5話:灰の契約
すっかり日が沈んだ頃。
前方に石灰岩でできた立派な外壁が白く浮かび上がってきた。
大きな門の前で、バイクがスッと停まった。
ネッロが軽くどこかに向かって手を振ると、重たい門が軋みながら開いた。門を通ると、町並みに溶け込む古びた礼拝堂のような屋敷が現れた。その気配は静かながらも、研ぎ澄まされた緊張感を漂わせている。
バイクを停めたネッロに促され、澪もバイクを降りると一緒に入り口に向かった。
中に一歩足を踏み入れたとき、建物の印象がガラリと変わった。外壁とは打って変わった黒っぽい岩の壁が冷たさと威圧感を醸し出していた。
入ってすぐのホールには、薄暗い壁に、心許ない電灯が等間隔に並んでおり、石材の床が硬く冷たい光を反射している。
澪は少し心細くなり、思わずネッロの背後に近づいたが、ネッロは気にしない様子で、ずんずんと歩みを進めた。
その先の廊下を抜けた突き当たり、他の部屋よりも重厚なオークの扉を開く。
その部屋に足を踏み入れた瞬間、澪は息をのんだ。
執務室の机の向こうに、見たことのある男が座っていた。昼間の静かな笑みはそのままに、壁に吊るされた灯りが、彼の氷のような灰色の瞳に薄く光を宿している。
「また会いましたね、シニョリーナ」
男は、静かに微笑んだ——あの古書店の店主だった。
「こいつが俺たちのボスだ」
隣のネッロが誇らしげに、けれど少し悪戯っぽく笑った。
「えっ——」
まったく事態が飲み込めないまま「ボス」という言葉だけが澪の耳に不穏に響く。
ネッロに紹介された男が形式ばかりの会釈をした。
「スピネッリ・ファミリー——通称『チェネレ』を取りまとめているサルヴァトーレ・スピネッリと申します」
澪の胸の奥に、得体の知れない緊張が走る。
古書店であの店主が纏っていたものと同じスモーキーな香りが微かに鼻腔をくすぐった。しかし、それは今や危うげな甘さに変わっていた。
サルヴァトーレはゆっくりと胸の前で指を組むと、銀色の視線を絡めた。
「お待ちしていましたよ——神坂澪さん」
微笑みは柔らかく、声は低く静かだった。
「なぜ私の名前を? 待ってたって……?」
「戸惑う気持ちはお察しいたします。ですが、実際貴女は運が良いのです」
サルヴァトーレは、淡々と続けた。
「フィアンマ教団に捕まる前に、チェネレにたどり着いたのですから」
「教団って、チェネレって一体何なんですか……?」
全く状況が読めずに、混乱する頭を整理しようとして、質問が口をついて出た。
「そうですね……火山信仰を掲げ、この島の富と人心を握っている教団と、その教団と折り合いの悪い集団、とでも思っていただければ良いでしょう」
「つまりチェネレは所謂“地下組織”……?」
「ええ、乱暴に言えば」
澪の中に不安と疑念が広がる。確証に近い警鐘が胸の奥で鳴った。
「さて、神坂澪さん。貴女は、先ほどフィアンマ教団の手先に襲われた、との報告を受けています」
その時のことを思い出して、思わず、胸に抱えた銀色の紙袋を握りしめる。
「……はい」
「定かではありません。が、教団は貴女の命を狙っています」
決して感情を見せない瞳が、静かに澪を射抜く。サルヴァトーレの言葉は信じがたいものだった。だが、言われてみれば確かに澪にも身に覚えがあった。
「教団が、私を狙っている……」
口にすると、急に現実味を帯びた。 昨日の視線や荒らされた部屋、赤い布。ばらばらだった不安が、一本の線でつながっていく。
(あの男たちも、私の名前を知っていた……)
不安げな澪に、サルヴァトーレは目を細めてみせた。
「ですが、ご安心ください。貴女がチェネレの領分に入ったからには、命を守って差し上げます」
澪はサルヴァトーレを見た。先ほどから表情も声色も少しも揺らがない。まるで、彼女の疑念も恐怖も、すべて想定の内だと言わんばかりだった。
「なぜですか?」
澪は恐る恐る、しかしはっきりと口にした。
「なぜ、何のメリットもないのに、見ず知らずの私を守るのですか?」
疑念が堰を切ったように、口からこぼれ落ちる。
「古書店でいただいた紙袋、私が教団に見つかるようにわざと持たせましたよね?」
澪の言葉に、サルヴァトーレの瞳が一瞬鋭く光り、再び愉快そうに細まる。
「……なるほど。その鋭い観察眼と気丈さに敬意を表して、もう少し状況を説明して差し上げましょう」
サルヴァトーレは、胸の前で組んでいた指を解いた。
「我々チェネレは教団の支配からこの島を解放したいと考えています。そのためには、彼らの弱みを握りたい」
そう言うと、指で一度だけ軽く机を叩いた。
「そこに、彼らが血眼で命を狙う貴女が現れた——なぜここまでして貴女を狙うのか、理由に心当たりはありますか?」
「いえ……わかりません」
「本当に、何も……?」
眼鏡の縁がわずかに光り、その視線が鋭く澪を射抜いた。
「私は祖母の遺言でこの島のことを調べにきただけなんです……」
澪は自分が持っている全ての情報を明かした。しばらくの沈黙ののち、サルヴァトーレは口を開いた。
「……では提案です。この島で、貴女は“教団が貴女を狙う理由”を探り、結果を我々に提供する。その対価として、我々スピネッリ・ファミリーが貴女の命を保証する——」
そこまで言うとサルヴァトーレは、椅子からゆっくりと立ち上がった。
「これでお互いの条件が公平になりましたね」
サルヴァトーレは一歩、澪に近づくと首を軽く傾げながら言った。
「……悪い話ではないはずです。この島で教団から貴女を守ることができるのは、我々だけですから」
澪を見据え、まるで契約書を差し出すかのように、言葉を紡ぐ。その瞳は急かさず、ただ澪を観察し続けている。
澪も、黙ってサルヴァトーレを見返した。震えそうになる手を強く握りしめ、あえて不敵に微笑んで見せた。
「私に選択肢があるとは思えませんが、わかりました」
サルヴァトーレはゆっくりと瞬きすると、わずかに微笑んだ。
「……それでは、こちらを」
そう言うと、机の上に置いてあった赤いベルベットの小さなケースを澪に手渡した。
蓋を開くとそこには銀色のシグネットリングが納められていた。台座には火山を逆さまにしたようなマークが彫られている。
「この島にいるうちは、必ずつけていてください。その指輪はチェネレが貴女を守るための印となります」
澪は言われた通り、指輪を左手の中指にはめた。サイズは怖いほどぴったりだった。
「これで、契約成立ですね」
澪が指輪をはめるのを見届けてから、サルヴァトーレは満足げにゆっくりと席に戻った。
「チェネレには古い言葉があります」
椅子に座ると、彼は澪の左手へ視線を落とした。
「炎は燃え尽きるが、灰は残り続ける。——灰の意志を忘れるな」
その声音は穏やかでありながら、どこか誓いと覚悟を含んでいた。
「我々の大切な哲学です」
(『灰』——つまり『チェネレ』か……)
澪は、胸の奥で何かが高鳴るのを感じた。
怖さもある。でも、それ以上に好奇心が彼女の心を震わせていた。もう、ただの旅人ではいられない。
(おばあちゃん……私、進むよ)
澪はリングをつけた左手で胸のペンダントに触れた。指輪の冷たさと、ペンダントの硬さが、掌の中で重なった。




