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ロッサ・ディ・マーレ 〜火山島に燻る魔女の罪〜  作者: 山城すな
第十章

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35話:血の贖罪

 火口へ続く道は、雨水が漏れ出ているのか所々で水滴が落ち、濡れて黒く光っていた。


 大聖堂の奥から続く地下道を抜けると、湿った石の匂いが、むっとした硫黄の匂いへ変わった。空気が熱い。


 外は雨のはずなのに、肌にまとわりつくのは湿気ではなく、火山の底から立ち上る熱だった。


 澪は足を止めそうになった。だが、背後に立つマヒトの気配がそれを許さない。手首は縛られたまま。


 少し離れた場所にはサルヴァトーレがいた。


 彼は何も言わない。アレッサンドロに促されるまま、ただ静かに歩いている。その横顔からは、何も読み取れなかった。


 やがて、岩肌をくり抜いたような祠が見えてきた。


 古びた石段。

 火山岩で組まれた低い鳥居のような門。

 その奥に、赤黒い光が滲んでいる。


 火口が近い。地の底から、低く唸るような音が響いていた。


「ここに」


 澪は思わず呟いた。


 アレッサンドロが足を止める。そして、ゆっくりと振り返った。


「そう」


 白い祭服の裾が、熱を含んだ風に揺れる。その口元が、醜く歪んだ。


「ここが神火精製装置のある祠だ。あの女が作り出した、神火の奇跡。その場所だ」


 あの女——その言い方に、澪の胸の奥がざらついた。


「グラツィアのことですか」


「そうだ。愚かで、哀れで、そして誰よりも神に近づいた女」


 アレッサンドロは祠の奥へ視線を向ける。その目に浮かぶのは憎しみなのか、憧れなのか、澪には分からなかった。


「だが、あの女は逃げた。奇跡の完成を目前にしながら、自ら火口へ身を投げた」


 アレッサンドロは澪を見る。


「その運命を、お前が受け入れる。まさに贖罪というわけだ」


「贖罪……?」


澪は唇を噛んだ。


「私は、何の罪を償うんですか」


「血の罪だ」


 嘲笑うように言った。


「不完全であろうと、神火は私に時を与えた」


 アレッサンドロは、澪を見下ろしたまま静かに言った。


「百年だ。百年、この島を見てきた。人が欲に溺れ、信仰を忘れ、灰の犬どもが秩序を踏みにじるのを、私はこの目で見続けてきた」


 その口調は穏やかだった。けれど、瞳の奥だけが妙に濁っている。


「だが、未完成の神火では薬を飲み続けても、肉体は完全には時を拒めぬ。精神も少しずつ摩耗する。眠りは浅くなり、記憶は裂け、怒りだけが澄んでいく」


 彼は、祈るように両手を広げた。


「だからこそ、完全なる神火が必要なのだ。魔女の血を継ぐ者よ。お前の血があれば、私はようやく、神の御心にふさわしい器となる」


 アレッサンドロは澪の目の前まで歩み寄った。


「神火に背き、奇跡を拒み、この島に混乱を残した魔女の血。その血は巡り巡って、お前の中に戻った。ならば、お前が罪を償うべきだ」


「グラツィアは、間違っていません」


 澪は顔を上げた。アレッサンドロの目が細くなる。


「何?」


「不老不死の薬なんて、作るべきじゃなかった。だからグラツィアは止めたんです」


 火口の熱が頬を焼く。

 それでも、澪は言葉を止めなかった。


「神火精製装置を動かせば、火山の熱を奪う。地震や噴火を起こす。鉱山の事故だって、きっと……」


 ネッロの顔が脳裏をよぎった。

 家族を失った少年。瓦礫の下で、名前を呼び続けていたかもしれない子供。


「人の命を犠牲にしてまで、永遠なんて手に入れるべきじゃない」


「黙れ」


 アレッサンドロの声が低く落ちた。

が、澪は続けた。


「グラツィアは、逃げたんじゃない。止めようとしたんです。自分が作ってしまったものを、これ以上誰かが使わないように」


 乾いた音がした。

 次の瞬間、澪の身体が横へ吹き飛んだ。

アレッサンドロに突き飛ばされたのだと気づいた時には、膝が石床にぶつかっていた。


「っ……」


 手首を縛られているせいで受け身も取れず、肩に鈍い痛みが走る。


「その名を、分かったように語るな」


 アレッサンドロの声は、もはや神火公のものではなかった。熱に浮かされたような、低く濁った声。


「グラツィアは奇跡を恐れた。凡庸な倫理に縛られ、神の領域に足を踏み入れる覚悟を失っただけだ」


「違います」


「黙れと言っている!」


 アレッサンドロがさらに歩み寄ろうとした、その時だった。


「お待ちください」


 震える声が響いた。

 澪は顔を上げた。

 声の主はマヒトだった。彼は蒼白な顔で、しかし確かにアレッサンドロを見ていた。


「彼女を……手にかけないで済む方法はないのですか」


 アレッサンドロの動きが止まる。祠の中の空気が、ひやりと冷えた気がした。


「何だと?」


 マヒトの喉はわずかに震えていた。それでも、彼は言葉を続けた。


「薬を完成させるために、必ず殺す必要があるのですか。血が必要なら、他の方法でも——」


「黙れ」


「ですが」


「黙れ、人形風情が!」


 アレッサンドロの杖が、マヒトの肩を打った。鈍い音が響く。

 マヒトの身体がよろめいた。


「私に意見するな」


 さらに一撃。マヒトは膝をつく。


「お前は拾われた命だ。私が名を与え、役目を与え、生かしてやった」


 杖の先が、容赦なくマヒトの背を打つ。


「それを忘れたか」 


「……っ」


 マヒトは声を殺して耐えていた。

 だが、次の瞬間、アレッサンドロの足がその頭を踏みつけた。


「役に立たぬ人形に、存在する価値などない」


「やめてください!」


 澪は思わず叫んだ。膝をついたまま、マヒトの方へ身を乗り出す。


「もうやめてください! マヒトくんは、あなたの道具じゃありません!」


 アレッサンドロは澪を見下ろした。

 その目に、ひとかけらの感情もない。


「道具でないなら、何だというのだ」


 澪は答えなかった。けれど、這うようにマヒトの側へ寄った。

 マヒトは石床に倒れ込んだまま、呆然と澪を見ている。


 その目には、絶望と困惑が混じっていた。


 なぜ庇うのか。


 そう問われているようだった。澪は、ただ首を横に振った。


「もう、やめて……」


 その時、ふと視線を感じた。サルヴァトーレだった。彼は少し離れた場所で、黙ってこちらを見ていた。


 銃を抜くでもなく、アレッサンドロを制するでもなく。ただ、静かに。


 その灰色の瞳は冷たく、深い水底のようだった。


 澪の胸が、かすかに震える。


 信じたいと思っていた。


 けれど今、目の前でマヒトが打たれ、自分が突き飛ばされても、サルヴァトーレは動かない。


 彼は何を待っているのだろう。

 何を、まだ秤にかけているのだろう。


 澪は唇を噛んだ。


「さあ」


 アレッサンドロの声が響く。


「茶番は終わりだ」


 祠の奥へ進むよう命じられる。


 マヒトはふらつきながら立ち上がった。その目から、さっきの迷いが消えていた。いや、消したのだ。消さなければ立っていられないのだと、澪には分かった。


 祠の奥に踏み入れた瞬間、澪は息を呑んだ。


 最奥には、祭壇があると思っていた。神火を祀る、古い祠なのだと——けれどそこにあったのは、祭壇ではなかった。


 錆びた鉄と硝子と管でできた、巨大な装置だった。


 山の壁そのものから生えているように、金属の管が何本も伸びている。太いものも細いものもあり、その一部は脈打つ血管のように震えていた。


 古めかしい計器が並び、針は意味の分からない数値を指したまま、かすかに揺れている。


 ところどころに刻まれた神火の紋章だけが、この機械を祈りの道具であるかのように偽装していた。


 そして中央には、分厚い硝子でできた容器があった。


 人間一人が膝を抱えれば、ちょうど収まるほどの大きさ。周囲の床には、黒ずんだ染みが無数に残っている——血の跡だった。ひとつやふたつではない。長い年月の間に、何度も拭われ、それでも消えなかった跡。


 神を祀る場所に、人間を加工する機械が据えられている。その矛盾が、何よりもおぞましかった。


 澪の喉がひゅっと鳴った。


「美しいだろう」


 アレッサンドロが満足げに言う。


「これこそ、グラツィアが神火から引き出した奇跡だ」


「奇跡……?」


 澪は思わず呟いた。


「これが?」


「そうだ」


 アレッサンドロは装置へ歩み寄り、古い計器のひとつを愛おしそうに撫でた。


「どれだけ他の血で試しても、完全な薬は得られなかった。だが、グラツィアの血ならば違う」


「他の血で、試した……?」


 澪の声が震えた。アレッサンドロは、何でもないことのように頷いた。


「当然だ。奇跡は検証されねばならない。失敗はあった。犠牲もあった。実験後に地震や小噴火が起きたこともある」


「そんな……」


「だが、奇跡の実現には、尊い犠牲が伴うものだ」


 澪は、怒りに震えた。


 ネッロのことを思い出す。彼の家族を奪った地震。


 それだけではない、魔女の娘を逃したせいで起きたと言われた西地区の火山災害。火山の怒りだと語られていた悲劇。


 もし、それが——神火の怒りなどではなく、誰かの実験の結果だったのなら。


「あなたは……」


 澪はアレッサンドロを睨みつけた。


「どこまで……」


「歴史に名を残す者は、常に凡人に理解されないものだ」


 アレッサンドロは笑った。


「マヒト」


 その声に、マヒトが動く。澪の腕を取る手は冷たかった。だが、その指先はわずかに震えていた。


「マヒトくん……」


 澪は彼を見る。

 マヒトは答えない。

 感情を失ったような顔で、澪を硝子の容器へ強引に押し込んだ。


 膝を折らなければ入れないほど狭い。

 背中が冷たい硝子に触れ、息が詰まる。


「待って、やめて!」


 マヒトが硝子を抑え、アレッサンドロの手によって扉の鍵が閉められる。

 分厚い硝子越しに、外の音が鈍く曇った。


 間近に、マヒトの顔が見えた。

 その目は揺れている。迷っている。泣きそうなほど苦しそうな瞳。

 澪は、硝子に縛られた手を押しつけた。


「マヒトくん!」


 彼の名前を呼んだつもりだった。

 だが声は硝子に遮られ、外へ届いたのか分からない。


 その時——


「そこまでだ」


 あの冷たい声が鋭く差した。

 サルヴァトーレは、すでに銃口をアレッサンドロへ向けていた。


 さっきまでの沈黙が嘘のように、灰色の瞳には冷たい光が宿っている。

 一歩。

 ——また一歩。

 火口の熱気の中を、静かに近づいていく。


「なんだ、怖くなったか、スピネッリ」


 アレッサンドロは鼻で笑った。


「だが私を殺したところで、島中の信者は納得するか? 神火公を撃ち殺した罪を、チェネレが背負えるとでも?」


 サルヴァトーレは銃口を下ろさない。


「貴方の言葉は、すべて記録されています」


 アレッサンドロの笑みが、わずかに止まった。


「何だと?」


「盗聴器で録音させてもらいました。大聖堂での演説も、この場所での告白も、すべて」


 サルヴァトーレの声は静かだった。


「神火精製装置の存在。血を使った実験。地震や噴火を引き起こした事実。そして、グラツィアの血を薬の鍵として扱おうとしたこと」


 アレッサンドロの顔から、少しずつ血の気が引いていく。


「これを島中に流します」


 サルヴァトーレは淡々と続けた。


「貴方はもう、神火公ではいられない」


 硝子の中で、澪は息を呑んだ。

 では、あの時の沈黙は。

 私を見なかった横顔は。

 すべて、このためだったのだろうか。


 胸の奥に、安堵とも痛みともつかないものが広がる。


 けれどサルヴァトーレは、澪を見なかった。ただ、アレッサンドロだけを見ている。


「貴方は、もう用済みです」


 無言のまま、サルヴァトーレは撃鉄を起こした。小さな金属音が、祠の中にやけに大きく響く。

 アレッサンドロの表情が初めて歪んだ。


「待て、スピネッリ」


その声には、焦りが混じっていた。


「よく考えろ。今、お前が欲しがったものが目の前にある。秩序が。安寧が。永遠に続く統治が」


 サルヴァトーレは何も言わない。

 銃口だけが、静かにアレッサンドロの額を捉えている。


「お前は理解したはずだ。後継者問題も、権力争いも、老いも死も、すべて超えられる。お前なら使いこなせる、お前ほどの賢さと強い意志があれば——」


 そこまで言って、ふいにアレッサンドロは歪んだ笑みを浮かべた。


「そうか」


 何かを思いついたように、声を明るくする。


「そんなにこの娘を殺すのが忍びないなら、生かしておくのもいいだろう」


 硝子の向こうで、澪の呼吸が止まる。

 サルヴァトーレの眉が、わずかに動いた。

 アレッサンドロはそれを見逃さなかった。


「女系の血ならば、この娘の子でも適合する可能性が高い。いや、さらに純度を調整できるかもしれない」


 笑みが深まる。


「この娘さえいれば、機会はいくらでもある」


 その瞬間。

 祠の中の熱が、すっと遠のいた気がした。


 サルヴァトーレの目が、冷たく細められる。それは怒りというより、完全な拒絶だった。


 生かす余地があるかどうか。

 見極める時間は、終わった。


「……貴様は」


 サルヴァトーレの声はひどく静かだった。


「救えないほど醜い」


 銃声が響いた。


 一発。

 アレッサンドロの額に、赤い点が咲く。


 その身体は、ゆっくりと傾いた。

 白い祭服が、熱を含んだ風に揺れる。


 男は最後までサルヴァトーレを睨みつけていた。何かを言おうとしたのか、口を開く。


——だが、言葉は出なかった。


 その身体が神火精製装置の前に崩れ落ちた。


 祠の中に、硝煙の匂いが満ちる。

 地の底から、火山の低い唸りが響いている。


——終わった。


 澪は硝子の中で、そう思った。


 次の瞬間、神火精製装置が咆哮した。


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