お話
地下は、静かではなかった。
誰も死んでいないというだけで、床の上は惨憺たるものだった。腕があらぬ方を向いている者。膝を抱えたまま息だけしている者。壁に叩きつけられて、伏せた姿勢から動けない者。呻き声が二十人ぶん、低く重なっている。
ウッカリーノは、昨夜の自分がいかに丁寧に扱われていたかを理解した。
その真ん中で、ミトが口を開いた。
「アウトリーノ」
声が、変わっていた。
昨日から聞いていた声である。魚のことを喋り、赤い実を酸っぱいと言い、道に迷ったと笑った、あの声だ。同じ喉から出ているはずだった。
だが、言葉の並べ方がまるで違った。
「そなたは猊下より賜った地にわが物顔で君臨して私腹を肥やし」
床に伏せた男の背が、びくりと動いた。
「能力がないので下々の民のことを顧みる余裕ももてず、そのくせバレそうになったら逆ギレして証拠隠滅をはかるという、信じがたいスカタンをやらかした」
言葉が、頭の上から降ってくる。
「おまけに息がクサい」
「ぐうぅ~!(ありがとうございます!)」
「その行い、ダサすぎて草を生やすほどである」
アウトリーノは、額を石につけたまま震えていた。
「己の罪を認め」
ミトは静かに続けた。
「これまで徴収した通行料を、すべて返済せよ」
沈黙があった。
それから、アウトリーノが顔を上げた。
「……おのれ」
「うん?」
「黙って聞いていれば、図にのりおって!」
男は跳ねた。
倒れた騎士の手から剣をもぎ取り、両手で持って、まっすぐ突っ込んできた。
二十年、机の前で生きてきた男の走り方だった。剣の握り方も間違っていた。それでも刃は刃である。
カシは動かなかった。
スケが片手で剣身を掴み、そのまま横へ払った。アウトリーノの体が半回転して床に落ち、背中から石を叩く。剣は数歩先まで滑っていった。
スケの掌から血が落ちて、すぐに止まった。
「スケ」
「はい」
「棒」
「は」
スケは壁際に立てかけてあった、地下牢の閂を持ち上げた。
樫である。人の腿ほどの太さがあり、丈は彼の背丈を越えていた。昨夜アウトリーノの部下が使っていた棒が、その脇に転がっている。並べると、五倍ほど違って見えた。
「な」
アウトリーノが後ずさった。
「待て、待て、待て――」
振り下ろされた。
音は、肉を打つ音ではなかった。もっと乾いた、家が壊れるような音だった。男の体が跳ね、二歩ぶん床を滑って、そこで動かなくなった。
目が開いたままだった。呼吸がなかった。
ウッカリーノは口を押さえた。
ミトが歩いていって、しゃがんだ。
指を三本、首筋に当てる。
光った。
白くて、熱のない光が男の胸から腹へ、腕へ、脚へと移っていく。折れたものが繋がり、潰れたものが戻り、止まっていたものが動きはじめた。
アウトリーノが息を吸った。
悲鳴を上げようとして、上げきる前に自分の体を確かめた。どこも痛くない。どこも欠けていない。何ひとつ、なかったことになっている。
その意味を、彼は数瞬かけて理解した。
――終わらない。
「もう一度、言うね」
ミトの声は、また元の柔らかいものに戻っていた。
「返済せよ」
「……い」
「うん」
「いたします! いたします!!」
男は額を床にこすりつけた。今度は本気だった。
条件は、それから四半刻ほどで決まった。
通行証は無償とする。関所は残す。人の出入りを見ておくのは治安の役に立つので、そこは潰さない。ただし金は取らない。札も要らない。
徴収した二十年分は、教会が受け取る。
払わされた者の記録は残っていなかった。表上は寸志だからだ。それに本当に補償が必要なのは、払う事ができずに遠回りしていた者たちだ。誰にいくら返すかは決められない。だから教会に渡す、とミトは言った。
表通りから二本外れた、鐘楼のない、蝶番の錆びた教会である。
中央の目を逃れるための飾りとして置かれ、若い司祭が倒れた老人を無償で治し続けていた、あの教会に、二十年分が入ることになった。
「それと」
ミトは思い出したように付け足した。
「内務監査官を置きなさい。教会から呼ぶといいよ」
「……教会、から」
「うん」
アウトリーノの顔から、血の気が引いた。
彼が飾りとして置いたものが、監視者になる。
「あの、でしたら猊下におかれましては、監査の日には、ぜひ御臨席を」
「行かない」
「は?」
「教会の人と、あんまり顔合わせたくないの」
ミトはあっさり言った。
「私がここにいるって事は、内緒だからね?」
理由は誰にも分からなかった。誰も訊けなかった。
最後に、ミトは床の二十人を回った。
一人ずつ、指を当てていく。折れた腕が戻り、潰れた膝が伸び、動かなかった者が身を起こした。同じ光で、同じ順番で、同じ手つきだった。
さっき殺した男を治したのと、まったく同じやり方だった。
ウッカリーノは、それを座り込んだまま見ていた。
昨夜、自分は棒で打たれて、それでも口を割らなかった。耐えたと言っていい。だが今のあれは、耐えるという話ではない。『終わらないものには、耐えるという概念がない』。
この人たちには逆らってはいけない。それが最初の結論だった。
次に来たのが、別の考えだった。
あの人は、悪党の性根を叩き直して、それから治した。二十人を治した。金は自分の懐に入れず、貧乏な教会に回した。
――世直しだ。
この人たちは、そういう旅をしているのだ。
ウッカリーノは、間違った結論に達した。
この誤解は、その後ずいぶん長く続くことになる。
最後の一人が座り直したのを見てから、ミトは立ち上がった。
「スケ、カシ。どうかな」
「よろしいかと」
「異存ありません」
彼女は頭巾を被り直した。目のあたりまで、深く。
「これにて、一件落着!」




