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ロッサ・ディ・マーレ 〜火山島に燻る魔女の罪〜  作者: 山城すな
第九章

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34話:硝煙

 大聖堂の裏手にある古い倉庫は、雨音に包まれていた。


 窓は塞がれ、灯りは最低限に落とされている。湿った石壁にはカビの匂いが染みつき、机の上には簡易の無線機と、いくつかの資料が広げられていた。


 サルヴァトーレは椅子に腰を下ろし、片耳に小型のイヤフォンを入れていた。その奥から、澪の声が聞こえる。


『知りません』


 かすかに震えている。

 それでも、言葉ははっきりしていた。


『嘘はよくない』


 アレッサンドロの猫撫で声が返る。


『本当に知りません』


 サルヴァトーレは目を閉じた。

 古書店——その言葉が出た瞬間、指先がわずかに動いた。


 あの場所を、教団は狙っている。

 ルチアーノが残した部屋。

 レナの手紙が眠っていた場所。

 忘れるべきだったと、自分に言い聞かせてきた場所。


 けれど、今はそれを考えるべきではない。


 サルヴァトーレはゆっくりと瞬きし、呼吸を整えた。


 想定内だった。


 教団が古書店を潰そうとすることも。

 澪に場所を吐かせようとすることも。

 すべて、予想の範囲内だった。


『ファルコーネ』


 アレッサンドロがエンリコの名を呼ぶ。


『残念だが、あんたがあの場所に行ったことがあるのは分かっている』


 その声に、倉庫の中の空気が一段冷えたような気がした。


 控えていたファミリーの一人が、サルヴァトーレを見る。


 サルヴァトーレは何も言わなかった。


 ただ、無線機の側に置いた指先だけが、机の上を軽く叩いた。それだけで、部下たちは動揺を潜める。


 エンリコの裏切りも想定はしていた。


 いや、正確には、確信がなかった。判断を保留していた。そして、それはあまりに大きな誤算だった——


 しかし、今はそれを考えるべき時ではない。


 サルヴァトーレは目を伏せる。


 感情は、後で処理すればいい。

 今必要なのは情報だ。


 本物の炉の場所。

 薬の仕組み。

 アレッサンドロがどこまで知っているのか。


 澪が餌として機能するなら、それでいい。


 生き残れば、それでいい。

 生き残らなければ——それまでのこと。


 そこまで考えて、サルヴァトーレはゆっくりと息を吐いた。


『マヒト』


 アレッサンドロの声が聞こえた。


『吐かせなさい』


 沈黙。


 次の瞬間、乾いた音がイヤフォン越しに響いた。


 肉をムチで打つ音。


『……あぁっ!』


 澪の悲鳴が聞こえた。


 僅かに、サルヴァトーレが息を止めた。


 倉庫の中で、誰かが小さく息を呑む。

 サルヴァトーレは手を上げた。

 動くな。


「……待機」


 低く告げる。

 自分に向けて言ったのか、部下に向けて言ったのか分からなかった。


 想定内だ。


 痛みで吐かせる。

 教団なら当然そうする。


 今動けば、証拠も炉も逃す。

 取り乱すな。

 ここで動けば、すべてが無駄になる。


『言いなさい』


 アレッサンドロの声。


『……知りません』


 澪の声。


 サルヴァトーレは拳を握った。


 なぜだ。

 なぜ、言わない。

 古書店の場所など、今ここで守る必要はない。


 あの場所を失っても、組織は立て直せる。

 資料は惜しいが、すべてではない。


 それよりも本炉や薬の情報を引き出す方が合理的だ。


 澪なら分かるはずだ。


 いや。

 分からなくていい。


 そういう判断をするのは、自分の役目だ。


 だがこのままでは——


 サルヴァトーレは、奥歯を噛みしめた。


『何を躊躇っている、マヒト……』


 アレッサンドロの声が、わずかに苛立ちを帯びる。


『こうするのだ』


 一瞬、妙な間があった。


 次に聞こえたのは、金属が触れ合う小さな音。


 そして、澪の浅い呼吸。


 サルヴァトーレはイヤフォンを指で押さえた。


 倉庫の灯りが、灰色の瞳に冷たく反射する。


『……ひっ、う、ぁ……』


 声になりきらない苦痛が、イヤフォンの奥で震えた。


 声の後ろで肉を焼くような音がした。


 サルヴァトーレの唇に、痛みが走る。


 気づけば強く噛んでいた。

 口の中に、血の味が滲む。


「ボス」


 部下の一人が低く呼ぶ。


 サルヴァトーレは答えない。

 視線だけで黙らせた。


 これも想定内だ。


 最初から、餌が無傷で戻るとは考えていなかった。


 彼女が薬の鍵であるという証言は取れた。


 炉の存在にも近づいている。


 あと一歩だ。

 あと一歩で、薬の核心に手が届く。


 だから耐えろ。


 耐えろ。


 耐えろ——


『なぜ言わない』


 アレッサンドロの声が、今度は低くなった。


『お前を捨てたスピネッリの隠れ家など、守って何になる』


 サルヴァトーレの思考が静止した。


(そうだ、私は貴女を捨てたのだ……)


 今更、何を焦っている。焦ったところでもう何も取り返すことなど出来ない。


 倉庫の中で、雨音だけが響いている。


 しばらく、何も聞こえなかった。


 やがて、ひどく小さな声が、イヤフォンの奥からこぼれた。


『ひとつ……』


 掠れていた。


 痛みに耐えながら、澪が途切れ途切れに続けた。


『裏切らないこと……』


 無線の向こうで、誰かが小さく息を詰めた。それがエンリコなのだと、なぜか分かった。


『ひとつ……借りは、返すこと……』


 倉庫の中で、誰かが息を呑んだ。


『ひとつ……』


 澪の呼吸が震える。

 それでも、声は消えなかった。


『誇りを持つこと……』


 アレッサンドロが、わずかに眉を動かした。


『くだらない。灰の掟か』


 澪は答えなかった。

 ただ、かすれた声で続けた。


『だって……』


 一拍の間。


『あの人の、一番大切な場所だから……』


 サルヴァトーレは動かなかった。

 動けなかった。


『壊してほしくない……』


 その瞬間——


 何かが、胸の奥で静かに崩れた。


 彼自身が切り捨てようとしていたものを、彼女だけが守ろうとしていた。


 自分を餌にした男のために。


 自分を切り捨てるかもしれない男のために。


 あの古い書斎を。


 あの、捨てるべきだった記憶を、守ろうとしていた。


「……」


 サルヴァトーレはゆっくりと目を伏せた。


 拳を握る。


 爪が手のひらに食い込む。痛みはあった。だが、その痛みでさえ、足りなかった。


『別に』


 アレッサンドロの声が、冷たく響いた。


『処刑は火口でなくてもいいのだぞ』


 倉庫の空気が凍る。

 サルヴァトーレは、机の端を掴んだ。


 ダメだ。

 まだだ。


 ここで動けば、すべてを取り逃がす。


 本炉の場所も。

 薬の製法も。

 教団を完全に潰す証拠も。


 ここで感情に任せて動くことは、最悪の選択だ。


 父なら、待った。

 祖父なら、動いた。


 自分は——


 サルヴァトーレは息を吸う。


 血の味が、喉の奥へ落ちた。


『ファルコーネ』


 アレッサンドロが言う。


『元チェネレの仲間として、見送ってやったらどうだ』


 しばらく無音のうち、カチャリという冷たい音が聞こえた。


 一瞬、すべての音が遠のいた。


 雨音も。

 無線の雑音も。

 部下たちの息遣いも。

 何もかもが遠くなる。


 代わりに聞こえたのは、溢れ落ちたように小さな澪の声だった。


『サルヴァトーレさん……』


 サルヴァトーレは目を開いた。


 そこに、先ほどまでの冷静さはなかった。


「……クソが」


 低く吐き捨てた瞬間、椅子を蹴り飛ばし、立ち上がった。


 背もたれが、床に叩きつけられて大きな音を立てる。


 部下たちが一斉に顔を上げる。


 サルヴァトーレは無線を掴んだ。


「突入する」


 それだけ告げる。


 返答を待たず、イヤフォンを外した。


 机の上に叩きつけられたそれが、乾いた音を立てる。


「ボス——」


 サルヴァトーレは返さない。


 ジャケットを翻し、倉庫の扉へ向かう。


 雨音が近づく。

 外へ出た瞬間、冷たい雨が頬を打った。


 けれど、もう何も感じなかった——


 *


 カチャリ、と撃鉄の起きる音がした。


「悪いな、嬢ちゃん」


 エンリコの声は、ひどく掠れていた。


 澪は、目の前に向けられた銃口を見つめる。


 冷たい黒い穴。

 その向こうで、エンリコが苦しそうに笑っていた。


「俺には、守らなきゃならない家族がいるんだ」


「エンリコさん……」


 澪は彼の目を見た。


 そこにあったのは、悪意ではなかった。

 後悔と恐怖。そして、もう引き返せないと知っている人間の覚悟だった。


「ごめんな」


 エンリコの指が、引き金にかかる。


 その瞬間だった。


 ——轟音。


 大聖堂の入り口の扉が、爆発とともに吹き飛んだ。


 石片と木片が飛び散り、白い煙が濁流のように室内へ流れ込み、誰かが悲鳴を上げた。


 澪は反射的に床に倒れこんだ。耳の奥が痺れる。けれど、その煙の向こうに現れた人影を見た瞬間、息が止まった。


 濡れた灰色のスーツ。翻るジャケット。


 片手に握られた拳銃。煙と雨の匂いの中から、サルヴァトーレが歩いてくる。


 その銀灰色の瞳は、冷たく澄みきっていた。


「……サルヴァトーレさん」


 声にならないほど掠れた音で、澪は呟いた。

 エンリコが弾かれたように振り向く。


「サルヴァトーレか……!」


 慌てて銃口をサルヴァトーレへ向ける。 ——だが、遅かった。


 サルヴァトーレの腕がわずかに上がる。銃声は一発。迷いのない、乾いた音だった。


 エンリコの身体が大きく揺れ、そのまま崩れ落ちる。


 澪は息を呑んだ。

 

 倒れたエンリコの胸ポケットから、一枚の写真が滑り落ちる。濡れた石床の上に落ちたそれには、笑顔の女性と、小さな女の子が写っていた。


「……」


 硝煙の中、サルヴァトーレの視線が、一瞬だけその写真を捉えた。けれど、足は止まらなかった。


 煙の中から飛び出してきた黒衣の男が、ナイフを抜く。しかし、すぐさま次の銃声が響き、男は声もなく倒れた。


 さらに一人。また一人。

 サルヴァトーレは歩みを止めない。一歩進むごとに、銃声が響く。


 その射撃はあまりにも正確で、無駄がなかった。

 怒りに任せて撃っているのではなく、恐怖に駆られているのでもない。ただ、そこにいる敵を、冷たく、確実に排除している。


 助けに来てくれた——その事実だけで、胸の奥が痛いほど熱くなる。

 それなのに、澪にはその姿がひどく眩しく、同時に、苦しいほど哀しく見えた。

 

 そのとき、背後で足音がした。その音に振り返るより早く、背後から腕を取られた。刃の冷たさが喉に触れる。


「動くな」


 マヒトの声だった。


 澪は息を止めた。首筋に当てられたナイフが、皮膚をかすかに押した。

 

 サルヴァトーレの足が止まり、視線が澪へ向く。


 たったそれだけで、澪は喉元に刃があることも忘れて、彼のもとに駆け寄りたいと思った。そんなことをすれば、すぐにでもこの刃が食い込むとわかっているのに。


 次の瞬間、サルヴァトーレは銃口を横へ向けた。


 銃撃を避けるために隠れていたのか、燭台がおかれた台の裏から現れたアレッサンドロの額に向けて、ぴたり狙いを定めた。


「……は、ははっ」


 アレッサンドロは額に汗を浮かべながら、それでも笑った。

 銃口は彼の命を捉えている。

 それなのに、男はまだ勝利を疑っていないようだった。


「交渉しよう、スピネッリ」


「命乞いにしては、下手すぎる」


 サルヴァトーレは冷たく言い放った。


「違うな。これは交渉だ」


 アレッサンドロは仰々しい指輪がいくつもはめられた指で、祭壇の奥を指した。そこには、赤い神火の紋章が刻まれた巨大な扉があった。


「『不老不死の薬』の作り方を知らないまま、私を殺してしまっていいのかな?」


 サルヴァトーレの銃口は、わずかにも揺れなかった。


「話してみろ」


「わかった、特別に教えてやる」


 アレッサンドロの目が、ぎらりと光る。


「薬を完成させる最後の鍵は、その女の血だ」


 澪の呼吸が止まった。


 マヒトの腕にも、わずかに力が入る。サルヴァトーレの目が、ほんのわずかに細くなった。


「……それで本当に完成する、と?」


「完成する」


 アレッサンドロは、喜びを隠しきれない声で言った。


「この女を使えば、完全な薬が完成する」


「……」


「考えてみろ、スピネッリ」


 アレッサンドロの声が熱を帯びていく。


「お前が百年生きればどうなる。二百年生きればどうなる」


 白い祭服の男は、両手を広げた。先ほどまで額に銃を向けられていた人間とは思えないほど、陶酔した表情だった。


「抗争はなくなる。権力争いもなくなる。後継者問題もなくなる。チェネレは永遠になるだろう」


 澪はサルヴァトーレを見た。


 彼は何も言わない。

 銃も下ろさない。

 ただ、じっとアレッサンドロを見ている。


「お前も理解しているはずだ。指導者が老い、死に、後継を巡って血が流れる。その愚かしさを」


 アレッサンドロの瞳に、狂気が灯る。


「この島どころか、世界を変える力がそこにある」


 声が低くなる。


「たかが小娘一人だ」


 澪の胸が、冷たく強張った。


「その命と引き換えに、永遠の秩序が手に入る」


 静寂が落ちた。


 遠く、地の底から響くような低い音がした。


 火山の唸りなのか。それとも自分の血の音なのか、澪には分からなかった。


 ——サルヴァトーレさん。


 再びその名前を呼ぼうとしたが喉が渇いて声にならなかった。


 無論、返事はない。


 サルヴァトーレは、アレッサンドロを見たままだった。


 その沈黙が怖かった。

 助けに来てくれたはずなのに。

 さっきまで、煙の中から現れた姿があんなにも頼もしく見えたのに。


 今は、その横顔が遠い。


 まるで、自分の声が届かない場所で、何かを計算しているようだった。


「そうだろう?」


 アレッサンドロの口元がゆっくりと吊り上がる。


「お前は賢い男だ。感情で動く愚か者ではない」


 澪の喉が詰まる。


「チェネレの頭領なら理解できるはずだ」


 違う。

 そうじゃない。


 そう言いたいのに、声が出なかった。


「それとも」


 アレッサンドロは甘く囁くように言った。


「ルチアーノと同じ失敗を繰り返すつもりか?」


 サルヴァトーレのこめかみが、ぴくりと動いた。


 澪の胸が嫌な音を立てる。


 その名を出さないで。そう思った。


 あの書斎で聞いた、サルヴァトーレの声が蘇る。


『祖父は、人に情をかけすぎる人でした——』


 それで大きな失敗をしたのだと。


 澪は首を横に振りたかった。


(違う。あれは失敗なんかじゃない)


 少なくとも、澪はその選択の先に生きているのだと。


 でも、サルヴァトーレは何も言わなかった。


 まるで天秤にかけているようだった。


 澪の命と——この島の未来を。


「……にわかには信じ難い話だな」


 ようやく、サルヴァトーレが口を開く。


 冷たい声。

 感情の見えない声だった。


 マヒトが顔を上げる。

 その目には、なぜか失望に近い色が浮かんでいた。


 アレッサンドロは勝利を確信したように笑う。


「ならば見せてやろう」


「薬の秘密を」


「その完成の瞬間を」


 長い沈黙。


 澪は、息をすることさえ忘れていた。


 サルヴァトーレの銃口は、まだアレッサンドロの額を捉えている。


 その指だけが、白くなるほど強く銃を握っていたことに澪は気づいた。


 信じていいのか。

 もう、信じてはいけないのか。


 胸の中で、ふたつの感情がぶつかり合う。


 やがて、サルヴァトーレが静かに言った。


「……なるほど」


 それだけで、澪の心臓が大きく跳ねた。


 固唾を飲み込んで見守るしかなかった。

 喉に突きつけられたナイフが冷たい。


 彼は澪の方を振り返らない。

 アレッサンドロだけを見ていた。


「いいでしょう」


 その声は、いつものサルヴァトーレのものだった。


 礼儀正しく、静かで、ひどく遠い。

 澪の顔から血の気が引いた。


「見せてください。その完成の瞬間を」


 サルヴァトーレは、ゆっくりと銃を下ろした。


 アレッサンドロが歓喜に顔を歪めた。


「賢明な判断だ!」


 その声が大聖堂の石壁に反響する。


「やはりお前は私を理解できる!」


 澪は声を出せなかった。


 今は喉に触れたナイフよりも、サルヴァトーレの方が怖かった。


 彼は何も言わない。

 何も説明しない。

 こちらを見ない。


 ただ、アレッサンドロの誘導に従うように、一歩横へ退いた。


「案内しよう」


 アレッサンドロは興奮した様子で、祭壇奥の扉へ向かって歩き出した。


 その背中を見つめながら、サルヴァトーレは一度だけ目を伏せた。


 次に顔を上げた時、その横顔からは何も読み取れなかった。


 助けに来てくれたはずの人が、また、硝子の向こう側へ去っていく。


 澪は、震える息を吸った。


 信じたい。

 信じたいのに。


 胸の奥で、小さな声が問い続けていた。


(本当に……)


 不老不死のために、私の命を差し出すのですか——


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