35話:血の贖罪
火口へ続く道は、雨水が漏れ出ているのか所々で水滴が落ち、濡れて黒く光っていた。
大聖堂の奥から続く地下道を抜けると、湿った石の匂いが、むっとした硫黄の匂いへ変わった。空気が熱い。
外は雨のはずなのに、肌にまとわりつくのは湿気ではなく、火山の底から立ち上る熱だった。
澪は足を止めそうになった。だが、背後に立つマヒトの気配がそれを許さない。手首は縛られたまま。
少し離れた場所にはサルヴァトーレがいた。
彼は何も言わない。アレッサンドロに促されるまま、ただ静かに歩いている。その横顔からは、何も読み取れなかった。
やがて、岩肌をくり抜いたような祠が見えてきた。
古びた石段。
火山岩で組まれた低い鳥居のような門。
その奥に、赤黒い光が滲んでいる。
火口が近い。地の底から、低く唸るような音が響いていた。
「ここに」
澪は思わず呟いた。
アレッサンドロが足を止める。そして、ゆっくりと振り返った。
「そう」
白い祭服の裾が、熱を含んだ風に揺れる。その口元が、醜く歪んだ。
「ここが神火精製装置のある祠だ。あの女が作り出した、神火の奇跡。その場所だ」
あの女——その言い方に、澪の胸の奥がざらついた。
「グラツィアのことですか」
「そうだ。愚かで、哀れで、そして誰よりも神に近づいた女」
アレッサンドロは祠の奥へ視線を向ける。その目に浮かぶのは憎しみなのか、憧れなのか、澪には分からなかった。
「だが、あの女は逃げた。奇跡の完成を目前にしながら、自ら火口へ身を投げた」
アレッサンドロは澪を見る。
「その運命を、お前が受け入れる。まさに贖罪というわけだ」
「贖罪……?」
澪は唇を噛んだ。
「私は、何の罪を償うんですか」
「血の罪だ」
嘲笑うように言った。
「不完全であろうと、神火は私に時を与えた」
アレッサンドロは、澪を見下ろしたまま静かに言った。
「百年だ。百年、この島を見てきた。人が欲に溺れ、信仰を忘れ、灰の犬どもが秩序を踏みにじるのを、私はこの目で見続けてきた」
その口調は穏やかだった。けれど、瞳の奥だけが妙に濁っている。
「だが、未完成の神火では薬を飲み続けても、肉体は完全には時を拒めぬ。精神も少しずつ摩耗する。眠りは浅くなり、記憶は裂け、怒りだけが澄んでいく」
彼は、祈るように両手を広げた。
「だからこそ、完全なる神火が必要なのだ。魔女の血を継ぐ者よ。お前の血があれば、私はようやく、神の御心にふさわしい器となる」
アレッサンドロは澪の目の前まで歩み寄った。
「神火に背き、奇跡を拒み、この島に混乱を残した魔女の血。その血は巡り巡って、お前の中に戻った。ならば、お前が罪を償うべきだ」
「グラツィアは、間違っていません」
澪は顔を上げた。アレッサンドロの目が細くなる。
「何?」
「不老不死の薬なんて、作るべきじゃなかった。だからグラツィアは止めたんです」
火口の熱が頬を焼く。
それでも、澪は言葉を止めなかった。
「神火精製装置を動かせば、火山の熱を奪う。地震や噴火を起こす。鉱山の事故だって、きっと……」
ネッロの顔が脳裏をよぎった。
家族を失った少年。瓦礫の下で、名前を呼び続けていたかもしれない子供。
「人の命を犠牲にしてまで、永遠なんて手に入れるべきじゃない」
「黙れ」
アレッサンドロの声が低く落ちた。
が、澪は続けた。
「グラツィアは、逃げたんじゃない。止めようとしたんです。自分が作ってしまったものを、これ以上誰かが使わないように」
乾いた音がした。
次の瞬間、澪の身体が横へ吹き飛んだ。
アレッサンドロに突き飛ばされたのだと気づいた時には、膝が石床にぶつかっていた。
「っ……」
手首を縛られているせいで受け身も取れず、肩に鈍い痛みが走る。
「その名を、分かったように語るな」
アレッサンドロの声は、もはや神火公のものではなかった。熱に浮かされたような、低く濁った声。
「グラツィアは奇跡を恐れた。凡庸な倫理に縛られ、神の領域に足を踏み入れる覚悟を失っただけだ」
「違います」
「黙れと言っている!」
アレッサンドロがさらに歩み寄ろうとした、その時だった。
「お待ちください」
震える声が響いた。
澪は顔を上げた。
声の主はマヒトだった。彼は蒼白な顔で、しかし確かにアレッサンドロを見ていた。
「彼女を……手にかけないで済む方法はないのですか」
アレッサンドロの動きが止まる。祠の中の空気が、ひやりと冷えた気がした。
「何だと?」
マヒトの喉はわずかに震えていた。それでも、彼は言葉を続けた。
「薬を完成させるために、必ず殺す必要があるのですか。血が必要なら、他の方法でも——」
「黙れ」
「ですが」
「黙れ、人形風情が!」
アレッサンドロの杖が、マヒトの肩を打った。鈍い音が響く。
マヒトの身体がよろめいた。
「私に意見するな」
さらに一撃。マヒトは膝をつく。
「お前は拾われた命だ。私が名を与え、役目を与え、生かしてやった」
杖の先が、容赦なくマヒトの背を打つ。
「それを忘れたか」
「……っ」
マヒトは声を殺して耐えていた。
だが、次の瞬間、アレッサンドロの足がその頭を踏みつけた。
「役に立たぬ人形に、存在する価値などない」
「やめてください!」
澪は思わず叫んだ。膝をついたまま、マヒトの方へ身を乗り出す。
「もうやめてください! マヒトくんは、あなたの道具じゃありません!」
アレッサンドロは澪を見下ろした。
その目に、ひとかけらの感情もない。
「道具でないなら、何だというのだ」
澪は答えなかった。けれど、這うようにマヒトの側へ寄った。
マヒトは石床に倒れ込んだまま、呆然と澪を見ている。
その目には、絶望と困惑が混じっていた。
なぜ庇うのか。
そう問われているようだった。澪は、ただ首を横に振った。
「もう、やめて……」
その時、ふと視線を感じた。サルヴァトーレだった。彼は少し離れた場所で、黙ってこちらを見ていた。
銃を抜くでもなく、アレッサンドロを制するでもなく。ただ、静かに。
その灰色の瞳は冷たく、深い水底のようだった。
澪の胸が、かすかに震える。
信じたいと思っていた。
けれど今、目の前でマヒトが打たれ、自分が突き飛ばされても、サルヴァトーレは動かない。
彼は何を待っているのだろう。
何を、まだ秤にかけているのだろう。
澪は唇を噛んだ。
「さあ」
アレッサンドロの声が響く。
「茶番は終わりだ」
祠の奥へ進むよう命じられる。
マヒトはふらつきながら立ち上がった。その目から、さっきの迷いが消えていた。いや、消したのだ。消さなければ立っていられないのだと、澪には分かった。
祠の奥に踏み入れた瞬間、澪は息を呑んだ。
最奥には、祭壇があると思っていた。神火を祀る、古い祠なのだと——けれどそこにあったのは、祭壇ではなかった。
錆びた鉄と硝子と管でできた、巨大な装置だった。
山の壁そのものから生えているように、金属の管が何本も伸びている。太いものも細いものもあり、その一部は脈打つ血管のように震えていた。
古めかしい計器が並び、針は意味の分からない数値を指したまま、かすかに揺れている。
ところどころに刻まれた神火の紋章だけが、この機械を祈りの道具であるかのように偽装していた。
そして中央には、分厚い硝子でできた容器があった。
人間一人が膝を抱えれば、ちょうど収まるほどの大きさ。周囲の床には、黒ずんだ染みが無数に残っている——血の跡だった。ひとつやふたつではない。長い年月の間に、何度も拭われ、それでも消えなかった跡。
神を祀る場所に、人間を加工する機械が据えられている。その矛盾が、何よりもおぞましかった。
澪の喉がひゅっと鳴った。
「美しいだろう」
アレッサンドロが満足げに言う。
「これこそ、グラツィアが神火から引き出した奇跡だ」
「奇跡……?」
澪は思わず呟いた。
「これが?」
「そうだ」
アレッサンドロは装置へ歩み寄り、古い計器のひとつを愛おしそうに撫でた。
「どれだけ他の血で試しても、完全な薬は得られなかった。だが、グラツィアの血ならば違う」
「他の血で、試した……?」
澪の声が震えた。アレッサンドロは、何でもないことのように頷いた。
「当然だ。奇跡は検証されねばならない。失敗はあった。犠牲もあった。実験後に地震や小噴火が起きたこともある」
「そんな……」
「だが、奇跡の実現には、尊い犠牲が伴うものだ」
澪は、怒りに震えた。
ネッロのことを思い出す。彼の家族を奪った地震。
それだけではない、魔女の娘を逃したせいで起きたと言われた西地区の火山災害。火山の怒りだと語られていた悲劇。
もし、それが——神火の怒りなどではなく、誰かの実験の結果だったのなら。
「あなたは……」
澪はアレッサンドロを睨みつけた。
「どこまで……」
「歴史に名を残す者は、常に凡人に理解されないものだ」
アレッサンドロは笑った。
「マヒト」
その声に、マヒトが動く。澪の腕を取る手は冷たかった。だが、その指先はわずかに震えていた。
「マヒトくん……」
澪は彼を見る。
マヒトは答えない。
感情を失ったような顔で、澪を硝子の容器へ強引に押し込んだ。
膝を折らなければ入れないほど狭い。
背中が冷たい硝子に触れ、息が詰まる。
「待って、やめて!」
マヒトが硝子を抑え、アレッサンドロの手によって扉の鍵が閉められる。
分厚い硝子越しに、外の音が鈍く曇った。
間近に、マヒトの顔が見えた。
その目は揺れている。迷っている。泣きそうなほど苦しそうな瞳。
澪は、硝子に縛られた手を押しつけた。
「マヒトくん!」
彼の名前を呼んだつもりだった。
だが声は硝子に遮られ、外へ届いたのか分からない。
その時——
「そこまでだ」
あの冷たい声が鋭く差した。
サルヴァトーレは、すでに銃口をアレッサンドロへ向けていた。
さっきまでの沈黙が嘘のように、灰色の瞳には冷たい光が宿っている。
一歩。
——また一歩。
火口の熱気の中を、静かに近づいていく。
「なんだ、怖くなったか、スピネッリ」
アレッサンドロは鼻で笑った。
「だが私を殺したところで、島中の信者は納得するか? 神火公を撃ち殺した罪を、チェネレが背負えるとでも?」
サルヴァトーレは銃口を下ろさない。
「貴方の言葉は、すべて記録されています」
アレッサンドロの笑みが、わずかに止まった。
「何だと?」
「盗聴器で録音させてもらいました。大聖堂での演説も、この場所での告白も、すべて」
サルヴァトーレの声は静かだった。
「神火精製装置の存在。血を使った実験。地震や噴火を引き起こした事実。そして、グラツィアの血を薬の鍵として扱おうとしたこと」
アレッサンドロの顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「これを島中に流します」
サルヴァトーレは淡々と続けた。
「貴方はもう、神火公ではいられない」
硝子の中で、澪は息を呑んだ。
では、あの時の沈黙は。
私を見なかった横顔は。
すべて、このためだったのだろうか。
胸の奥に、安堵とも痛みともつかないものが広がる。
けれどサルヴァトーレは、澪を見なかった。ただ、アレッサンドロだけを見ている。
「貴方は、もう用済みです」
無言のまま、サルヴァトーレは撃鉄を起こした。小さな金属音が、祠の中にやけに大きく響く。
アレッサンドロの表情が初めて歪んだ。
「待て、スピネッリ」
その声には、焦りが混じっていた。
「よく考えろ。今、お前が欲しがったものが目の前にある。秩序が。安寧が。永遠に続く統治が」
サルヴァトーレは何も言わない。
銃口だけが、静かにアレッサンドロの額を捉えている。
「お前は理解したはずだ。後継者問題も、権力争いも、老いも死も、すべて超えられる。お前なら使いこなせる、お前ほどの賢さと強い意志があれば——」
そこまで言って、ふいにアレッサンドロは歪んだ笑みを浮かべた。
「そうか」
何かを思いついたように、声を明るくする。
「そんなにこの娘を殺すのが忍びないなら、生かしておくのもいいだろう」
硝子の向こうで、澪の呼吸が止まる。
サルヴァトーレの眉が、わずかに動いた。
アレッサンドロはそれを見逃さなかった。
「女系の血ならば、この娘の子でも適合する可能性が高い。いや、さらに純度を調整できるかもしれない」
笑みが深まる。
「この娘さえいれば、機会はいくらでもある」
その瞬間。
祠の中の熱が、すっと遠のいた気がした。
サルヴァトーレの目が、冷たく細められる。それは怒りというより、完全な拒絶だった。
生かす余地があるかどうか。
見極める時間は、終わった。
「……貴様は」
サルヴァトーレの声はひどく静かだった。
「救えないほど醜い」
銃声が響いた。
一発。
アレッサンドロの額に、赤い点が咲く。
その身体は、ゆっくりと傾いた。
白い祭服が、熱を含んだ風に揺れる。
男は最後までサルヴァトーレを睨みつけていた。何かを言おうとしたのか、口を開く。
——だが、言葉は出なかった。
その身体が神火精製装置の前に崩れ落ちた。
祠の中に、硝煙の匂いが満ちる。
地の底から、火山の低い唸りが響いている。
——終わった。
澪は硝子の中で、そう思った。
次の瞬間、神火精製装置が咆哮した。




