4話:チェネレの狂犬
外に出ると、すでに空は茜色に染まっていた。
紙袋を胸に抱えながら、澪はホテルへと向かって歩き出した。古びた石畳の道を、足早に進む。
(……この袋、すごく綺麗だけど古本屋の紙袋にしては不釣り合いだなあ)
そう思いながら、ふと視線を感じて立ち止まった。
少し先に、男たちがいた。
路地の向こうから、無言でこちらを睨みつけている。視線が、銀の紙袋と澪の顔を交互に行き来する。
(嫌な予感がする)
男たちは、互いに頷き合うと、ゆっくりと、だが確実に距離を詰めてきた。
一瞬で、寒気が全身を駆け抜けた。
冷や汗が首を伝う。叫ぶべきかと迷ったが、のどが詰まって声が出ない。澪は慌てて踵を返し、走り出した。
しかし、遅かった。横手の路地から回り込んできた別の男に、腕を掴まれる。
「お前が『ミオ・コウサカ』だな、来い」
乱暴な低い声に、脅されているのだと理解した。腕を強く引っ張られ、澪は恐怖を感じながらも抵抗したが、男はすぐにポケットから銀色に光るナイフを取り出してみせた。
「いや……っ!」
叫ぼうとしたが、掠れ声しか出なかった。周囲に人気はない。突き飛ばされて、よろめき倒れた。
石畳の冷たさが掌に食い込んだ。紙袋を抱え直そうとした指が、うまく動かない。
男の影が、夕陽を遮って澪の上に落ちた。血の気が引いていく。
(だれか、たすけて——)
そのときだった。
「——よお、なにしてんの?」
緊張感のない、しかし確実に澪たちまで通る声が、夕暮れの路地に響いた。
男たちが一斉に振り向く。
その視線の先、路地の向こうで、革靴が石畳を叩く音が響く。西日に照らされた人影がゆっくりと近づいてきた。
「ちょっとさ、お兄さんたち。女の子にそんな手荒なマネをするのはよくないんじゃねぇの?」
軽い調子の声が、響いた。
気だるげにポケットに手を突っ込んだまま、場違いなほど呑気な微笑みを浮かべた青年が現れた。
幼さの残る顔に似合わない、筋肉質な体躯。くしゃっとした焦茶の癖毛を風に揺らし、青年はさらに近づいてくる。
澪が呆然と見つめていると、青年が人懐っこそうに微笑みかけた。
(私を助けようとしてる?)
男たちは一瞬、戸惑ったように視線を交わし、すぐに苛立ちを露わにした。
「なんだてめぇ、邪魔すんな!」
怒号とともに、男の一人がナイフを握った手を振り上げた。
「……やるのか?」
先ほどまでとは打って変わった青年の冷たく落ちた声に、路地の温度が凍りついた。彼のわずかに歪められた口角と、獲物を品定めするような獣じみた眼差し。
澪の背筋に冷たい戦慄が走る。ただの恐怖ではない。もっと別の何かだった。
「おい、ちょっと待て……あの傷」
ひとりの男が顔色を変えた。
「『チェネレの狂犬』だ……!」
誰かが叫ぶと、仲間がざわめきだす。
そう言われて目をやると、青年の首筋に刻まれた深い傷跡に気づいた。
「冗談じゃねえ。報酬に見合わねえぞ!」
主犯格の男が吐き捨てると、男たちは腰が引けたように次々と逃げ出した。
青年は鋭い目つきのまま、その背中を追わずに見送った。まるで、わざと獲物を逃がしてやるかのように。
男たちの足音が聞こえなくなるのを待って、青年がこちらに振り向いた。その顔は先ほどの鋭さからは想像もつかないほど、人懐っこそうで無邪気な微笑みだった。
「腰抜けばっかで助かったな。怪我はないか?」
その声は、まるで昼時の雑談のように軽かった。先ほどの恐ろしい殺気など微塵も感じさせない。
澪はその豹変ぷりに唖然とした。
「俺はネッロ。あんたを迎えにきたんだけど、立てる?」
ネッロと名乗った青年は、にっこりと笑ったまま手を差し出す。澪は、しばらく硬直していたが、おずおずとその手を取った。
「大丈夫、ありがとう……」
握り返したネッロの掌は、大きくて、とても温かかった。
「ん、まだ少し震えてるな。……怖かった?」
ネッロは優しげに微笑むと、澪に問いかけた。
「はい、少し……」
「だよな。けど、もう大丈夫だ」
安心させるように、人懐っこく目を細め、にかっと歯を見せて笑う。その笑顔に、いまだに震えていた肩の力が少しだけ抜けた。
「こんなとこ一人でフラついてるから攫われんだぞ」
悪戯っぽく笑いながら、ネッロが続ける。
「けど、心配すんな。ここからは俺がしっかり送り届けてやるからさ」
澪が「どこへ?」と聞く間もなく、ネッロは歩き出す。近くの路地に停めてあったバイクのところまで来て、シートを軽く叩いた。
——艶消しブラックの、無骨なボディ。なんだか獣のようだ、と澪は思った。
ネッロは振り向くと、仰々しくお辞儀をして澪の手を取った。
「さぁ、シニョリーナ。お姫様抱っこでエスコートしましょうか?」
「……結構です。自分で乗れます」
その手を静かに拒むと、ネッロはヒュウと軽く口笛を吹いて微笑み、ヘルメットを澪の頭にぽんと被せた。
澪は銀の紙袋を抱え直し、シートに飛び乗った。
「お、威勢が良いな。じゃあ振り落とされないように、しっかり掴まれよ?」
ネッロが勢いよく跨ると同時に、エンジンが咆哮を上げた。バイクが石畳の道を疾走しはじめ、澪は慌ててネッロの広い背にしがみついた。
目的地もわからないまま、風が頬を切り、視界は流れていく。路地を曲がるたびに振り落とされそうになりながらも、必死で掴まるしかなかった。
背中越しの体温はあたたかく、つい安堵しそうになる。けれど——
(助けてくれたけど……この人、一体何者なの?)




