34話:硝煙
大聖堂の裏手にある古い倉庫は、雨音に包まれていた。
窓は塞がれ、灯りは最低限に落とされている。湿った石壁にはカビの匂いが染みつき、机の上には簡易の無線機と、いくつかの資料が広げられていた。
サルヴァトーレは椅子に腰を下ろし、片耳に小型のイヤフォンを入れていた。その奥から、澪の声が聞こえる。
『知りません』
かすかに震えている。
それでも、言葉ははっきりしていた。
『嘘はよくない』
アレッサンドロの猫撫で声が返る。
『本当に知りません』
サルヴァトーレは目を閉じた。
古書店——その言葉が出た瞬間、指先がわずかに動いた。
あの場所を、教団は狙っている。
ルチアーノが残した部屋。
レナの手紙が眠っていた場所。
忘れるべきだったと、自分に言い聞かせてきた場所。
けれど、今はそれを考えるべきではない。
サルヴァトーレはゆっくりと瞬きし、呼吸を整えた。
想定内だった。
教団が古書店を潰そうとすることも。
澪に場所を吐かせようとすることも。
すべて、予想の範囲内だった。
『ファルコーネ』
アレッサンドロがエンリコの名を呼ぶ。
『残念だが、あんたがあの場所に行ったことがあるのは分かっている』
その声に、倉庫の中の空気が一段冷えたような気がした。
控えていたファミリーの一人が、サルヴァトーレを見る。
サルヴァトーレは何も言わなかった。
ただ、無線機の側に置いた指先だけが、机の上を軽く叩いた。それだけで、部下たちは動揺を潜める。
エンリコの裏切りも想定はしていた。
いや、正確には、確信がなかった。判断を保留していた。そして、それはあまりに大きな誤算だった——
しかし、今はそれを考えるべき時ではない。
サルヴァトーレは目を伏せる。
感情は、後で処理すればいい。
今必要なのは情報だ。
本物の炉の場所。
薬の仕組み。
アレッサンドロがどこまで知っているのか。
澪が餌として機能するなら、それでいい。
生き残れば、それでいい。
生き残らなければ——それまでのこと。
そこまで考えて、サルヴァトーレはゆっくりと息を吐いた。
『マヒト』
アレッサンドロの声が聞こえた。
『吐かせなさい』
沈黙。
次の瞬間、乾いた音がイヤフォン越しに響いた。
肉をムチで打つ音。
『……あぁっ!』
澪の悲鳴が聞こえた。
僅かに、サルヴァトーレが息を止めた。
倉庫の中で、誰かが小さく息を呑む。
サルヴァトーレは手を上げた。
動くな。
「……待機」
低く告げる。
自分に向けて言ったのか、部下に向けて言ったのか分からなかった。
想定内だ。
痛みで吐かせる。
教団なら当然そうする。
今動けば、証拠も炉も逃す。
取り乱すな。
ここで動けば、すべてが無駄になる。
『言いなさい』
アレッサンドロの声。
『……知りません』
澪の声。
サルヴァトーレは拳を握った。
なぜだ。
なぜ、言わない。
古書店の場所など、今ここで守る必要はない。
あの場所を失っても、組織は立て直せる。
資料は惜しいが、すべてではない。
それよりも本炉や薬の情報を引き出す方が合理的だ。
澪なら分かるはずだ。
いや。
分からなくていい。
そういう判断をするのは、自分の役目だ。
だがこのままでは——
サルヴァトーレは、奥歯を噛みしめた。
『何を躊躇っている、マヒト……』
アレッサンドロの声が、わずかに苛立ちを帯びる。
『こうするのだ』
一瞬、妙な間があった。
次に聞こえたのは、金属が触れ合う小さな音。
そして、澪の浅い呼吸。
サルヴァトーレはイヤフォンを指で押さえた。
倉庫の灯りが、灰色の瞳に冷たく反射する。
『……ひっ、う、ぁ……』
声になりきらない苦痛が、イヤフォンの奥で震えた。
声の後ろで肉を焼くような音がした。
サルヴァトーレの唇に、痛みが走る。
気づけば強く噛んでいた。
口の中に、血の味が滲む。
「ボス」
部下の一人が低く呼ぶ。
サルヴァトーレは答えない。
視線だけで黙らせた。
これも想定内だ。
最初から、餌が無傷で戻るとは考えていなかった。
彼女が薬の鍵であるという証言は取れた。
炉の存在にも近づいている。
あと一歩だ。
あと一歩で、薬の核心に手が届く。
だから耐えろ。
耐えろ。
耐えろ——
『なぜ言わない』
アレッサンドロの声が、今度は低くなった。
『お前を捨てたスピネッリの隠れ家など、守って何になる』
サルヴァトーレの思考が静止した。
(そうだ、私は貴女を捨てたのだ……)
今更、何を焦っている。焦ったところでもう何も取り返すことなど出来ない。
倉庫の中で、雨音だけが響いている。
しばらく、何も聞こえなかった。
やがて、ひどく小さな声が、イヤフォンの奥からこぼれた。
『ひとつ……』
掠れていた。
痛みに耐えながら、澪が途切れ途切れに続けた。
『裏切らないこと……』
無線の向こうで、誰かが小さく息を詰めた。それがエンリコなのだと、なぜか分かった。
『ひとつ……借りは、返すこと……』
倉庫の中で、誰かが息を呑んだ。
『ひとつ……』
澪の呼吸が震える。
それでも、声は消えなかった。
『誇りを持つこと……』
アレッサンドロが、わずかに眉を動かした。
『くだらない。灰の掟か』
澪は答えなかった。
ただ、かすれた声で続けた。
『だって……』
一拍の間。
『あの人の、一番大切な場所だから……』
サルヴァトーレは動かなかった。
動けなかった。
『壊してほしくない……』
その瞬間——
何かが、胸の奥で静かに崩れた。
彼自身が切り捨てようとしていたものを、彼女だけが守ろうとしていた。
自分を餌にした男のために。
自分を切り捨てるかもしれない男のために。
あの古い書斎を。
あの、捨てるべきだった記憶を、守ろうとしていた。
「……」
サルヴァトーレはゆっくりと目を伏せた。
拳を握る。
爪が手のひらに食い込む。痛みはあった。だが、その痛みでさえ、足りなかった。
『別に』
アレッサンドロの声が、冷たく響いた。
『処刑は火口でなくてもいいのだぞ』
倉庫の空気が凍る。
サルヴァトーレは、机の端を掴んだ。
ダメだ。
まだだ。
ここで動けば、すべてを取り逃がす。
本炉の場所も。
薬の製法も。
教団を完全に潰す証拠も。
ここで感情に任せて動くことは、最悪の選択だ。
父なら、待った。
祖父なら、動いた。
自分は——
サルヴァトーレは息を吸う。
血の味が、喉の奥へ落ちた。
『ファルコーネ』
アレッサンドロが言う。
『元チェネレの仲間として、見送ってやったらどうだ』
しばらく無音のうち、カチャリという冷たい音が聞こえた。
一瞬、すべての音が遠のいた。
雨音も。
無線の雑音も。
部下たちの息遣いも。
何もかもが遠くなる。
代わりに聞こえたのは、溢れ落ちたように小さな澪の声だった。
『サルヴァトーレさん……』
サルヴァトーレは目を開いた。
そこに、先ほどまでの冷静さはなかった。
「……クソが」
低く吐き捨てた瞬間、椅子を蹴り飛ばし、立ち上がった。
背もたれが、床に叩きつけられて大きな音を立てる。
部下たちが一斉に顔を上げる。
サルヴァトーレは無線を掴んだ。
「突入する」
それだけ告げる。
返答を待たず、イヤフォンを外した。
机の上に叩きつけられたそれが、乾いた音を立てる。
「ボス——」
サルヴァトーレは返さない。
ジャケットを翻し、倉庫の扉へ向かう。
雨音が近づく。
外へ出た瞬間、冷たい雨が頬を打った。
けれど、もう何も感じなかった——
*
カチャリ、と撃鉄の起きる音がした。
「悪いな、嬢ちゃん」
エンリコの声は、ひどく掠れていた。
澪は、目の前に向けられた銃口を見つめる。
冷たい黒い穴。
その向こうで、エンリコが苦しそうに笑っていた。
「俺には、守らなきゃならない家族がいるんだ」
「エンリコさん……」
澪は彼の目を見た。
そこにあったのは、悪意ではなかった。
後悔と恐怖。そして、もう引き返せないと知っている人間の覚悟だった。
「ごめんな」
エンリコの指が、引き金にかかる。
その瞬間だった。
——轟音。
大聖堂の入り口の扉が、爆発とともに吹き飛んだ。
石片と木片が飛び散り、白い煙が濁流のように室内へ流れ込み、誰かが悲鳴を上げた。
澪は反射的に床に倒れこんだ。耳の奥が痺れる。けれど、その煙の向こうに現れた人影を見た瞬間、息が止まった。
濡れた灰色のスーツ。翻るジャケット。
片手に握られた拳銃。煙と雨の匂いの中から、サルヴァトーレが歩いてくる。
その銀灰色の瞳は、冷たく澄みきっていた。
「……サルヴァトーレさん」
声にならないほど掠れた音で、澪は呟いた。
エンリコが弾かれたように振り向く。
「サルヴァトーレか……!」
慌てて銃口をサルヴァトーレへ向ける。 ——だが、遅かった。
サルヴァトーレの腕がわずかに上がる。銃声は一発。迷いのない、乾いた音だった。
エンリコの身体が大きく揺れ、そのまま崩れ落ちる。
澪は息を呑んだ。
倒れたエンリコの胸ポケットから、一枚の写真が滑り落ちる。濡れた石床の上に落ちたそれには、笑顔の女性と、小さな女の子が写っていた。
「……」
硝煙の中、サルヴァトーレの視線が、一瞬だけその写真を捉えた。けれど、足は止まらなかった。
煙の中から飛び出してきた黒衣の男が、ナイフを抜く。しかし、すぐさま次の銃声が響き、男は声もなく倒れた。
さらに一人。また一人。
サルヴァトーレは歩みを止めない。一歩進むごとに、銃声が響く。
その射撃はあまりにも正確で、無駄がなかった。
怒りに任せて撃っているのではなく、恐怖に駆られているのでもない。ただ、そこにいる敵を、冷たく、確実に排除している。
助けに来てくれた——その事実だけで、胸の奥が痛いほど熱くなる。
それなのに、澪にはその姿がひどく眩しく、同時に、苦しいほど哀しく見えた。
そのとき、背後で足音がした。その音に振り返るより早く、背後から腕を取られた。刃の冷たさが喉に触れる。
「動くな」
マヒトの声だった。
澪は息を止めた。首筋に当てられたナイフが、皮膚をかすかに押した。
サルヴァトーレの足が止まり、視線が澪へ向く。
たったそれだけで、澪は喉元に刃があることも忘れて、彼のもとに駆け寄りたいと思った。そんなことをすれば、すぐにでもこの刃が食い込むとわかっているのに。
次の瞬間、サルヴァトーレは銃口を横へ向けた。
銃撃を避けるために隠れていたのか、燭台がおかれた台の裏から現れたアレッサンドロの額に向けて、ぴたり狙いを定めた。
「……は、ははっ」
アレッサンドロは額に汗を浮かべながら、それでも笑った。
銃口は彼の命を捉えている。
それなのに、男はまだ勝利を疑っていないようだった。
「交渉しよう、スピネッリ」
「命乞いにしては、下手すぎる」
サルヴァトーレは冷たく言い放った。
「違うな。これは交渉だ」
アレッサンドロは仰々しい指輪がいくつもはめられた指で、祭壇の奥を指した。そこには、赤い神火の紋章が刻まれた巨大な扉があった。
「『不老不死の薬』の作り方を知らないまま、私を殺してしまっていいのかな?」
サルヴァトーレの銃口は、わずかにも揺れなかった。
「話してみろ」
「わかった、特別に教えてやる」
アレッサンドロの目が、ぎらりと光る。
「薬を完成させる最後の鍵は、その女の血だ」
澪の呼吸が止まった。
マヒトの腕にも、わずかに力が入る。サルヴァトーレの目が、ほんのわずかに細くなった。
「……それで本当に完成する、と?」
「完成する」
アレッサンドロは、喜びを隠しきれない声で言った。
「この女を使えば、完全な薬が完成する」
「……」
「考えてみろ、スピネッリ」
アレッサンドロの声が熱を帯びていく。
「お前が百年生きればどうなる。二百年生きればどうなる」
白い祭服の男は、両手を広げた。先ほどまで額に銃を向けられていた人間とは思えないほど、陶酔した表情だった。
「抗争はなくなる。権力争いもなくなる。後継者問題もなくなる。チェネレは永遠になるだろう」
澪はサルヴァトーレを見た。
彼は何も言わない。
銃も下ろさない。
ただ、じっとアレッサンドロを見ている。
「お前も理解しているはずだ。指導者が老い、死に、後継を巡って血が流れる。その愚かしさを」
アレッサンドロの瞳に、狂気が灯る。
「この島どころか、世界を変える力がそこにある」
声が低くなる。
「たかが小娘一人だ」
澪の胸が、冷たく強張った。
「その命と引き換えに、永遠の秩序が手に入る」
静寂が落ちた。
遠く、地の底から響くような低い音がした。
火山の唸りなのか。それとも自分の血の音なのか、澪には分からなかった。
——サルヴァトーレさん。
再びその名前を呼ぼうとしたが喉が渇いて声にならなかった。
無論、返事はない。
サルヴァトーレは、アレッサンドロを見たままだった。
その沈黙が怖かった。
助けに来てくれたはずなのに。
さっきまで、煙の中から現れた姿があんなにも頼もしく見えたのに。
今は、その横顔が遠い。
まるで、自分の声が届かない場所で、何かを計算しているようだった。
「そうだろう?」
アレッサンドロの口元がゆっくりと吊り上がる。
「お前は賢い男だ。感情で動く愚か者ではない」
澪の喉が詰まる。
「チェネレの頭領なら理解できるはずだ」
違う。
そうじゃない。
そう言いたいのに、声が出なかった。
「それとも」
アレッサンドロは甘く囁くように言った。
「ルチアーノと同じ失敗を繰り返すつもりか?」
サルヴァトーレのこめかみが、ぴくりと動いた。
澪の胸が嫌な音を立てる。
その名を出さないで。そう思った。
あの書斎で聞いた、サルヴァトーレの声が蘇る。
『祖父は、人に情をかけすぎる人でした——』
それで大きな失敗をしたのだと。
澪は首を横に振りたかった。
(違う。あれは失敗なんかじゃない)
少なくとも、澪はその選択の先に生きているのだと。
でも、サルヴァトーレは何も言わなかった。
まるで天秤にかけているようだった。
澪の命と——この島の未来を。
「……にわかには信じ難い話だな」
ようやく、サルヴァトーレが口を開く。
冷たい声。
感情の見えない声だった。
マヒトが顔を上げる。
その目には、なぜか失望に近い色が浮かんでいた。
アレッサンドロは勝利を確信したように笑う。
「ならば見せてやろう」
「薬の秘密を」
「その完成の瞬間を」
長い沈黙。
澪は、息をすることさえ忘れていた。
サルヴァトーレの銃口は、まだアレッサンドロの額を捉えている。
その指だけが、白くなるほど強く銃を握っていたことに澪は気づいた。
信じていいのか。
もう、信じてはいけないのか。
胸の中で、ふたつの感情がぶつかり合う。
やがて、サルヴァトーレが静かに言った。
「……なるほど」
それだけで、澪の心臓が大きく跳ねた。
固唾を飲み込んで見守るしかなかった。
喉に突きつけられたナイフが冷たい。
彼は澪の方を振り返らない。
アレッサンドロだけを見ていた。
「いいでしょう」
その声は、いつものサルヴァトーレのものだった。
礼儀正しく、静かで、ひどく遠い。
澪の顔から血の気が引いた。
「見せてください。その完成の瞬間を」
サルヴァトーレは、ゆっくりと銃を下ろした。
アレッサンドロが歓喜に顔を歪めた。
「賢明な判断だ!」
その声が大聖堂の石壁に反響する。
「やはりお前は私を理解できる!」
澪は声を出せなかった。
今は喉に触れたナイフよりも、サルヴァトーレの方が怖かった。
彼は何も言わない。
何も説明しない。
こちらを見ない。
ただ、アレッサンドロの誘導に従うように、一歩横へ退いた。
「案内しよう」
アレッサンドロは興奮した様子で、祭壇奥の扉へ向かって歩き出した。
その背中を見つめながら、サルヴァトーレは一度だけ目を伏せた。
次に顔を上げた時、その横顔からは何も読み取れなかった。
助けに来てくれたはずの人が、また、硝子の向こう側へ去っていく。
澪は、震える息を吸った。
信じたい。
信じたいのに。
胸の奥で、小さな声が問い続けていた。
(本当に……)
不老不死のために、私の命を差し出すのですか——




