3話:火口の魔女
——光の中で、陽だまりのような祖母の声が響く。
『生きていると、酷い目に遭う時もある。でもね。だからといって、わずかな希望を捨ててしまうのは勿体無いわ』
幼い澪が泣いていた。彼女はその小さな頭を優しく撫でながら囁いた。
どんな時も、微笑みを絶やさなかった祖母。多くを語らず、慎ましく生きてきた人。
そんな祖母が、最後に残した手紙。
その真実を知りたい。
「……そうだよ。こんなやり方で脅されて、諦めるなんて——嫌だ!」
——シーツの埃っぽい匂い。
澪は目を開いた。
見回すと見慣れない部屋が視界に入る。
いつの間にか眠りに落ちていたようだ。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。
(わけがわからないけど、とにかく絶対に引き下がるもんか!)
澪は、半ば意地になっていた。
昨夜の恐怖を無理やり怒りに変えて、朝食の黒パンを五つも平らげると、ホテルを飛び出した。
今日は、町にある図書館で書籍にあたる計画だった。昨日の聞き込み調査で得た情報を整理する。
島民たちはあまり話したがらないが、「魔女」や「神火」について知ってはいるようだ。もしかしたら、島の伝説に関する文献があるかもしれない。
早速、事前に目星をつけていた図書館に向かった。
*
改めて町を歩いていると昨日は気づかなかったことに気づいた。
町中に飾ってある旗は、昨日ホテルを荒らされた時に置かれていたものと同じ赤色だった。
燃えるような赤い布地に、金色の火山を模した紋様が付いている旗だった。
よく見ると町のあちこちに同じエンブレムが使われているようだ。
中には、『CHIESA DELLA FIAMMA』と書かれているものもあった。フィアンマの教会——どうやらこの島では『フィアンマ教団』という宗教を信じているようだ。
「それにしてもこの旗……」
無数の真っ赤な旗が風にはためく姿は炎が踊っているようで、昨日の光景が頭によぎった。
澪は少し胃の辺りに嫌な重さを感じた。
しばらくして小さな図書館についた。早速、郷土史の資料を漁りはじめた。何冊目かの本を手に取った時、子供向けの民話集のひとつに『火口の魔女』の話が載っているのを見つけた。
その本の表紙には、タペストリーと同じ、赤黒く恐ろしい絵が描かれている。
『——その昔、とある魔女が神火の奇跡を得た。
しかし、その恵みに目が眩んだ魔女は、独り占めしようと奇跡の術を隠した。
だが、それが神火の怒りに触れてしまい、魔女は気がおかしくなって自ら火口へ身を投げた——』
本を閉じて、改めて表紙をよく見てみる。恐怖に歪んだ魔女の顔は、見るものをゾッとさせるほどおぞましいものだった。
澪は思わず顔をしかめた。
(これがおばあちゃんが言っていた魔女の罪なんだろうか……)
図書館を後にし、ぼんやりと考えながら大通りへ向かう路地を歩いていたとき。
ふいに、視線を感じた。
素早く振り返る。
(誰もいない……)
しかし、全身に寒気が走った。
ホテルでの出来事が、ありありと脳裏に蘇る。思わず、胃のあたりが縮こまる感じがした。
不意に、路地の奥。視界の隅に、古びた看板がちらりと見えた。
(……あれは)
ガイドブックには載っていない小さな古書店だった。まだ日があるというのに、店先は薄暗い。
周辺のどの店よりも、古めかしく、ひっそりと隠れるように佇んでいる。
「……行ってみる価値は、あるか」
人のいる場所へ行きたい、という本能的な衝動もあった。澪は迷わず、その隠れ家のような古書店のドアを押し開けた。
——カラン。
乾いた鈴の音が、ひどく遠くに響いた気がする。
澪はそっと古書店の中へ足を踏み入れた。
店の奥は夕暮れに沈みかけていて、埃とインクの香りが澪を包み込んだ。
天井近くまである高い本棚が西日を細かく切り刻み、床に細長い影を落としている。届かなかった光は棚の隙間で力尽き、奥には薄い闇が静かに溜まっていた。
澪はその暗がりを覗き込みながら、一歩足を踏み出した。
「……すみません、誰か——」
呼びかけようとした、そのときだった。
「……いらっしゃいませ、シニョリーナ」
ふいに、書棚の影からひどく滑らかな、それでいて鼓膜を撫でるような低い声がした。
澪はドキリとして声の方を振り返った。
書棚の奥から静かに現れたのは、細身のチャコールグレーのスーツを纏った男だった。古書店の埃っぽい空気が妙に男の輪郭を形取り、その存在感を強調している。
薄い微笑みを湛えたまま、男は片手に持っていた本をパタリと閉じ、顔を上げた。銀縁眼鏡の奥から薄氷のような視線が澪を捉えた。
「失われたものを、お探しでしょうか」
「……え?」
澪は一歩だけ後ずさる。
だが男は追ってこない。ただ、静かに、余裕を持って微笑んでいる。
「こちらは、忘れ去られるべきものが流れ着く店でございます」
そう言いながら、男は持っていた本を本棚に丁寧に刺し戻した。
「必要であれば……どうぞご覧ください」
どこか不遜なのに、不思議と無礼には聞こえない。声の端々に、磨かれた銀器のような冷たい品の良さがあった。
(……もう流通してない本を置いてるってことかな)
澪が怪訝そうな顔で警戒していると、男はやや首を傾げる。
「おや、あまり高く松明を掲げてはいけません。闇を照らす者は、闇からもよく見えるものです。……どうぞ、お気をつけて」
男は、それ以上何も言わず背を向けると、古びた本の迷路の向こうへ、静かに消えていった。
澪はその場に取り残され、しばらく身動きができなかった。脈が狂った秒針のように早まっている。
西日に染まる本の海で、ひとりで呆然と立ち尽くした。
(……何なの、今の人)
しばらくして、静かに息を整えると、目の前に広がる古書の迷路に歩みを進めた。高く積み上がった本の間をすり抜けるたび、埃っぽい空気がさらりと肌にまとわりつく。
——先ほどの男はカウンターの奥で、澪に背を向けて本を読んでいるようだ。
(普通の書店じゃないみたい。もしかしたら……)
澪は、期待に昂りそうになる心を抑えようと、呼吸を落ち着けてから本棚を見て回った。朽ちた羊皮紙の本に題名すら消えかけた小冊子——
とある一角に目線を移した時、澪は息を呑んだ。
そこには、あの火口の魔女の絵本が表紙が見えるように飾られていた。
しかし、その絵の印象は今まで見たものとは全く違っていた。
炎を噴き上げる火口に落ちていく女性の姿。図書館で見た本やタペストリーと同じ構図の絵。
だが、その色彩は淡く、くすみがかった色合いで描かれており、その表情は魔女というよりも、悲しみと祈りを捧げる聖女の清廉な美しさを湛えていた。
澪はその絵本に手を伸ばしかけたが、指先が触れる前にぴたりと止めた。
なぜか、この本に触れたら最後、島の秘密から逃れられなくなる。そんな予感がよぎった。
(本当にこの件に首を突っ込んで大丈夫なんだろうか……)
そんな風にためらった瞬間、古書店のインクと紙の匂いの中に、ふわりと甘く苦い、煙のような香りが漂った。
「それは——この島に伝わる、古い逸話でございます」
低い声が、すぐ背後から聞こえた。
澪は、心臓が止まりそうになるほど驚いて振り返った。
そこには、いつのまにか古書店の店主が、立っていた。
レンズ越しに灰色の瞳が微かに笑っている。まるで澪がその本に引き寄せられることを、最初から知っていたかのように。
「ですが、巷に流布している印象とは異なるものです。同じ事象でも、語る者が変われば、残される姿も変わるのでしょう」
声は淡々としていたが、どこか遠くを見つめるような響きを帯びていた。
店主は棚からその本をすっと取ると、両手に持ち直し、恭しく澪に差し出した。
「——こちらが、必要でしょうか?」
その問いかけは、あくまで澪に選択を委ねる柔らかい物腰だった。
なでつけられた灰褐色の髪から、前髪がいくつか落ちて、整った鼻梁に影を落としている。
(欲しい、でも、何か胸騒ぎがする……)
それでも澪は、手を伸ばし、差し出された本をそっと受け取った。受け取った指先に、古びた厚紙の質感と、薄らとした冷たさが伝わってくる。
店主は静かに目を細めた。
「代金は、結構でございます」
「え……でも——」
「忘れ去られたものに、値などつけられませんので」
それだけ言って、彼は背後のカウンターから何かを取り出した。
それは、銀色に鈍く光る紙袋だった。
ダマスカス模様の繊細なパターンが、うっすらと箔押しされている。控えめながら、見る者にははっきりとわかる、美しい意匠だった。
「あの、そんな豪華な紙袋いただけません。カバンに入れて帰るので大丈夫です」
「いえ、遠慮なさらず。古い物は傷つきやすいので、お使いください」
「それじゃあ……ありがとうございます」
店主はその紙袋に本を丁寧に包み入れ、澪に手渡した。
「大切に、お持ちください。……帰りの道はどうかお気をつけて」
含みのある言葉が引っかかったが、その笑顔は澪を心から案じるように見えた。
澪は店主に一礼すると、胸の奥に奇妙なざわめきを感じながら、古書店を後にした。




