8話:盟約の杯
西日の中、澪たちは坂道を下り、港へ出た。
海面は金と藍に揺れている。鴎が一羽、短く鳴いた。
ふと聞き覚えのある声がした。
澪は立ち止まり、声のした方を探す。
「どうした……? ああ——」
ネッロは察したように、複雑な表情で澪を見た。
倉庫の陰。そこは潮と油の匂いが混ざる、港でもひときわ静かな一角だった。薄暗がりの中に、長身の男が立っている。
——サルヴァトーレだ。両の手をポケットに入れて立っているせいか、不遜な威圧感が増している。
隅にエンリコも立っていた。こちらも朝よりも少し濃い影を纏っている。
サルヴァトーレの前に立つのは、小太りで神経質そうな商人。彼の肩は落ち、指先が小刻みに震えていた。
「……旦那、その件は……教団のほうが条件を良くしてくれると聞きましてね」
掠れる声に、わずかな侮りと迷いが混ざる。
「条件、ですか」
静かに繰り返す。声は柔らかいが、その温度は氷よりも冷たかった。
「旦那もお分かりでしょう?」
商人は媚びへつらうようなべったりとした笑いを浮かべた。しかしサルヴァトーレは微動だにしない。
「確かに彼らは耳障りの良い話を持ちかけるでしょう。ですが——」
一拍おいて、軽く首を傾げる。眼鏡の縁が鋭く光ったのが見えた。
「彼らに協力したところで、貴方の店が海風に晒されて明日も同じ形で立っている……とは限りませんよ」
短い沈黙が港に落ちた。商人の喉が、ごくりと鳴ったのが澪にも聞こえた気がした。
「判断を間違えてはなりません。そのことを、ゆめゆめお忘れなきように」
サルヴァトーレは表情ひとつ変えず、言葉を重ねた。ゆったりと左手をポケットから出し、腕時計を確認する。
「……わかりました」
わずかに震えた返事には、降伏の色が混ざっていた。
「賢明な判断です。では、良い午後を」
その瞬間、彼の顔から冷たい光が消え、穏やかな色だけが残った。
商人の足音が遠ざかる。澪は無意識に一歩下がった。ふと、波音の中で、先ほどまで商人を射抜いていた灰色の瞳が澪を捉えた。
胸の奥が、ざわりと揺れた。
「おや、お二人とこんなところで会うとは奇遇ですね。ご一緒しても?」
サルヴァトーレが、何事もなかったかのように、微笑を浮かべて歩み寄ってくる。
「白々しいなぁ、何が奇遇なんだか……」
ネッロは苦笑しながら軽口を返した。
潮風の匂いの奥に、わずかにあの煙い香りが混ざったように感じた。澪はなぜか、すぐに目を合わせられなかった。
「見晴らしの良いレストランで食事でもいかがですか? あそこの魚介は新鮮ですよ」
「あの、でも……」
「へー! いいじゃん。この島の飯はうまいぞ。それに、ボスの奢りだしな?」
サルヴァトーレは、軽く片手を広げてみせた。
「もちろん。澪さんの歓迎会といたしましょう」
断る隙は、なかった。澪は視線を逸らし、小さく頷いた。
「じゃあ、俺は車とってきます」
「ええ、町はずれの薬局で落ち合いましょう」
エンリコと別れ、澪は二人について行くように石畳を歩き始めた。ネッロは何やら町で聞いた話をサルヴァトーレに報告しているようだった。
しばらく、澪が聞き耳を立てながら歩いていると、ネッロが前を見据えたまま、低く言った。
「……澪、ちょっと歩くペースあげるぞ」
「え?」
ネッロはさりげなく澪の後ろについた。サルヴァトーレも歩調を速める。
「あちらのミラーを。振り返らずに……」
カーブミラーの奥——路地の影に、ひとつ、いやふたつの人影。その気配は、澪が昨日感じたあの寒気と同じものだった。
石畳を急ぎ足で進む三人。
背後からの足音が、一定の間隔でついてくるのが聞こえる。振り返らなくても、その距離がじりじりと詰まってきているのがわかる。
(……やっぱり、ついてきてる)
何度か路地を曲がったところで、ネッロが低く呟く。
「しつけえな……」
サルヴァトーレは歩調を乱さず、わずかに顔をこちらへ向けた。
「澪さんがいる以上、無茶はできません。確実に逃げるなら——市場です」
「……だな」
ネッロは澪の手を取ると、そのまま迷路のような路地へ駆け込んだ。
石畳に影が落ち始める。
潮風が路地を吹き抜けた。
——足音が近い。
(まずい、すぐ後ろだ)
何度も路地の角を曲がる。何度目かの角を曲がる時、澪は石畳の段差に足を取られ、よろけた。
「……っ!?」
パンッ——と、乾いた破裂音。
同時に、澪の右腕に鋭い衝撃。焼けるような痛みが走る。
(撃たれた……?)
喉が詰まり、息が浅くなる。
遅れて理解が追いつく。
視界の端で、薄く血がにじんでいくのが見えた。
「……あいつらッ!」
ネッロの声。
立ち止まった瞬間、空気が変わった。琥珀色の瞳は、獲物を狩るためだけの、獣のそれだった。
(……さっきまでのネッロじゃない)
だが、その肩に静かに手が置かれた。
「落ち着きなさい」
サルヴァトーレの低い声。
「今は逃げましょう。彼女を守るのが優先です」
ネッロが一度だけ深く息を吐く。凶暴な光を押し込めるように、目を細めた。
「……行くぞ」
二人は澪を支え、また駆け出す。
幸い、それ以上の銃声はなかった。路地を抜けるとそのまま市場へ、なだれ込んだ。
魚、果物、香草——熱気と喧騒。
人混みに、三人の足音が溶けた。
ほっとしたのも束の間、急にネッロが走りだした。
驚いていると、すぐさま別の手が澪の腕を掴み、強く引き寄せた。
視界が揺れた。
日除け布の影が上から降りて、光が遮られる。
軒先の影の中、背中に冷たい壁の感覚。
何が起きたのか理解できず、澪は身を固くした。
(誰かに捕まった!?)
「……っ!」
危険を感じ、とっさに相手を押し返そうとした。
「……しっ、静かに」
あの低く滑らかな声が落ちてきた。
「バレてしまいます」
吐息がかすかに触れ、澪の心臓が跳ねた。
外を駆ける足音。市場の喧騒の中でも、それだけははっきり聞こえた。
サルヴァトーレは微動だにせず、ただ耳を澄ませている。澪も、彼の肩越しに通りを見やった。
(あの時の、ほくろの男もいる……やっぱり教団の人だったんだ)
しばらくして、足音は遠ざかっていった。
サルヴァトーレは日除けの陰から出て、何事もなかったかのように袖口を整えた。
「さて、あとはネッロが上手くやるでしょう」
そして澪の腕を一瞥すると、懐から白いハンカチを取り出した。
「掠めただけです。ですが、血は止めておいた方が良い」
そう言って、手早く傷口の上から布を巻く。指先は驚くほど冷静だった。
「……ありがとう、ございます」
澪は早まる鼓動を抑えようと、ゆっくり深呼吸をした。
その後、サルヴァトーレと薬局に向かう大通りを歩いていると、すぐに路地からネッロが戻ってきた。
「澪、傷は大丈夫か? さっきは怖かったろ」
「……うん、擦り傷程度で済んだみたい。ネッロは大丈夫だったの?」
「ああ、俺らは慣れたもんだからさ。澪は帰ったらレオにちゃんと処置してもらえよ」
ネッロは少し得意げに笑った。
薬局の脇では、既にエンリコが車を停めて待っていた。
*
レストランは港から少し離れた崖にあった。
案内されたのは、崖の洞窟を削って作られた石造りのテラス席。そこからは、燃えるような夕焼けと、静かにきらめく紺碧の海が一望できた。
——潮風に、塩気と花の香りがまじる。
白いテーブルクロスの上に、鮮やかな料理が運ばれてくる。
ワインのグラスが光を受けて、夕暮れの茜空と一緒に揺れた。背後では、マンドリンとギターの控えめな旋律が波音に溶けるように流れていた。
まるで、ここだけ別世界のようだった。
澪は、まだ少し震える指先をそっと握りしめた。
ワインに手を伸ばすと、その震えがグラスの縁をわずかに揺らす。喉の渇きは、潮風のせいだけではないようだ。
(……私、やっぱり命を狙われているんだ)
そんな現実感のない実感が、胸の奥をざらつかせた。
澪が神妙な顔で俯いていると、サルヴァトーレが、ワイングラスを軽く傾けた。
「危険な状況でも、冷静さを失わなかった貴女を心から賞賛しますよ、澪さん」
「……そんな、大したことは……」
「頑張ったよな。けど、あんまり無理はすんなよ」
隣で、ネッロが腕を組みながら苦笑した。
サルヴァトーレは、おもむろにグラスを持ち上げた。赤く揺れるワイン越しに差し向けられる、静かな視線。
その笑みは、どこか優雅で、本心が見えない。
「……せっかくです。乾杯しましょう」
軽く首を傾けて、澪のグラスに視線を向けた。
「貴女がこの島に足を踏み入れ、我々と同じテーブルについた。その偶然と——」
サルヴァトーレの白く長い指がグラスを澪の前に運んだ。
「——新たなる門出に、乾杯」
静かに、けれどどこか深い響きで、言葉を紡ぐ。ネッロも、少しはにかんでグラスを持ち上げた。
「あらためて、これからよろしくな、澪」
澪も、戸惑いながらグラスを取り、そっと二人のグラスに触れた。
——カチン、と澄んだ音が響く。
夕焼けを映したワイングラスが、滴る血液のように赤く透けた光を揺らした。乾杯の音は、潮騒に溶けて、夜の帳の中へと吸い込まれていった。
(……『同じテーブルにつく』……か)
それは澪にとって、平和な日常との決別を告げる、終止符の音だった。
こんなにも美しいのに、死がすぐ隣にある世界。
澪はそっと、ワインに口をつけた。舌先にほのかな甘みと、追って広がる渋み。喉を焼くような熱さが次第に胸に広がる。
(……もう、戻れないんだ)
胸に小さな、けれど消えることのない火種が宿るのを感じながら、澪は暮れなずむ海の果てを見つめた。




