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ロッサ・ディ・マーレ 〜火山島に燻る魔女の罪〜  作者: 山城すな
第十章

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36話:神火の縁

 ——次の瞬間、神火精製装置が咆哮した。


 アレッサンドロが倒れた拍子に、彼の指が赤い起動弁へ触れていたのだ。


 偶然だったのかもしれない。

 最後の執念だったのかもしれない。

 分からない。


 ただ、凄まじい轟音が祠を揺らす。古い計器の針が一斉に振り切れ、錆びた管の奥で赤い光が走った。山の壁に食い込んでいた金属管が、まるで生き物のように震え始める。


「何だ……?」


 サルヴァトーレが顔を上げた。


 祠の床が大きく揺れる。 

 硝子の容器の中で、澪は壁に身体を打ちつけた。


「っ!」


 頭上で、嫌な音がした。

 何かが軋む音。金属が噛み合い、回転する音。


 澪が見上げた先で、容器の天井部分がゆっくりと開いていた。その奥から、錆びた鉄の歯のようなものが下りてくる。


 鉱石を砕くためのものなのか——

 血を搾り取るためのものなのか——

 考えたくもない。


 だが、それは確かに澪の頭上へ向かっていた。


「いや……!」


 澪は縛られた手で硝子を叩いたが、鈍い音が返るだけだった。


「澪!」


 サルヴァトーレが駆け寄る。

 銃をしまうことすらせず、片手で容器の扉に手をかけた。だが、開かない。


「くそ……!」


 彼の声に、明確な焦りが滲んだ。


 サルヴァトーレは両手で扉を掴み、力任せに引いた。だが分厚い硝子と鉄の枠はびくともしない。


 頭上の歯が、さらに下りてくる。金属が擦れる音が、耳の奥を削った。


「助けて!」


 澪は硝子越しに叫ぶ。声が届いているのか分からない。


 サルヴァトーレは答えなかった。

 その額に汗が浮かんでいる。

 灰色の瞳が、装置の継ぎ目を探すように走った。


「鍵はどこだ」


 低く問う声。

 マヒトが顔を上げた。

 彼は崩れたアレッサンドロを前に放心していた。混乱したように息を乱している。


「マヒト、鍵はどこだ!!」


 サルヴァトーレの声が、さらに鋭くなる。


 マヒトの目が揺れた。


 一瞬、彼は倒れたアレッサンドロを見た。それから、硝子の中の澪を見る。

 澪はその黒い瞳を見て頷いた。


 その顔には、もう感情を消した人形の表情はなかった。苦しみと迷いと、そして何かを決めようとする人の顔だった。


 マヒトは震える手で、アレッサンドロの懐から古びた鍵束を取り出した。


「これを……!」


 サルヴァトーレが奪うように受け取る。

しかし鍵は何本もあり、どれが合うのか分からない。


 装置はさらに唸りを上げる。頭上の歯が、澪のすぐ上まで迫っていた。


「お願い、早く……!」


 澪は身を縮める。

 硝子の外で、サルヴァトーレとマヒトが次々に鍵を差し替えていく。


 一本目——違う。

 二本目——違う。

 三本目————回らない。


「どれだ!!」

「分からない……っ」


 マヒトの声が震える。

 震えながら必死で何かを思い出そうとする。


 すぐに、サルヴァトーレの手にぶら下がる鍵のうちのひとつを指した。


「アレッサンドロ様が、いつもこれを……!」


 黒ずんだ金色の鍵を刺した。

 サルヴァトーレがその鍵を差す。


 重たい音がした。

 扉の奥で、何かが外れる。


「開いた!」


 サルヴァトーレが扉を引き開ける。

 硝子容器に熱い空気が流れ込む。


 澪の身体が外へ引き出されてすぐに、頭上の鉄の歯が容器の底を噛み砕いた。

 凄まじい音が響く。


 硝子片が弾け、澪はサルヴァトーレの腕の中に倒れ込んだ。


「澪っ!」


 抱き留められた肩が痛いほど強かった。

 その声を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていた恐怖が一気に溢れそうになる。


 澪はマヒトを見た。


「マヒトくん……」


 彼は目を伏せていた。


「どうして助けてくれたの?」


 マヒトは、ひどく頼りない笑みを浮かべながら、ナイフを取り出し、澪の手首を縛っている縄を切った。


「思い出したから——」


 轟音が、その声を半分かき消した。


 その時、祠全体が大きく揺れた。


 床に亀裂が走る。

 赤い光が、割れ目の奥から滲み出した。


 ——火口だ。


 岩盤の下に、煮え立つ赤い溶岩が見える。


「まずいな」


 サルヴァトーレが澪の腕を取る。


 神火精製装置が、山の壁から剥がれ始めていた。無数の管が引きちぎれ、赤く焼けた蒸気が噴き出す。計器が砕け、錆びた機械の塊がゆっくりと傾いた。


 祠そのものが崩れようとしていた。


「走れ!」


 マヒトが叫ぶ。

 サルヴァトーレが澪の手を引く。

 足元が割れる。

 石床が沈む。


 背後で、神火精製装置が悲鳴のような音を立てた。


 巨大な機械が祠の壁から剥がれ、管を撒き散らしながら火口の方へ傾いていく。


 澪は必死で走った。


 足がもつれる。

 熱風が下から吹き上がり、喉を焼く。


 前方には、まだ崩れていない石の足場がある。


(あそこまで行けば——)


 そう思った瞬間、澪の足元が抜けた。


「あっ!」


 身体が沈む。

 床がない。

 赤い火口が、眼下に広がる。


 その瞬間、誰かの手が澪の背を強く押した。


「いけ!」


 突き飛ばされた身体が、前方の足場へ向かって投げ出される。


 澪は反射的に手を伸ばした。

 その手首を、サルヴァトーレが捉えた。


「——っ!」


 指が食い込むほど、強く。

 痛いほど、確かに。


 澪の身体は火口の縁にぶら下がっていた。


 下から吹き上げる熱風が、髪を乱す。

 足元には、赤い溶岩。

 ほんの少し手が滑れば、終わる。


「マヒトくんは……!?」


 澪は叫んだ。


 振り返った先に、マヒトがいた。

 崩れ落ちる石床の向こう。

 彼はもう、こちら側へは戻れない場所に立っていた。


 目が合う。

 左目の下のほくろ。

 幼い頃の記憶の中で、泣きそうな自分に手を伸ばしてくれた少年。


 その影が、今のマヒトと重なる。


 マヒトは小さく笑った。

 今度は、失敗した笑みではなかった。


「ありがとう——澪」


 声は熱風に攫われた。

 次の瞬間、足元の石が崩れた。

 マヒトの身体が、赤い光の中へ落ちていく。


「マヒトくん!!」


 澪の叫びは、轟音に呑まれた。

 サルヴァトーレの手がさらに強くなる。


「見るな!!」


「でもっ……!!」


 その声は、苦しげだった。

 澪も胸が張り裂けそうな気持ちを抑えて、顔を上げた。


 サルヴァトーレは火口の縁に、腹ばいになり、片腕だけで澪を繋ぎ止めていた。


 いつも整えられている髪は乱れ、眼鏡は歪み、額には汗が滲んでいる。


 白い手首に血管が浮かび、今にもちぎれそうに震えていた。


 それでも彼は、離さない。


「サルヴァトーレさん……!」


 澪は必死で足場を探した。しかし、足は空を蹴るだけだった。


 下から熱風が吹き上がる。

 掌に汗が滲む。

 繋がれた手が、少しずつ滑っていく。


「このままじゃ、あなたまで落ちちゃう!」


 澪は叫んだ。


「動かないでください」


 サルヴァトーレは歯を食いしばっていた。その声は震えていた。


「でも!」

「動くな!!」


 初めて聞く必死な声だった。

 澪は息を呑む。


 サルヴァトーレの腕が震える。

 限界が近いのが分かった。

 このままでは、本当に二人とも落ちる。


「ありがとうございます。でも、もう、離してもいいですよ……」


 自分で言った瞬間、胸が裂けそうになった。


「……サルヴァトーレさん、離してください!」

「嫌です」


 サルヴァトーレは即答した。

 澪は目を見開く。


「この手を離すくらいなら」


 火口から、赤い光が吹き上がる。


 その中で、サルヴァトーレの灰色の瞳が澪を捉えた。


 もう硝子の向こうではなかった。

 計算も、秤も、冷たい微笑みもない。


 ただ、ひとりの男が、苦しそうに澪を見ていた。


「——いっそのこと一緒に落ちた方がましだ」


 澪の胸が、音を立てて崩れた。


「そんなの……だめです」


 声が震える。


「この島は、チェネレはどうなるんですか」


「もう、どうなろうと知ったことではない」


 絞り出すように出た声は、掠れていた。

 汗で手が滑る。サルヴァトーレの指が、澪の腕から少しずつ外れていく。


「サルヴァトーレさん……!」


「……澪さん」


 彼が名を呼んだ。

 静かに。

 祈るように。


「私は——」


 その先は、轟音に消えた。

 だが、何を言おうとしたのか。

 澪には分かってしまった気がした。


(言わないで)


 そう思った。

 言われたら、きっと自分も諦められなくなる。


 熱風が吹き上がる。


 じり……と、サルヴァトーレが火口側に引かれる。


 二人の手が、さらに滑った。

 もう限界だった。

 

 サルヴァトーレの銀灰色の瞳が、柔らかく細められる。


 それは今まで澪が見た中で、一番静かで、愛おしさの滲むような表情だった。


 澪はすべてを悟ってしまった。


 瞳から、煤けた頬に涙が伝い落ちる。


 ——その瞬間。


「ぜってえ離すなよ!!」


 聞き慣れた声が、祠の崩落音を切り裂いた。


 次の瞬間、サルヴァトーレの身体ごと、強い力で引かれる。


「ぐっ……!」


 澪の腕に痛みが走る。


 だが、落ちない。落ちていない。


 荒々しい力が、二人を火口の縁から引き剥がすように引き上げた。


 視界がぐるりと回る。

 澪は石の足場に転がった。


 肺に空気が戻る。

 咳き込みながら顔を上げると、そこにネッロがいた。


 額から血を流し、片腕の包帯はほどけ、肩で荒く息をしている。


 それでも、その目だけはいつものように強かった。


「ネッロ……!」


 澪の声が掠れる。


 ネッロは一瞬だけ澪を見た。

 無事を確かめるように。


 それから、隣に倒れているサルヴァトーレへ視線を移した。


 サルヴァトーレは仰向けに倒れたまま、乱れた呼吸を整えている。眼鏡は外れ、髪は乱れ、ジャケットには埃と血がついていた。


 それでも彼は、いつもの調子を取り戻そうとするように、薄く息を吐いた。


「……随分と遅かったじゃないですか」


 次の瞬間、鈍い音が響いた。


 ネッロの拳が、サルヴァトーレの横面を殴っていた。


「てめぇ!」


 澪は息を呑んだ。


「澪を危ない目に遭わせやがって!」


 ネッロがもう一度拳を振り上げる。


「待って!」


 澪は慌ててその腕に縋りついた。


「違うの、ネッロ!」


「違くねぇ!」


 ネッロの声は怒りで震えていた。


「閉じ込めやがって、餌にしやがって、挙げ句の果てに火口に落としかけて、何が違うんだよ!」


「でも、サルヴァトーレさんは——」


「澪」


 ネッロは澪を見た。怒っているのに、その目は泣きそうだった。


「お前もちゃんと怒れよ」


澪は言葉に詰まる。


 その間に、サルヴァトーレはゆっくりと身を起こし、地面に落ちていた眼鏡を拾う。片方のレンズに細かな傷が入っていた。


 彼はそれを布で拭き、何事もなかったかのように掛け直す。


「サルヴァトーレさんも、何か言ってください」


 澪は縋るように言った。


「最初から作戦だったんですよね?」


 サルヴァトーレは目を伏せた。

 そして、大きくため息をつくと、いつもの薄い微笑みを浮かべる。


「……さて、どうでしょう」


 ネッロの拳が、再び握られた。


「やっぱりもう一発殴る」


「待って、落ち着いて、ネッロ!」


 澪は必死で止める。


 だが、サルヴァトーレは立ち上がり、祠の奥を見た。


 床の亀裂は広がり続けていた。神火精製装置は完全に傾き、巨大な機械の塊が火口へ飲まれようとしている。


「話は後でいくらでも」


 サルヴァトーレの声が、冷静さを取り戻させる。


「ここもじきに崩れます。行きましょう」


 ネッロは舌打ちした。だが反論はしなかった。


「立てるか、澪」


 差し出されたネッロの手。

 その隣で、サルヴァトーレも手を差し出していた。


 澪は二人を見た。胸の奥が、熱と痛みでいっぱいになったが、それでも、両方の手を取った。

 

 ネッロの手は熱く、力強かった。

 サルヴァトーレの手は冷たく、けれど確かに震えていた。


 三人は崩れかけた祠を走り抜ける。


 背後で、神火精製装置が大きく軋み、錆びた管が千切れ、硝子の容器が砕け散る。そして巨大な機械は、祠の床ごと火口へ崩れ落ちた。


 轟音と共に、赤い光が噴き上がる。熱風が三人の背中を叩いた。


 ようやく外へ飛び出した時、雨は小降りになっていた。


 火口の縁に立つと、崩れた祠が赤い光の中へ沈んでいくのが見えた。


 神火精製装置も。

 血の跡も。

 あの硝子の檻も。

 すべてが、溶岩の中へ呑み込まれていく。


 澪は雨に濡れながら、火口を見下ろした。


 胸が苦しい。涙なのか雨なのか、自分でも分からなかった。


「グラツィア……」


 声が震えた。


「おばあちゃん……」


 火口の底で、赤い光が揺れる。


 遠い昔、ここで命を絶った女。

 島を出て、血を繋いだ祖母。

 二人の選択が、今ここへ繋がっていた。


 澪はゆっくりと息を吐いた。


「終わったよ」


 その言葉は、雨と火山の音に溶けていった。


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