6話:灰の掟
「おはよう、シニョリーナ」
翌朝、屋敷内に用意してもらった部屋で眠っていた澪は、軽快なノックの音で目が覚めた。
扉を開くと見知らぬ男がそこに立っていた。
歳は四十代くらいか、濃い紺色のシャツと陽に焼けた肌。陽気そうな目元にはうっすらと笑い皺が刻まれていた。
「どうも、俺はエンリコ・ファルコーネ。あんたにアジトのルールを教えなきゃならねぇんで迎えにきた」
エンリコは、慣れた様子で澪を促し、広い石畳の廊下へと導いた。
古い礼拝堂を思わせる造りだった。けれど壁際には木箱や工具、畳まれた布袋が積まれており、戦いのために息を潜める砦のようでもあった。
「あの、エンリコさん。私がホテルに残してきた荷物をとりに行きたくて——」
「ああ、それなら心配いらねぇよ。昨日のうちに若いのが回収してきた」
澪は少しホッとして胸をなでおろした。だが、エンリコの言葉には続きがあった。
「ただ、悪いが身につけてるもん以外はこっちで預からせてもらう」
「えっ、返してもらえないんですか……? せめてカメラとか携帯がないと困ります」
「わりぃが、ボスの指示だ。あきらめな」
明るい笑みを浮かべたまま、エンリコは有無を言わさぬ足取りで進んでいく。
(携帯電話、買ったばっかりだったのになぁ……)
澪は、急に裸で放り出されたような心細さに襲われた。
朝の光が高い窓から差し込んでいるのに、火山岩で組まれた黒ずんだ壁に落ちる影はどこか灰色がかって見える。
「自分がなぜ狙われているのか調査するよう言われたけど、いったいどうしたらいいんでしょう?」
「さあな。俺にはわからん」
そう言って、エンリコは肩をすくめた。
そのまま澪の心配など気にも留めない様子で、曲がり角ごとに迷いなく澪の進路を決めていく。開け放たれた扉もあれば、鉄の錠前が下りた扉もある。
「洗面所はあっちだ。まあ男どもが散らかしてることもあるが勘弁してくれ」
「医務室は奥にある。レオナルドって医者がいる。免許は無いが腕はいい」
聞き捨てならない言葉に、澪はつい口を挟んだ。
「無免許って、大丈夫なんですか?」
「ああ、助けられなかった奴はいるが、殺した奴はいない」
(それで、大丈夫ってことになるのかな?)
首を傾げながら澪が廊下を歩いているとファミリーらしき人々からの値踏みするような、歓迎と警戒の混じった視線が集まった。
多くは気さくに、あるいは礼儀正しく挨拶を返してくれる。だが、中には明らかな警戒心を隠さない人たちもいた。
(そうだよね……警戒されて当然だよね)
「あっちは会議室、そんでその奥にボスの執務室がある。部外者のあんたは用がないなら立ち入り禁止だ」
ふと、大きな廊下を歩いていると、地下に続く階段が見えた。その下は、朝の光がまるで届いていなかった。
その先に目を向けると、奥に据えられた鉄扉が黒く沈んで見えた。取っ手には大きな鎖が撒かれ、無骨な錠前が掛かっている。
「あの、こっちの扉は……?」
気になって尋ねると、さっきまで朗らかだったエンリコの瞳が一瞬、鋭く光る。
「ああ、そこは掟を破ったやつの部屋だ」
さらりと答える。
「え、それって……」
「そういう部屋だ。まあ、嬢ちゃんには関係ない……と、いいけどな」
エンリコはすぐ笑顔にもどったが、澪に緊張感を植え付けるには十分だった。嫌でもそこで何が行われているのか想像してしまう。
(チェネレってやっぱり危ない組織なのかも……)
石壁に沿って、冷たい湿気が澪の背筋を這い上がってきた。
廊下を進むうち、食堂の前にたどり着いた。そこだけ、空気が少しだけ柔らかかった。
鉄鍋の焦げた匂い。焼きたてのパンの香り。食器が触れ合う音。低い話し声と笑い声が混ざり合う。さっきまで澪の肌に張り付いていた緊張が、少しだけ薄れていく。
中を覗くと、長い木のテーブルがいくつも並び、数人の男たちが朝食をかき込んでいた。
彼らは澪に気付くと一斉に視線を向けたが、厨房から飛んできた女の声がすると、気まずそうに顔をそらした。
「おや、あんたが澪ちゃんだね!」
エンリコが足を止めた先、リネンのエプロンをかけた女性が軽やかに足音を立ててやってきた。
「こちらはアンナ・マリアーニ。食堂も、屋敷のこまごました世話も、この人が見てくれている」
「初めまして、ネッロから聞いてるよ」
アンナは明るい笑みで手を差し出した。ややふっくらした輪郭に、芯の強そうな目。赤茶の柔らかくカールした髪が親しみやすさと頼もしさを醸し出していた。
「私はここで厨房を任されてるんだ。お腹が減ったらいつでもおいで」
握った手から伝わる、温かな言葉と柔らかい温度に、澪は久しぶりに安堵のため息が漏れた。
「しかし、こんなに可愛い娘が巻き込まれるなんて、可哀想にねぇ……」
アンナは首を振りながら大きなため息をついた。
「せめて、最後の晩餐くらいはマシになるように、毎日美味しい食事を用意してあげるからね」
「えっと……どうもありがとうございます?」
聖母のような慈愛に満ちた笑みと、心からの同情を込めた不穏な言葉に、戸惑いを覚えながら、食堂を後にした。
談話室につくと、背の高い白髪交じりの男性が壁にもたれていた。腕を組み、何か虚空を見つめているようだった。
「こちらは、トニオさん。チェネレの中ではかなりの古株だ。昔のことはこの人に聞くに限る」
「あんたが例の……。悪いが、老いぼれの俺に今のチェネレについて説明してやれることはない」
トニオは澪を品定めするような目つきで上から下まで眺めた後、不愛想につぶやいた。
「……チェネレは灰の掟と忠誠を何よりも重んじる。死にたくなければ忘れるな」
トニオはそこで言葉を切った。
「仲間に手をかけるのは、もううんざりだ」
濁った瞳が澪を射抜く。それはおそらく、何十年もの間、この火山島で血を流し、敵も仲間も葬り、生き残ってきた老兵だけが持つ重圧だった。
「ちょっとトニオさん、嬢ちゃんを怖がらせるのはそのへんにしてやってくださいよ」
エンリコが苦笑いしながら、間に割って入った。その様子を見て、トニオはあらためて澪を一瞥すると背を向けて去っていった。
「悪い人じゃないんだが、頑固なところがあるんだよなあ」
「その『掟』ってなんですか?」
「ああ、説明してなかったな。チェネレと契約したからには嬢ちゃんにも守ってもらわないと」
そう言ってエンリコは指を三本立ててみせた。
「灰の掟、三条——
一つ、裏切らないこと。
一つ、借りは返すこと。
一つ、誇りを持つこと。
以上だ——」
その平易な言葉ひとつひとつが、冷たく重い石のように澪にのしかかってきた。
(チェネレのファミリー……皆、やっぱり普通の人ってわけじゃないみたい)
リネンのエプロンをかけたアンナの明るさにも、どこか肝の据わった強さが滲んでいた。トニオの無愛想な言葉には、沈黙以上の重みがあるように思えた。
「じゃ、食堂に戻って朝飯とするか」
エンリコが振り向くと、能天気なほど明るい声が響いた。
「お、澪~!」
澪が振り返ると満面の笑顔でネッロが手を振りながら近づいてきた。
「あぁ、あいつはネッロ、もう知ってるか。ボスの護衛を務めてるんだが——」
エンリコが話しているのも構わずネッロは会話に割り込んできた。
「昨日はよく眠れたか? 俺は久しぶりによく寝れちゃってさ、今起きたとこ」
「お前、朝の見回りはどうしたんだよ」
「俺が行くほどでもないし、別の奴に任せてきた。それより——」
ネッロはにこにこしながら澪の方に向き直った。
「俺、今日から澪のボディーガード任されたから、よろしくな!」
嬉しそうに澪の手を取ると勢いよく上下に振った。
「ボディーガード、ですか?」
「そ。だって澪、昨日襲われただろ? だから、ボスが澪のこと一人にしないようにってさ」
確かに昨日、教団と思われる者たちに襲われた。澪にとっては思い出すだけでも寒気がするほど恐ろしい出来事だった。
だが、ネッロが護衛につくというのは、おそらく、それだけが理由じゃない。
(ありがたいけど、多分私の行動を監視する……って意味も、あるんだろうな)
「ボディーガード」という名の、監視役。澪の気持ちを知ってか知らずか、ネッロは無邪気に笑っている。
「それとはい、これ」
ネッロが見覚えのあるショルダーバッグを差し出した。中には手帳と古書店で渡された魔女の絵本。
「これは澪が持ってていいって。調査に使うんだろ」
手元にあるのは、ペンダントと謎めいた手紙、色褪せた片道切符。そして絵本。
「私が命を狙われる理由の調査か……」
そんなこと調べなければならないなんて気が重くなる話だ。澪は床を見つめた。
澪を横目に、ネッロは食堂の座席に座りながら尋ねた。
「なあ。澪って、何しにこの島に来たんだ?」
「おばあちゃんの遺言の真相を知りたくて……」
「じゃあとりあえずそれを追えばいいんじゃないか?」
目の前のパンを頬張りながらネッロがさらりと言った。
「え、でも——」
「トトが言ってる調査は、ついでに町の人にでも聞きゃあいい」
(……なるほど、どうせ利用されるなら自分も利用しちゃえばいいのか)
納得している澪の顔を見て、ネッロが愉快そうに笑った。
「そうと決まれば早速……俺が、島を案内してやるよ」




