36話:神火の縁
——次の瞬間、神火精製装置が咆哮した。
アレッサンドロが倒れた拍子に、彼の指が赤い起動弁へ触れていたのだ。
偶然だったのかもしれない。
最後の執念だったのかもしれない。
分からない。
ただ、凄まじい轟音が祠を揺らす。古い計器の針が一斉に振り切れ、錆びた管の奥で赤い光が走った。山の壁に食い込んでいた金属管が、まるで生き物のように震え始める。
「何だ……?」
サルヴァトーレが顔を上げた。
祠の床が大きく揺れる。
硝子の容器の中で、澪は壁に身体を打ちつけた。
「っ!」
頭上で、嫌な音がした。
何かが軋む音。金属が噛み合い、回転する音。
澪が見上げた先で、容器の天井部分がゆっくりと開いていた。その奥から、錆びた鉄の歯のようなものが下りてくる。
鉱石を砕くためのものなのか——
血を搾り取るためのものなのか——
考えたくもない。
だが、それは確かに澪の頭上へ向かっていた。
「いや……!」
澪は縛られた手で硝子を叩いたが、鈍い音が返るだけだった。
「澪!」
サルヴァトーレが駆け寄る。
銃をしまうことすらせず、片手で容器の扉に手をかけた。だが、開かない。
「くそ……!」
彼の声に、明確な焦りが滲んだ。
サルヴァトーレは両手で扉を掴み、力任せに引いた。だが分厚い硝子と鉄の枠はびくともしない。
頭上の歯が、さらに下りてくる。金属が擦れる音が、耳の奥を削った。
「助けて!」
澪は硝子越しに叫ぶ。声が届いているのか分からない。
サルヴァトーレは答えなかった。
その額に汗が浮かんでいる。
灰色の瞳が、装置の継ぎ目を探すように走った。
「鍵はどこだ」
低く問う声。
マヒトが顔を上げた。
彼は崩れたアレッサンドロを前に放心していた。混乱したように息を乱している。
「マヒト、鍵はどこだ!!」
サルヴァトーレの声が、さらに鋭くなる。
マヒトの目が揺れた。
一瞬、彼は倒れたアレッサンドロを見た。それから、硝子の中の澪を見る。
澪はその黒い瞳を見て頷いた。
その顔には、もう感情を消した人形の表情はなかった。苦しみと迷いと、そして何かを決めようとする人の顔だった。
マヒトは震える手で、アレッサンドロの懐から古びた鍵束を取り出した。
「これを……!」
サルヴァトーレが奪うように受け取る。
しかし鍵は何本もあり、どれが合うのか分からない。
装置はさらに唸りを上げる。頭上の歯が、澪のすぐ上まで迫っていた。
「お願い、早く……!」
澪は身を縮める。
硝子の外で、サルヴァトーレとマヒトが次々に鍵を差し替えていく。
一本目——違う。
二本目——違う。
三本目————回らない。
「どれだ!!」
「分からない……っ」
マヒトの声が震える。
震えながら必死で何かを思い出そうとする。
すぐに、サルヴァトーレの手にぶら下がる鍵のうちのひとつを指した。
「アレッサンドロ様が、いつもこれを……!」
黒ずんだ金色の鍵を刺した。
サルヴァトーレがその鍵を差す。
重たい音がした。
扉の奥で、何かが外れる。
「開いた!」
サルヴァトーレが扉を引き開ける。
硝子容器に熱い空気が流れ込む。
澪の身体が外へ引き出されてすぐに、頭上の鉄の歯が容器の底を噛み砕いた。
凄まじい音が響く。
硝子片が弾け、澪はサルヴァトーレの腕の中に倒れ込んだ。
「澪っ!」
抱き留められた肩が痛いほど強かった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていた恐怖が一気に溢れそうになる。
澪はマヒトを見た。
「マヒトくん……」
彼は目を伏せていた。
「どうして助けてくれたの?」
マヒトは、ひどく頼りない笑みを浮かべながら、ナイフを取り出し、澪の手首を縛っている縄を切った。
「思い出したから——」
轟音が、その声を半分かき消した。
その時、祠全体が大きく揺れた。
床に亀裂が走る。
赤い光が、割れ目の奥から滲み出した。
——火口だ。
岩盤の下に、煮え立つ赤い溶岩が見える。
「まずいな」
サルヴァトーレが澪の腕を取る。
神火精製装置が、山の壁から剥がれ始めていた。無数の管が引きちぎれ、赤く焼けた蒸気が噴き出す。計器が砕け、錆びた機械の塊がゆっくりと傾いた。
祠そのものが崩れようとしていた。
「走れ!」
マヒトが叫ぶ。
サルヴァトーレが澪の手を引く。
足元が割れる。
石床が沈む。
背後で、神火精製装置が悲鳴のような音を立てた。
巨大な機械が祠の壁から剥がれ、管を撒き散らしながら火口の方へ傾いていく。
澪は必死で走った。
足がもつれる。
熱風が下から吹き上がり、喉を焼く。
前方には、まだ崩れていない石の足場がある。
(あそこまで行けば——)
そう思った瞬間、澪の足元が抜けた。
「あっ!」
身体が沈む。
床がない。
赤い火口が、眼下に広がる。
その瞬間、誰かの手が澪の背を強く押した。
「いけ!」
突き飛ばされた身体が、前方の足場へ向かって投げ出される。
澪は反射的に手を伸ばした。
その手首を、サルヴァトーレが捉えた。
「——っ!」
指が食い込むほど、強く。
痛いほど、確かに。
澪の身体は火口の縁にぶら下がっていた。
下から吹き上げる熱風が、髪を乱す。
足元には、赤い溶岩。
ほんの少し手が滑れば、終わる。
「マヒトくんは……!?」
澪は叫んだ。
振り返った先に、マヒトがいた。
崩れ落ちる石床の向こう。
彼はもう、こちら側へは戻れない場所に立っていた。
目が合う。
左目の下のほくろ。
幼い頃の記憶の中で、泣きそうな自分に手を伸ばしてくれた少年。
その影が、今のマヒトと重なる。
マヒトは小さく笑った。
今度は、失敗した笑みではなかった。
「ありがとう——澪」
声は熱風に攫われた。
次の瞬間、足元の石が崩れた。
マヒトの身体が、赤い光の中へ落ちていく。
「マヒトくん!!」
澪の叫びは、轟音に呑まれた。
サルヴァトーレの手がさらに強くなる。
「見るな!!」
「でもっ……!!」
その声は、苦しげだった。
澪も胸が張り裂けそうな気持ちを抑えて、顔を上げた。
サルヴァトーレは火口の縁に、腹ばいになり、片腕だけで澪を繋ぎ止めていた。
いつも整えられている髪は乱れ、眼鏡は歪み、額には汗が滲んでいる。
白い手首に血管が浮かび、今にもちぎれそうに震えていた。
それでも彼は、離さない。
「サルヴァトーレさん……!」
澪は必死で足場を探した。しかし、足は空を蹴るだけだった。
下から熱風が吹き上がる。
掌に汗が滲む。
繋がれた手が、少しずつ滑っていく。
「このままじゃ、あなたまで落ちちゃう!」
澪は叫んだ。
「動かないでください」
サルヴァトーレは歯を食いしばっていた。その声は震えていた。
「でも!」
「動くな!!」
初めて聞く必死な声だった。
澪は息を呑む。
サルヴァトーレの腕が震える。
限界が近いのが分かった。
このままでは、本当に二人とも落ちる。
「ありがとうございます。でも、もう、離してもいいですよ……」
自分で言った瞬間、胸が裂けそうになった。
「……サルヴァトーレさん、離してください!」
「嫌です」
サルヴァトーレは即答した。
澪は目を見開く。
「この手を離すくらいなら」
火口から、赤い光が吹き上がる。
その中で、サルヴァトーレの灰色の瞳が澪を捉えた。
もう硝子の向こうではなかった。
計算も、秤も、冷たい微笑みもない。
ただ、ひとりの男が、苦しそうに澪を見ていた。
「——いっそのこと一緒に落ちた方がましだ」
澪の胸が、音を立てて崩れた。
「そんなの……だめです」
声が震える。
「この島は、チェネレはどうなるんですか」
「もう、どうなろうと知ったことではない」
絞り出すように出た声は、掠れていた。
汗で手が滑る。サルヴァトーレの指が、澪の腕から少しずつ外れていく。
「サルヴァトーレさん……!」
「……澪さん」
彼が名を呼んだ。
静かに。
祈るように。
「私は——」
その先は、轟音に消えた。
だが、何を言おうとしたのか。
澪には分かってしまった気がした。
(言わないで)
そう思った。
言われたら、きっと自分も諦められなくなる。
熱風が吹き上がる。
じり……と、サルヴァトーレが火口側に引かれる。
二人の手が、さらに滑った。
もう限界だった。
サルヴァトーレの銀灰色の瞳が、柔らかく細められる。
それは今まで澪が見た中で、一番静かで、愛おしさの滲むような表情だった。
澪はすべてを悟ってしまった。
瞳から、煤けた頬に涙が伝い落ちる。
——その瞬間。
「ぜってえ離すなよ!!」
聞き慣れた声が、祠の崩落音を切り裂いた。
次の瞬間、サルヴァトーレの身体ごと、強い力で引かれる。
「ぐっ……!」
澪の腕に痛みが走る。
だが、落ちない。落ちていない。
荒々しい力が、二人を火口の縁から引き剥がすように引き上げた。
視界がぐるりと回る。
澪は石の足場に転がった。
肺に空気が戻る。
咳き込みながら顔を上げると、そこにネッロがいた。
額から血を流し、片腕の包帯はほどけ、肩で荒く息をしている。
それでも、その目だけはいつものように強かった。
「ネッロ……!」
澪の声が掠れる。
ネッロは一瞬だけ澪を見た。
無事を確かめるように。
それから、隣に倒れているサルヴァトーレへ視線を移した。
サルヴァトーレは仰向けに倒れたまま、乱れた呼吸を整えている。眼鏡は外れ、髪は乱れ、ジャケットには埃と血がついていた。
それでも彼は、いつもの調子を取り戻そうとするように、薄く息を吐いた。
「……随分と遅かったじゃないですか」
次の瞬間、鈍い音が響いた。
ネッロの拳が、サルヴァトーレの横面を殴っていた。
「てめぇ!」
澪は息を呑んだ。
「澪を危ない目に遭わせやがって!」
ネッロがもう一度拳を振り上げる。
「待って!」
澪は慌ててその腕に縋りついた。
「違うの、ネッロ!」
「違くねぇ!」
ネッロの声は怒りで震えていた。
「閉じ込めやがって、餌にしやがって、挙げ句の果てに火口に落としかけて、何が違うんだよ!」
「でも、サルヴァトーレさんは——」
「澪」
ネッロは澪を見た。怒っているのに、その目は泣きそうだった。
「お前もちゃんと怒れよ」
澪は言葉に詰まる。
その間に、サルヴァトーレはゆっくりと身を起こし、地面に落ちていた眼鏡を拾う。片方のレンズに細かな傷が入っていた。
彼はそれを布で拭き、何事もなかったかのように掛け直す。
「サルヴァトーレさんも、何か言ってください」
澪は縋るように言った。
「最初から作戦だったんですよね?」
サルヴァトーレは目を伏せた。
そして、大きくため息をつくと、いつもの薄い微笑みを浮かべる。
「……さて、どうでしょう」
ネッロの拳が、再び握られた。
「やっぱりもう一発殴る」
「待って、落ち着いて、ネッロ!」
澪は必死で止める。
だが、サルヴァトーレは立ち上がり、祠の奥を見た。
床の亀裂は広がり続けていた。神火精製装置は完全に傾き、巨大な機械の塊が火口へ飲まれようとしている。
「話は後でいくらでも」
サルヴァトーレの声が、冷静さを取り戻させる。
「ここもじきに崩れます。行きましょう」
ネッロは舌打ちした。だが反論はしなかった。
「立てるか、澪」
差し出されたネッロの手。
その隣で、サルヴァトーレも手を差し出していた。
澪は二人を見た。胸の奥が、熱と痛みでいっぱいになったが、それでも、両方の手を取った。
ネッロの手は熱く、力強かった。
サルヴァトーレの手は冷たく、けれど確かに震えていた。
三人は崩れかけた祠を走り抜ける。
背後で、神火精製装置が大きく軋み、錆びた管が千切れ、硝子の容器が砕け散る。そして巨大な機械は、祠の床ごと火口へ崩れ落ちた。
轟音と共に、赤い光が噴き上がる。熱風が三人の背中を叩いた。
ようやく外へ飛び出した時、雨は小降りになっていた。
火口の縁に立つと、崩れた祠が赤い光の中へ沈んでいくのが見えた。
神火精製装置も。
血の跡も。
あの硝子の檻も。
すべてが、溶岩の中へ呑み込まれていく。
澪は雨に濡れながら、火口を見下ろした。
胸が苦しい。涙なのか雨なのか、自分でも分からなかった。
「グラツィア……」
声が震えた。
「おばあちゃん……」
火口の底で、赤い光が揺れる。
遠い昔、ここで命を絶った女。
島を出て、血を繋いだ祖母。
二人の選択が、今ここへ繋がっていた。
澪はゆっくりと息を吐いた。
「終わったよ」
その言葉は、雨と火山の音に溶けていった。




