37話:ロッサ・ディ・マーレ
ただ、ひとつ果たせなかったことがあった。
——神火の禁忌を葬るため、娘を手にかけること——
それだけは、私にはできなかった。
*
青空の下、港町は久しぶりに賑わいを取り戻していた。
潮風が白い石壁を撫で、軒先に吊るされた洗濯物を揺らしている。
魚を積んだ荷車が石畳を軋ませながら通り過ぎ、店先では商人たちが声を張り上げていた。
かつて教団の赤い旗が掲げられていた広場には、今は古い火山信仰の素朴な紋章が飾られている。
赤と金に燃える火山の業火ではなく、白地に青と赤で描かれた火山と海をかたどった小さな印。それは、畏れと祈りを忘れないためのものだと、広場に立つ老神官が子どもたちに語っていた。
「神火は罰するためにあるのではありません。我々を見守るためにあるのです」
その声を横目に、澪は抱えた書類を落とさないよう、せっせと港町を歩いていた。
昼間はサルヴァトーレの手伝いで、港の商工会や、孤児院の経営会議に顔を出していた。夕方には、教団施設から見つかった古い民俗資料の目録をまとめていた。
「明日までには、報告書をまとめないと……」
呟いたところで、澪は小さく息を吐く。
報告することは、山のようにあった。孤児院の修繕費のこと、港の流通記録のこと、教団に押収されていた古文書の保管場所のこと。それから——
今日こそ、ちゃんと伝えなければならない。
(この島を離れるってこと)
通りかかった、広場の掲示板には、今もあの日の記録公開についての告知が貼られている。雨風に晒され、端は少し丸まっていた。
澪が命をかけて持ち帰った録音には、アレッサンドロの肉声で語られた、血を使った実験、神火精製装置、そして魔女と呼ばれたグラツィアの真実が残されていた。
信徒たちは深い絶望に沈んだ。長年信じてきたものが、ひとりの男の欲望によって歪められていたのだと知ったからだった。
けれど、火山を畏れ、海に祈り、自然と共に暮らしてきた古い信仰そのものは消えなかった。消すべきではないと、澪は思った。
澪は、残された神官たちや古老たちの話を聞き取り、古い祈りの言葉や祭礼の記録を書き留めた。
歪められたものを、少しでも元の場所へ戻すために。
そして、その記録を続けるほど、澪の中でひとつの思いははっきりしていった。この島を離れて、もう一度、学び直さなければならない。
チェネレもまた、変わろうとしていた。
教団の支配が崩れたあと、物資の流通は止まり、孤児院や診療所には人が溢れた。教団の権力を失った者たちが暴れ、チェネレを恐れていた者たちもまた、不安に怯えた。
島が混乱に陥る中、動いたのがサルヴァトーレたちだった。
彼は島の秩序回復にチェネレを総動員し、チェネレの若者たちは港の倉庫を開き、食料や薬を配った。
レオは眠る間もなく診療所を回った。
アンナは孤児院や避難所に大鍋を運び込み、あらゆる人々に容赦なく同じスープをよそった。
ネッロは暴れる連中を片っ端から取り押さえ、ついでに港の修繕まで手伝わされていた。
けれど、食料を配り、怪我人を診るだけでは、島は元に戻らない。
だから、サルヴァトーレは、教団幹部のいなくなった空白を埋めるように、各地区の代表者を集めた。
もう、島を誰かひとりの手に戻さないために。
彼は、島民による議会を作ることを提案した。港、鉱山、農地、孤児院、診療所、旧教団。それぞれの代表を集め、次の正式な選挙まで島を支える暫定議会を立ち上げるために奔走した。
だが、その話し合いは決して綺麗なものではなかった。
怒号もあった。罵倒もあった。チェネレに任せるなど冗談ではないと叫ぶ者もいた。旧教団の者を議会に入れるなど許せないと声を荒らげる者もいた。
それでも、暫定代表としてサルヴァトーレの名前は何度も上がった。混乱の中で最も早く動き、港に食料と薬を届け、各地区を繋いだのは、ほかでもない彼だったからだ。
しかし、それを彼は拒んだ。
「私の手は、あまりにも汚れています」
澪はその時、彼の横顔を見ていた。
いつものように端正で、静かで、どこか遠い目。その声には確かに疲れが滲んでいた。
「憎まれてもいる。新しい島の門出を飾るには相応しくありません」
サルヴァトーレのその言葉を聞いて、澪は議事録を取る手を止めてペンを握りしめた。
澪は知っていた。彼がずっと島のことを考えていたことを。自分の欲のために手を汚したわけではないことを。
だから、黙ってはいられなかった。
「汚したのなら、壊したのなら、なおさらその責任を取るべきではありませんか?」
サルヴァトーレがこちらを見た。銀灰色の瞳がわずかに揺れた。
「掟にもありましたよね。良いものも悪いものも、借りは返さなくては」
澪は彼の瞳を逃さないように見つめた。
「だったら今度は、その力を島の復興のために使ってください」
会議室は静まり返った。自分でも、随分と偉そうなことを言ったと思う。けれど、彼だけが影で罪に苛まれ続けるのは嫌だった。
サルヴァトーレはしばらく黙っていた。そして、ほんのわずかに苦笑した。
「貴女は時々、本当に容赦がありませんね」
「こういうの、サルヴァトーレさんに教わりましたから」
そう返すと、彼は珍しく言葉に詰まったまま、眉根を寄せていた。
結局、サルヴァトーレは次の正式な選挙までという条件付きで、暫定代表を引き受けることになった。
チェネレの頭領としてではない。島の公の責任を負う者として、再建の先頭に立つことになったのだ。
その日から、彼の仕事はさらに増えた。
古書店の扉には、休業の紙が貼られたままだった。
それでも澪は知っている。
夜遅く、灯りの消えた店の奥で、サルヴァトーレが古い本の埃を払っていることを。あの日、あの選択があったから、あの書斎を捨てなかったことを。
澪は自分の腕についた火傷の痕に触れた。まだそこは完全には治り切っていなかったが、彼が古書店で静かな時間を過ごせているというその事実だけで、澪は少しだけ救われる気がした。
そして、腕の火傷の痕に触れるたび、澪は決まって、マヒトのことを思い出した。
火口で最後に彼は微笑んだ。救えなかった——
もっと早く話せていたら、何か違っていただろうか。いくら考えても答えの出ない問いが、今も傷の奥で疼く。
澪はそっと指を離した。それでも、彼が繋いでくれた今日を、無駄にはできない。
「澪!」
港の方から声が飛んできた。振り向くと、ネッロが大きく手を振っていた。肩には木材を担ぎ、反対の手にはなぜかパンの袋を持っている。
「また書類かよ。お前、島に来た時より忙しくなってないか?」
「ネッロこそ、また力仕事?」
「またって言うなよ。みんな力仕事は俺に任せりゃいいと思ってるんだ」
口を尖らせながらそう言った後、朗らかに笑う。その顔には以前と同じ明るさが戻っていた。
けれど、時々ふと遠くを見ることがある。山の方、あるいは、もう届かない誰かの方を見つめるように。
「ほら」
ネッロがパンの袋を差し出す。
「アンナが持ってけって」
「え、でも私これから報告会で」
「食いながら行け。命令」
「誰の?」
「アンナの」
それは逆らえない。澪が受け取ると、ネッロは満足げに笑った。
「で、本当に帰るのか」
不意に落とされた言葉に、澪はパンの袋を抱きしめる手に力を込めた。
「うん」
「そっか」
ネッロは空を見上げた。青い空だった。火口の日の黒い雲が嘘のように、澄んでいる。
「卒業論文、書かなきゃいけないから」
「この島のこと?」
「うん。この島で見たこと、聞いたこと。グラツィアのことも、教団のことも、ちゃんと書きたい」
「俺のことも?」
「必要ならね」
「かっこよく書いとけよ。背が高くて強くてモテるって」
「それ、論文にいるのかな?」
「いるだろ」
澪は思わず笑った。ネッロも笑った。けれどその笑みは、すぐに少しだけ寂しそうなものへ変わる。
「戻ってくるんだろ?」
問いではなかった。願いに近かった。澪は頷く。
「戻ってくるよ」
「絶対だぞ」
「うん」
ネッロはしばらく澪を見て、それからいつものように乱暴に頭を撫でた。
「よし。なら許す」
「私がいないからって無理しちゃ駄目だよ?」
「それ、周りの奴らに言っといてくれよ」
ネッロが眉を下げながら笑った。
澪も笑いながら、少しだけ涙が出そうになった。
*
船出の日が来た。港には、思ったよりもたくさんの人が集まっていた。
アンナは大きな籠を抱えている。中にはパン、焼き菓子、干し果物、それから小さな瓶詰めまで、食べ物がいくつも詰まっていた。
「すっごくありがたいんですけど……こんなには持てませんよ」
「船で食べるんだよ。向こうに帰ってからも食べな。ちゃんと食べないんじゃないかって心配だよ」
アンナはそう言って、澪の頬を両手で包んだ。その手は温かかった。
「痩せたら承知しないよ」
「はい」
「眠れない時は、ちゃんと温かいものを飲むんだよ」
「はい」
「それから、無理しすぎない」
「……はい」
アンナの目が赤くなる。
それを見た瞬間、澪も駄目だった。涙がこぼれそうになるのを必死で堪える。
アンナは乱暴に澪を抱きしめた。
「まったく。最初は頼りない子だと思ってたのにね」
「すみません……」
「褒めてるんだよ」
アンナの声が震えた。澪は何も言えず、その背に腕を回した。
少し離れた場所では、レオが煙草に火をつけようとして、アンナに睨まれて慌ててしまい込んでいた。
「次に来る時は、人質じゃなくて客として来いよ」
レオが肩をすくめる。
「できれば、そうしたいですね」
「できればじゃねぇ。絶対だ。こっちはお前らのせいで働かされっぱなしだった」
「でも、レオ先生、結構楽しそうでしたよ」
「どこがだ」
レオは不機嫌そうに顔を背ける。けれど、口元だけが少し緩んでいた。
ネッロは最後まで黙っていた。いつものように軽口を言うかと思ったのに、桟橋の端で腕を組んだまま、ずっと海を見ていた。澪が近づくと、ようやくこちらを向く。
「おい、泣くなよ」
「いや、まだ泣いてないよ?」
「もう泣きそうな顔してる」
「ネッロだって」
「俺は泣かねぇよ」
そう言う声が、少しだけ掠れていた。
澪は笑った。ネッロも笑おうとして、途中で諦めたように息を吐く。
「元気でやれよ」
「うん」
「変な奴についてくなよ」
「それをネッロが言う?」
「どういう意味だよ」
「最初に私のことチェネレに連れて行ったのはネッロでしょ」
ネッロは懐かしむように軽く眉を上げてから、ふっと笑った。それから、澪の頭に大きな手を置く。優しく、確かめるような手だった。
「論文だが、研究だか。よくわかんねぇけど、しっかりやって、戻ってこいよ」
「うん。がんばる」
その言葉に、ネッロはやっと満足したように手を離した。
そして——
桟橋の先に、サルヴァトーレが立っていた。
深い灰色のジャケットを羽織っている。潮風に軽く撫でつけた髪を揺らし、銀縁の眼鏡の奥の瞳は、穏やかに海を映していた。
澪はゆっくりと歩み寄る。
良いことも悪いことも、言いたいことは、たくさんあった。
でも、どの言葉を選べばいいのか分からないまま、澪は彼の前で立ち止まった。
「お忙しい中、見送りありがとうございます」
結局出てきたのは、そんな他人行儀な言葉だった。サルヴァトーレは、澪に向き直った。
「貴女も、最後まで忙しそうでしたね」
「誰かさんに報告することが多すぎたので」
「それは失礼いたしました」
「本当に思ってます?」
「もちろん。それから、こちらを」
サルヴァトーレは上着の内側から、小さな包みを取り出した。澪が受け取って布を開くと、見覚えのあるシルバーの携帯電話が入っていた。
「……私の携帯」
「お預かりしていたものです」
ふたつ折りの小さな機械は、島に来た日と同じように、掌の中で冷たく光っている。
「……ありがとうございます」
澪は携帯電話を鞄にしまいかけて、ふと左手を見下ろした。
銀色のシグネットリング——守るための印であり、監視のための道具でもあったもの。
澪は少し迷ってから、指輪を外した。
「これも、お返しします」
サルヴァトーレの視線が、彼女の手の上に落ちる。
「記念に持ち帰ってもよろしいですよ」
「さすがに盗聴器入りの指輪を持って帰るほど、不用心じゃありません」
「それは賢明です」
サルヴァトーレはわずかに口元を緩めた。
「それでは、契約は満了、ということで」
その小さな銀色のリングが彼のポケットに消えたのを見て、澪はなんだか急に寂しさが込み上げてきた。
サルヴァトーレは涼しい顔をしている。けれどその指先が、ほんのわずかに握られていることに、澪は気づいた。
(この人は、きっと寂しいなんて言わないんだろうな……)
澪は胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。
「大学に戻ったら、この島のことを論文にします」
「ええ」
「魔女の逸話のこと、教団のこと、それからチェネレのことも」
「……手厳しく書かれそうですね」
その言い方が少しおかしくて、澪は笑った。サルヴァトーレも、ほんのわずかに笑う。潮風が二人の間を通り抜けた。
遠くで、出航の時間が近づいたことを告げる鐘が鳴る。澪は顔を上げた。
「サルヴァトーレさん」
「はい」
「私は、この島に来てよかったです」
サルヴァトーレの表情が、かすかに揺れた。
「怖いことも、悲しいことも、たくさんありました。でも、来なければ知らないままでした」
澪は港町を振り返る。
アンナとレオが何やら話している。ネッロが腕を組んだまま、それを見ている。その向こうには、青い空と、赤い屋根と、穏やかな海があった。
「グラツィアのことも、おばあちゃんのことも。マヒトくんのことも。チェネレのことも」
——そして、あなたのことも。
最後の言葉は、声にしなかった。けれどサルヴァトーレは、何かを察したように静かに目を伏せた。
「貴女のおかげで、私は大切なものを失わずに済みました」
サルヴァトーレは柔らかく目を細めた。
「……貴女がこの島に来てくれて、良かった」
その言葉に澪は思わず顔を上げて、サルヴァトーレを見た。
「もし」
彼がゆっくりと口を開く。
「貴女が望むのならば……」
サルヴァトーレの銀灰色の瞳が澪を見つめた。
「いつでもこの島に戻ってきてください」
サルヴァトーレはそこで一度、言葉を切った。ほんの少しだけ、迷うような間。けれどすぐに、柔らかく微笑んだ。
「私は——いつまでも、待っています」
澪の喉が震えた。でも、泣きたくなかった。泣いてしまったら、船に乗れなくなる気がした。
だから澪は、笑った。できる限り、まっすぐに。
「はい」
潮風が髪を揺らす。
「必ず戻ります」
サルヴァトーレは何も言わなかった。ただ、その約束を受け取るように、静かに頷いた。
次の風が澪の髪を頬へ散らす。
彼はポケットから右手を出し、そっと伸ばした。細く長い指先が、頬をかすめるように触れ、乱れた髪を耳の後ろへ戻した。
あの甘くて、苦い、どこか煙を含んだような、静かな香りがした。
ほんの一瞬のことだった。それなのに、触れられた場所だけが、潮風から取り残されたように熱を持つ。
サルヴァトーレは何事もなかったかのようにその手を下ろした。
「……潮風は、思いのほか悪戯をするようですね」
「潮風のせい、でしょうか……」
「ええ」
彼は、少しだけ困ったように視線を逸らした。
「今は、そういうことにしておいてください」
船の汽笛が鳴った。
澪は返す言葉を探した。けれど見つからないまま、胸の奥に残った小さな熱を抱えて、ゆっくりと踵を返した。
桟橋を渡り、船へ乗り込む。甲板に上がると、港がよく見えた。
アンナが両手を大きく振っている。レオが呆れた顔でそれを見ている。
ネッロは最後まで腕を組んでいたが、澪が手を振ると、片手で鼻先を押さえた。泣いてなんかいない、とでも言いたげに顔をそむける。それでも、空いている方の手を高く上げてくれた。
そして、サルヴァトーレ。彼は桟橋の先に立ったまま、静かにこちらを見ていた。
船がゆっくりと岸を離れる。
港町が少しずつ遠ざかる。
白い壁。
赤い屋根。
火山の稜線。
青い海。
澪は手を振った。
何度も、何度も。
やがて、人々の姿が小さくなり、声も届かなくなった。
それでも、桟橋に立つ灰色の人影だけは、最後まで見えていた。
船が港を抜け、外海へ出る。陽の光を受けた海は、赤くきらめいていた。
血の色ではない。呪いの色でもない。沈む夕陽と、揺れる波が重なって生まれる、ただ美しい赤だった。
ロッサ・ディ・マーレ——赤き潮騒の島。
この島での思い出が、澪の胸に静かに満ちていく。澪は胸元のペンダントにそっと触れた。それから、遠ざかる島へもう一度だけ手を振った。
小さくなっていく桟橋の先で、サルヴァトーレはいつまでも動かなかった。
その姿が水平線に溶けても。
ずっと——ただ静かに海を見つめていた。
——FINE




