7話:島の眺望
港から市場へ続く石畳の通りは、陽光を受けて白くきらめいていた。鴎が低く鳴きながら、帆船のマストの上を旋回する。
「魔女? ああ、火口に落ちた魔女の話だろう。欲深い魔女が神火の怒りをかって、最後に気が狂って火口に飛び込むっていう」
澪はネッロと共に島の東にある港町に来ていた。
初日に一人で聞き取り調査をした時は、誰もろくに相手をしてくれなかったが、ネッロといると島民の態度が全く違うのには驚いた。
漁師たちは、ネッロが網を運ぶのを手伝うと、嬉しそうな顔で寄ってきて世間話をし始めた。
その光景をぽかんと眺めていると、ネッロがウインクで合図をくれた。
そこで、漁師たちに魔女のことを聞いてみると、あっさり教えてくれたのだった。
「教団が子供を怖がらせるために使ったただのおとぎ話だろう」
漁師のパオロは網を直しながら、そう付け足した。
「絵本に書いてあったのと同じ内容……」
どうやらこの島には火口に落ちた魔女という有名な話があるらしい。
「まあ、島で育った奴は大抵この話を聞かされて育ったんじゃないか」
ネッロも腕を組みながら頷く。
「ネッロも知ってたんだね」
「ん? ああ。けどアジトではあんまりな……」
「……アジト?」
バツが悪そうに言葉を濁すネッロに違和感を感じていると、パオロが口を挟んだ。
「そういえば、こないだはどうもありがとよ。あんたらのボスに言われた通り、漁獲量をちょろまかしたら税金が2割も減ったよ」
パオロは声を潜めてそう言うと、銀歯を見せながらニヤリと笑った。
「おかげでかみさんにいいもん食わせてやれたよ。来月子供が産まれるんだ」
「そりゃめでたいな。何人目だ?」
「三人目だ。巷じゃ金持ちの間で若返りの薬が流行ってるなんておかしな噂もあるが、俺たちゃ明日のおまんま稼ぐのに精一杯さ!」
ガハハと豪快に笑うパオロ。どうやら、フィアンマ教団によって港の産業へ重税が課されているらしい。
その後も市場を歩くたび、ネッロには次々と声がかかった。
『お! ネッロじゃないかい』
『こないだは、助かったよ』
『またよろしくお願いします……』
『あんたらのおかげでなんとかやっていけてるよ』
そんな何気ない世間話からも、きびしい現実を生きる島民たちからのチェネレへの感謝や尊敬、時に畏怖の念が香っていた。
*
昼を過ぎた頃、二人は港町を抜け、長い坂道と石段を上った。いくつもの階段を登った先に、小高い丘があった。
足元では黄色や紫の花々が点描のように溶岩層の混ざる荒涼とした野に咲いている。
潮の香りを含んだ海風が頬を撫で、見渡せばどこまでも青い空と海が広がっていた。
だが、その穏やかな景色を切り裂くように、ひとつだけ異質な存在がある。
黒々とした巨大な山影。
島の中心に根を張るそれは、まさに大地そのものが盛り上がっていることを物語っていた。
「あれがフィアンマ山だ」
ネッロが立ち止まった。山頂付近では白い煙がゆっくりとたなびいている。
静かなのに、生きている。
美しいのに、恐ろしい。
理由もなく畏れを抱かせるその姿に、澪は思わず息を呑んだ。
「神火よ。悪しきものを焼き尽くし、善なるものに恵みを与えたまえ」
ネッロは山に向かって小さな声で呟いた。
「それは?」
「ん、教団の教義」
なにげなく答える。
「けどさ、じゃあ酷い目にあってるやつはみんな悪人かよ……ってな、教団に都合のいいスローガンだ」
遠くを見つめたまま、馬鹿にしたように軽い調子で吐き捨てる。ただ、その目は言葉に反して静かだった。
「あれは……」
山の麓に大きな鐘のある塔が見えた。その周りは町になっているようだ。港町とは違う黒っぽい石で作られた家々が並んでいる。
「俺たちは西地区って呼んでる。あそこは山の麓だし、教団の影響力が強い」
脅すように、低い声で続けた。
「教団に命を狙われてるような奴はあんまり近づかない方がいい場所だ」
そう言って、ネッロはまた山の方を眺めた。二人は、しばらく黙ってフィアンマ山とその麓の町並みを見つめていた。
やがて、遠くで鐘の音が鳴る。
あの聖堂の鐘だった。
二人は高台からさらに坂道を登った。登り切ると、視線の先に石垣に囲まれた小さな家が見えた。
背の低い平屋建ての壁は古く、白く削れていた。赤い瓦に苔が点々と広がっている。玄関先では色あせたローズマリーが揺れていた。風に乗って、薬のような香りが漂う。
「ここだ……ロザンナ・クレメンティっていう婆さん。昔のことをよく知ってる」
ネッロは頭をボリボリとかきながら、少しだけ苦い顔をした。
「ただ、まあ、ちょっと変わり者なんだ」
ネッロが扉を叩くと、中から小さな足音が近づく気配がした。ぎぃ、と錆びた音とともに扉が少しだけ開く。
顔を出したのは、小柄で背を丸めた老女だった。その顔にはいくつもの深い皺が刻まれている。しかし、薄青い瞳だけが異様に鋭い光を残していた。
「よぉ、ロザンナさん」
「……なんだい、チェネレなんかお呼びじゃないよ——」
老婆は迷惑そうに顔をしかめた。だが、その瞳は澪をとらえると、大きく見開かれた。
「……あんたは?」
皺の刻まれた顔が、わずかに震える。
「いや……そんなはずはない。あれから……もう何十年も経つんだから……」
その呟きは、誰に向けたものなのか澪にはわからなかった。困惑してネッロの方を見ると、呆れた様子で眉を上げた。
ネッロが軽く咳払いをして、話題を切り出す。
「あーなんだ、ちょっと『火口の魔女』の話を聞きたくてな」
するとロザンナの表情が一変した。そのくすんだ青い瞳が光り、怒りの色を帯びる。
「魔女なんかじゃない! あの方は——グラツィアは、聖女だった!」
痩せた体が前のめりになるほど、大きな声だった。
「あの男のことだ。どうせロクでもないことを考えてるんだろう……巻き込むんじゃないよ!」
言い切ると、ロザンナは背を向けた。次の瞬間、扉が乱暴に閉まった。
扉が閉まる前に、部屋の中がチラリと目に入った。がらんとした部屋の隅に写真立てがいくつか並んでいるだけの寂しい部屋だった。
澪は、微かに老婆の孤独を感じた。
「……ほらな、変わり者だろ」
ネッロは苦笑しながら、澪の肩を軽く叩く。
「あの男って……?」
「多分、トトのことだろ。けど、おかげで『魔女』の名前はわかったな」
「……『グラツィア』……」
その名を、そっと口にする。——それは、妙に心に残る響きだった。
傾き始めた陽光が山影を伸ばし、西地区をゆっくりと飲み込みはじめていた。




