ひとつ持ち上げるのに、大人の男が二人がかりだった。
「アウトリーノ殿より、教会へご寄進をいただきまして」
「……寄進」
「二十年分、迷惑をかけた償いをしたいのだそうで」
アウトリーノは深く頭を下げた、腕章のほうを見なかった。
トビーザリオは箱の一つを開けさせた。
銀貨だった。上まで詰まっていた。
「一体、何があったのだ!?」
「いやあ」
司祭は、しみじみと嬉しそうに笑った。
「つい先日、ミトちゃんという敬虔な信徒の子が来まして」
「――ミト、ちゃん」
「はい。旅の方でしてね。頭巾をかぶった、小柄なお嬢さんで。沼を探しておいでで」
トビーザリオの顔が、白くなった。
「その子が、騎士のみなさんとお話し合いをしてくださったらしいんですよ。そうしたら、皆さんご覧のありさまでして」
「話し合い」
「どんなお話をされたんでしょうねぇ。私も聞きたかったわ」
パンを山ほど抱えたシスターが、卓の脇から身を乗り出していた。
トビーザリオが向き直った。
「そなたも会ったのか」
「はい!」
「顔は」
「……お顔は」
シスターは、少し考えた。
「お連れの騎士の方が、それはもう、背がお高くて。お一人は、甘くとろけるようなお声で、目を伏せて礼をなさって、お一人は、戸口に立ったまま、憂いを帯びた眼差しで、遠くを眺めて――」
「娘だ。娘の顔を訊いている」
「……見ておりません。マントで隠しておいででしたので。あ、でも、飴をあげるととても喜んでましたわ。小さくて、かわいらしくて」
トビーザリオは、そこでようやく全部を繋げた。
行列を離れた聖女。旧市街の爆破の報告。流れのヒーラーの噂。そして、一夜にして生まれ変わった町。
「あの、お方は」
声が震えていた。
「あのお方は――先代聖女、ディミトリア様だ!」
パンが床に散らばった。
「ええっ、ミトちゃんが!?」
司祭は、口を開けたまま固まった。
それから、ゆっくりと自分の手を見た。
二十年前、聖都の大通り。六歳の彼が、行列の輿の上を見上げた。上にいた人が、こちらを見て少しだけ笑った。
昨日、台帳の上で、彼はその顔を見た。
――聖女様に、よく似ておいでですね。
本人に向かって、そう言った。
似ていて当然だった。あの方は、歳を取らない。
「……そう、でしたか」
司祭は、それだけ言った。
しばらく黙ってから、彼は顔を上げた。膝は笑っていた。
「猊下。ミト様は、魚をお召しにこられただけです」
「なに」
「この町に、思い入れがおありだったのでしょう。どうか、ご寛大な措置を」
「今は、それどころではないのだ!」
トビーザリオは怒鳴った。
怒鳴ってから、それ以上は言えないことに気づいて、口を噤んだ。
なぜ連れ戻さねばならないのか。それを説明するには、現聖女について語らねばならない。この司祭にも、この町の誰にも、言えることではなかった。
司祭は、その目を見た。
怒っている目ではなかった。追い詰められている目だった。
「……猊下」
「魚と言ったな」
「は」
「この町で魚を食わせる店を、そなたは知っているか」
「存じておりますが」
「案内しろ」
「私は、この教区を預かる身で」
「知っている者が要る」
トビーザリオは、もう司祭を見ていなかった。
「アウトリーノ殿」
「はっ」
「検問を抜けた記録はないのだな」
「ございません。街道は昨夜から締めております」
「ならば、この町のどこかにいる。なんとしても探し出せ!」
「――は。全力で」
アウトリーノは、深々と頭を下げた。
――嘘は言っていなかった。
彼は屋敷へ戻ると、部下を全員叩き起こした。宿を虱潰しにあたらせ、街道の番を倍にし、旧市街の路地に人を配した。命令は正確で、士気は高く、騎士団は建設的に、真剣に、全力で捜索にあたった。
組織は完璧に機能していた。
ただ、長官本人がその場にいなかっただけである。
夕暮れの三叉路に、四つの影が集まっていた。少し離れて、灯りを持った影がもうひとつ。
「こちらで」
その影が、アウトリーノだった。部下は一人も連れていない。
石畳が中心から裂けている。昨日の昼過ぎ、スケが拳を落とした場所だった。誰も直していない。直そうにも、何が起きたのか分からないので手のつけようがなかった。
割れ目の下から、石の蓋が覗いている。
「押さえておりますので、どうか、お早く」
「ありがとう」
ミトは頷いた。
アウトリーノは震える手で、懐から布包みを出した。
「それと、これを。お返しいたします」
白金貨だった。
ミトは受け取って、それをそのまま横へ差し出した。
「はい」
「……え」
「あげたやつだから、ウッカリーノのだよ」
ウッカリーノは、両手で受け取った。
軍隊が一月買える。この一枚で。
彼は、それを懐の奥にしまった。使う気は、もうなかった。この二日で起きたことを、彼はいずれ誰かに話すだろう。誰も信じないだろう。そのときにこれを出せばいい。
証拠ではなく、お守りとして。
「お嬢さん――いや、あの、猊下」
「ミトでいいよ」
「ミト様」
ウッカリーノは、頭を掻いた。
「あっしを、連れてってくだせぇ」
「うん?」
「その、なんです。あんたがた、金は持ってるが使えねぇ。次の町で、白金貨なんぞ出したら町ごと騒ぎだ。両替の伝手も、宿の相場も、街道の抜け道も、あっしなら分かる」
「そうだね」
「それに」
彼は言い淀んでから、言った。
「世直しの旅なんでしょう。だったら、案内人が要る」
ミトは、少しのあいだ彼を見ていた。
それから、何も訂正しなかった。
「じゃあ、お願いね」
「へえ!」
「スケ、カシ」
「はい」
「あなたたちに責任はないから。何を言われても、そう言いなさい」
「……は」
二人は頭を下げた。それで済んだ。この方がそう言えば、そうなる。
蓋が開いた。冷たい空気が上がってくる。
「ウッカリーノ」
ミトは、暗い穴に足を下ろしながら言った。
「カッチュッコ、五日だったね」
「へえ。ポルト・ラ・クアリアまで五日で」
「行こうか」
蓋が閉まった。
その夜、ジャンセーナの町では、二百人の騎士が朝まで聖女を探し続けた。




