2話:赤き潮騒の島
紺碧の海に浮かぶ、赤茶に燃える島——それが、ロッサ・ディ・マーレ島の最初の印象だった。
神坂澪は船の手すりに身をあずけ、前方に迫る島をじっと見つめていた。
濃紺の海面を白い船首が鮮やかに切り裂いていく。潮風が頬を撫で、どこか懐かしい匂いがした。
「……おばあちゃん、私、来たよ」
小さく呟いた言葉は、潮騒に溶けて消えていった。
三ヶ月前に亡くなった祖母に導かれ、澪がたどり着いたのは地中海に浮かぶ小さな火山島だった。
船が島の港に近づくにつれ、石造りの建物が肩を寄せ合うように並ぶ光景が目に入ってくる。
太陽に灼かれた蜂蜜色の壁と赤茶の屋根が続く。美しい町並みのあちこちに、黒い火山岩が混じり、この島が火山島であることを滲ませていた。
澪は火山から立ち上る白い煙を見上げた。
(ガイドブックで見た通りの素敵な町並みだけど……)
港で荷を運ぶ男たちも、網を繕う女たちも、一様に手を止めて無言でこちらをじっと見つめている。旅人を歓迎しているとは思えないような、肌に張り付く視線。
「……考えすぎ、だよね」
いつの間にか、握りしめた手に僅かに汗が滲んでいる。澪は視線から逃げるように荷物を抱え直し、強張った頬を緩めて自分に言い聞かせた。
*
(まずは、島の人と話してみるか……)
港近くの小さなホテルに荷物を置くと、澪は鞄から携帯電話を取り出した。
それは本屋のアルバイト代を貯めて、先月ようやく手に入れたばかりの最新機種だった。シルバーの薄いボディに、小さな液晶画面がついている。コンパクトにふたつに折りたためるだけで、未来が掌の中に収まったような気がした。
けれど、この海外の火山島では、その小さな未来はあっけないほど無力だった。画面の端に、頼りない表示が点滅している。“圏外”だった。
「……まあ、そうだよね」
誰に言うでもなく呟いて、澪は携帯電話を閉じた。ぱちん、という軽い音だけが、狭いホテルの部屋に虚しく響く。
代わりに、カメラとノートをショルダーバッグへ入れ替える。記録の大切さは、大学でのフィールドワークで習ったことだった。
澪は大学で文化人類学を専攻している。けれど、祖母を失ってからは、講義にも友人たちとの会話にも、うまく身が入らなくなっていた。
日本では、新しい“ミレニアム”を迎えたばかりの浮き立つ空気が、まだ町のあちこちに残っていた。
友人たちは講義の合間にメールを打ち、将来の話をしたりして、誰もが新しい時代の方へ歩いているように見えた。その中で、たったひとり澪だけが立ち止まっていた。
そんな折に見つけたのが、あの手紙だった。
——それは、祖母の葬儀が終わり、しばらく経ったある日のことだった。
両親を早くに亡くした澪にとって、優しく穏やかな祖母はたった一人の家族だった。
誰もいなくなった部屋で、そこにかつてあった温もりを確かめるように遺品を整理していると、皮のベルトに幾重にも巻かれた、古ぼけた箱に気がついた。
丁寧にベルトを解いて箱の蓋を開ける。
中に入っていたものは三つ——小さな赤い石のペンダント、一枚の便箋、そして、茶色く劣化した“ロッサ・ディ・マーレ島”から日本へ向かう船の片道切符だった。
便箋に書き綴られた文字は、祖母のものだった。
『歪んだ欲望が時を止めた、鮮血に燃ゆる島。
神から盗んだ炉を、神の火の口へ返さなくてはならない。
さもなくば、魔女の罪は燻り続ける。
いつか、誰かが“贖罪”を果たさなくては——』
澪は、手紙を読んだ時の身震いするような感覚を思い出し、首にかけているペンダントをそっと握りしめた。
禍々しい単語の羅列、そして血のような色の赤い石。まるで恐ろしいおとぎ話の始まりのようだった。
(なぜ、あの優しかったおばあちゃんが、こんな文章を……?)
恐怖というより、好奇心。
何かが変わるかもしれないという淡い期待。あるいは、単なる現実逃避か——
そんな想いを抱えながら、澪はこの島に祖母の遺言の真相を調べにやってきたのだ。
「ロッサ・ディ・マーレ——か」
その名を口にした瞬間、島の熱気に煽られたように、胸の奥がかすかにざわめいた。
*
南の港に隣接する市場には、潮の香りが漂っていた。
迷路のような路地には、石畳を埋め尽くすように屋台が並んでいる。色とりどりの香辛料や野菜、異国の陶器や織物が並び、この島が交易で栄えたことを感じさせた。
この人波の中なら、きっと何かしら手紙に書いてあったことについての手がかりがあるはずだ。
「あの、すみません——」
澪は、アーティチョークを袋いっぱいに持った婦人に、拙い言葉で話しかけようと近寄った。
しかし、澪が近寄るや否や婦人は目を背けると、そそくさと早足で立ち去ってしまった。
(避けられてる? いや、偶然かもしれないし……)
気持ちを切り替えて、老紳士に挨拶すると、今度はあからさまに迷惑そうな顔をされて「あっちへいけ」という身振りを返されてしまう。
(これは、避けられてるな)
その後も、何人かに話しかけてみた。
偶然にも学んでいた第二外国語が役に立ったとはいえ、現地の言葉は教科書とはまるで違った。早口の中から聞き取れる単語を拾い、身振りを交えながら、澪はどうにか質問を重ねる。
だが、無視されるか逃げられた。質問できたところで、誤魔化されたり、怒鳴られたりと、結果は散々だった。
(でも、なんとなく分かったことがある……)
それは、皆何か知っているようだが、部外者の澪に頑なに教えるのを拒んでいる、ということ。
その後もしばらく粘ってみたものの、 『神から盗まれた炉』や『魔女』の核心に迫る情報には、なかなかたどりつけなかった。
そうして、太陽が西に傾きはじめた頃——澪はため息交じりに、カラフルな織物が並ぶ店先を呆然と眺めていた。
「ここまで頑なに拒否されるとは……」
大きくため息をついた。
だが、バイトも辞めて、無理やり一ヶ月の予定を全てキャンセルしてきたのだ。ここで手ぶらで帰るわけにはいかない。
すがるような気持ちで店先に目を滑らせていると、露天の奥に座っている幼い男の子に目が留まった。
(小さいのに店番なんて感心——)
そのとき、少年の背後に飾られた小さなタペストリーに気が付いた。
それは、暗く濃い、赤と黒の糸で縫われていた。ざらりとした薄茶の麻布の生地に浮かび上がるのは、赤く口を開いた火口へと堕ちていく女の刺繍。
その目は黒い糸で幾重にも執拗にぬい潰され、言葉にならない絶望を湛えていた。
(まるで、恐ろしい神話の挿絵……)
澪は少しだけ寒気を感じたが、立ち上がり少年に話しかけた。
「こんにちは。 そのタペストリーは何の絵なの?」
男の子は顔をあげて無邪気に笑った。
「わるいまじょが、かざんにたべられちゃったおはなしだよ」
「よかったら、そのお話、詳しく聞かせてくれない?」
「えーと……わるいことをすると、まじょみたいにかざんにたべられるんだって。 おじいちゃんがいってた」
「そのおじいちゃんに、会うことはできるかな?」
「ううん。もうずっとまえにしんじゃってる」
澪は肩を落としたが、それでも確信した。この島には、間違いなく「魔女」の逸話が存在している。
前途に希望を見出したとき、不意に背後に落ちた影の気配を感じた。
振り返った瞬間、澪は息を呑んだ。
感情を削ぎ落とした漆黒の瞳が澪を見つめていた。喧騒の中にありながら、その男の周りだけは音が吸い込まれたような静寂を纏っている。
陽の光を拒む黒いマント、そして——左目の下に斜めに並んだふたつのほくろ。
島の人々とは違う顔立ちに、澪はほのかに既視感と懐かしさを感じた。
だが——
「……今すぐこの島から消えろ」
青年は抑揚のない、低い声で告げた。前髪の奥で、その宵闇のような瞳だけが鈍く光った。
「えっ……?」
「警告はした」
それだけを言い捨て、彼は踵を返した。
「待って! どういうこと……!?」
思わず伸ばした手は熱く乾いた空気を掴んだだけだ。彼の姿はすぐに市場の喧騒と影の中に溶け込んでしまった。
澪はその場に佇んだまま、伸ばした手のひらを見つめた。わずかに、胸に引っ掛かる感覚があった。
(一体誰? 『消えろ』って、どういうこと……)
すっかり西に傾いた太陽が市場を真っ赤に染めている。長く伸びた人々の影が、生き物のように澪の足元を這っていった。
*
「なに……これ……」
ホテルの部屋に戻った瞬間、澪は凍りついた。
明らかに、誰かが部屋に立ち入った形跡があったのだ。
荒らされたわけではない。金品には何ひとつ手をつけられていなかった。だが、トランクの中身は全て取り出され、ベッドの上に異様なほど丁寧に並べられている。
そして、テーブルの上には、あのタペストリーの火口を思わせる赤い布の切れ端がこれみよがしに置かれていた。
『……今すぐ、この島から消えろ』
市場であった男の、感情のない声が耳の奥でこだまする。
(もしかして、おばあちゃんの手紙はただのおとぎ話じゃない……?)
恐怖で早鐘のように打つ鼓動を抑えようと、澪は自らの肩を抱き、壁にもたれかかった。
(そうだ、警察に通報しよう……!)
すぐにフロントへ駆け込み、警察に連絡するよう頼み込んだ。だが、宿の主人は取り合ってくれない。
「何も取られてないんだろう?」
主人は島の新聞から顔をあげずに、横目で澪を見た。
「この島ではそういうことで、警察を呼ばない。通報しても意味がないからな」
その言葉に澪は頭を抱えた。犯罪に巻き込まれることも考慮して、事前にもっとよく調べておくべきだった。
後悔しても遅い。正直、命の危険すら感じていた。
——ここで帰るべきなのか。
だが、次の連絡船は一週間後。それまではどうすることもできない。
澪は震える手で両頬を叩いた。
面倒くさがる宿の主人を説き伏せて、半ば強引に部屋の変更をねじ込んだ。
新しい部屋へ移ると、窓とドアの鍵を何度も確かめ、きっちりとカーテンを閉め切った。
そこまでやりとげたところで、泥のような疲労が一気に押し寄せてきた。祈るような気持ちで埃っぽいベッドに倒れ込む。
首にかけたペンダントをそっと握ると、祖母の優しい笑顔が浮かんだ。
手紙と一緒に入っていたこのペンダントは祖母が入院するまで、肌身離さずずっと身につけていたものだった。
幼い頃、澪が不思議そうに触れようとすると、祖母はいつも「大切なものなの」と言って少しだけ寂しそうに笑っていた。
「おばあちゃん、どうか守ってください……」
島の不穏な空気、あの男の漆黒の瞳、そして祖母の遺言。
絡まり合う思考を解く暇もなく、澪は深い眠気に引きずり込まれて意識を失った。




