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ロッサ・ディ・マーレ 〜火山島に燻る魔女の罪〜  作者: 山城すな
第九章

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33話:取捨選択

 西地区へ入る頃には、雨はさらに強くなっていた。


 車輪が濡れた石畳を叩くたび、泥混じりの水が跳ねる。窓の外には、黒い火山岩で積まれた建物が並び、その奥に、白く巨大な尖塔がぼんやりと浮かんでいた。


 フィアンマ教団の大聖堂。


 島の西を見下ろすように建つその姿は、暗い雲の下でもなお、奇妙な威圧感を放っていた。


 澪は両手を握りしめた。


 隣に座るエンリコは、さっきから一言も話さない。


 いつもなら、やかましいくらいに口を開く人なのに。ネッロに文句を言い、アンナに怒られ、澪を見れば大袈裟な身振りで笑わせようとしてくる。


 けれど今、彼の横顔は石のように硬かった。


「エンリコさん」


 澪が声をかけても、彼は答えない。


 車が大聖堂の前で止まる。

 重たい扉が開いた瞬間、湿った雨の匂いに、香の甘い匂いが混じった。


 澪は促されるまま、車を降りる。


 大聖堂の入り口には、黒衣の神官たちが並んでいた。その最奥に、一人の男が立っている。


 白い祭服を纏った壮年の男だった。


 白髪混じりの髪は整えられ、雨の薄明かりの中で、まるで銀糸のように見えた。穏やかな顔立ち。深く落ち着いた眼差し。そこにいるだけで、周囲のざわめきが静まっていく。


 この人が——


 澪は喉を鳴らした。


 ——アレッサンドロ神火公。


 男は澪を見た。


 その瞬間、澪はなぜか背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 妙に若い肌は青白く、人のものでないように見えた。その目は穏やかなのに、人間らしい温もりはない。祈る者の目ではなく、何かもっと遠いところを見ている目だった。


「よくやったな、ファルコーネ」


 アレッサンドロが静かに言った。

 澪は訝しんだ。


「よくやった……?」


 エンリコが目を伏せた。

 その表情を見た瞬間、澪の胸が嫌な音を立てる。


「まさか……エンリコさんが……?」


「悪いな、嬢ちゃん」


 エンリコは、苦しげに笑った。笑おうとして、失敗したような顔だった。


「チェネレにも、救えないものがあるんだよ」


「そんな……どうして……」


 問いかけても、答えは返ってこなかった。もうエンリコは澪を見なかった。


 大聖堂の奥へ進むよう、背中を押される。


 その先に、マヒトがいた。


 黒衣の神官たちに混じって立つ彼は、以前よりもさらに顔色が悪く見えた。目の下には濃い影があり、左目の下のほくろだけが、妙に鮮明に見える。


 視線が合う。ほんの一瞬だった。


 けれどマヒトはすぐに目を逸らした。その仕草だけで、澪の胸がきしむ。


 何かを言いたかった。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。


 大聖堂の中は広かった。


 黒い火山岩の柱が高い天井へ伸び、祭壇の奥には、赤く輝く神火の紋章が掲げられている。壁沿いには無数の蝋燭が灯り、その炎が雨の薄闇の中でゆらめいていた。


 神官たちが膝をつき、信徒たちが息を潜めていた。


 アレッサンドロが祭壇の前へ進み出た。


「神火の子らよ」


 その声は低く、よく通った。

 大聖堂の石壁に反響し、まるで建物そのものが彼の言葉に同調しているようだった。


「恐れることはない。偉大なる神火は、今なお我らを見守っておられる」


 ざわめきが静まる。

 誰もがアレッサンドロを見ていた。


「だが、今、神火は怒りを宿しておられる。かつてこの島に災いをもたらした魔女の血が、再びこの地へ戻ったからだ」


 視線が一斉に澪に向けられる。


 恐怖。

 嫌悪。

 好奇。

 祈りに似た狂信。


 それらが混ざった目に囲まれ、澪は身動きが取れなくなった。


 アレッサンドロは、憐れむように澪を見た。


「魔女の血を引く哀れな娘よ。そなた自身に罪はないのかもしれない」


 その声は優しかった。優しすぎるほどだった。


「けれど血は覚えている。罪は血に刻まれる。先祖の魔女が神火に背いた罪を、そなたは贖わねばならない」


 信徒たちの間に、小さなどよめきが走る。


「裁きではない。これは浄化だ」


 アレッサンドロは両手を広げた。


「神火は奪うために燃えるのではない。迷える魂を、正しき姿へ還すために燃えるのだ」


 誰かが祈りの言葉を呟いた。


『神火よ、悪しきものを焼き尽くしたまえ——』


 それはすぐに隣へ伝わり、波のように大聖堂へ広がっていく。


 澪は唇を噛んだ。


 この場にいる人々は、本気で信じている。アレッサンドロの言葉を。


 自分が災いなのだと——魔女の血を持つ自分が、罰を受けるべき存在なのだと。


「下がりなさい」


 アレッサンドロが穏やかに命じた。


 神官たちが一斉に頭を下げる。信徒たちは名残惜しそうに澪を見ながらも、ゆっくりと聖堂を後にした。


 残ったのは、幹部らしき神官が数人。

 暗部の黒衣たち。

 マヒト。

 そして、エンリコだった。


 大聖堂の扉が閉まる。


 重たい音が響いた瞬間、空気が変わった。


 アレッサンドロは、先ほどまで祭壇の上で浮かべていた穏やかな微笑みを、そのまま顔に貼りつけていた。


 けれど、そこに神々しさはもうなかった。ただ、薄く湿った執着だけが残っていたようだ。


「お前がここに来るのを、どれほど待ちわびたことか」


 響きが変わった。

 先ほどまで人々へ向けられていた荘厳さはない。もっと低く、近く、耳元を撫でるようだった。


 アレッサンドロはゆっくりと澪へ歩み寄る。


 澪は一歩下がろうとした。しかし、背後にいた暗部の男に肩を押さえられる。


 アレッサンドロの指が、澪の手首に触れた。脈を確かめるように。あるいは、素材の鮮度を確かめるように。


「よく生きていた」


 ぞっとするほど優しい声だった。


「海の向こうで血を絶やさずに、よくぞ——」


 澪は思わず身を引こうとした。


 けれど、アレッサンドロの指は離れない。強く握られているわけではない。それなのに、逃げられない気がした。


「一体、どういうことなんですか」


 澪は震えそうになる腕を押さえた。


「私が魔女の子孫だからというだけで、殺すんですか」


 アレッサンドロは目を細めた。


「灰殻に捨てられた、可哀想な娘よ」


 その言い方に、澪の胸の奥がざらりと波立つ。


「それは正しくもあり、誤りでもある」


「どういう意味ですか」


「あの魔女の血を引く女だ。色々と調べていたのだろう?」


 穏やかな声だった。けれどその優しさは、濡れた布のように肌へまとわりついた。


「秘密には辿り着いたか」


 澪は息を吸う。

 怖い。

 けれど、ここで怯えて黙れば、何も分からないまま終わる。


「不老不死の薬と、関係があるんですね」


 アレッサンドロの口元が、ゆっくりと歪んだ。それは笑みだった。


「よく辿り着いたな」


 褒めるような声。子どもの出来を喜ぶ教師のようでいて、その目だけは嘲笑うように見開かれていた。


「スピネッリの入れ知恵のおかげか?」


 澪は首を横に振る。


「私は何も知りません。祖母からも、何も聞いていない」


「お前は何も知らなくていい」


 アレッサンドロは、楽しげに言った。


「お前自身の存在そのものが、最後の鍵になるのだから」


 澪の背筋が凍った。


「鍵……?」


「そうだ」


 アレッサンドロは、喉の奥で小さく笑う。


 信徒たちの前で見せた聖人の顔は、もうどこにもなかった。そこにいるのは、神火の奇跡に魅入られた男だった。


 澪は、アレッサンドロの余裕を見た。


 澪が逃げられないと確信している。自分の方がすべてを知っていると信じている。


 だからこそ、澪は踏み込んだ。


「神火精製装置の本物は、どこにあるんです」


 一瞬、周囲の空気が張り詰めた。


 マヒトが顔を伏せる。

 エンリコも、わずかに目を上げた。

 アレッサンドロだけが、楽しそうに微笑んでいた。


「ふむ」


 ゆっくりと澪の手首から指を離す。


「そう焦るな」


 その声は、奇妙な親しみすら感じさせる。


「今から連れて行ってやる」


 澪は息を呑む。やはり、本物の炉は別にある。


「だが、その前に」


 アレッサンドロは少し首を傾げた。


「スピネッリに見捨てられたのだろう」


 その言葉に、澪の唇が強張る。


「奴のねぐらを教えろ」


「……ねぐら?」


「古書店だ」


 アレッサンドロの目から、笑みが消えた。


「そこには、教団の信用を揺るがす書物が多すぎる」


 澪の首筋に不快な汗が伝った。


 サルヴァトーレの古書店。あの隠れ家。 ——あの人が捨てるべきだったと語った場所。


「知りません」


 迷いはなかった。

 アレッサンドロは静かに澪を見た。


「嘘はよくない」


「本当に知りません」


「ファルコーネ」


 アレッサンドロが名前を呼ぶ。エンリコの肩が、わずかに揺れた。


「残念だが、あんたがあの場所に行ったことは分かっている」


 澪は息を詰めた。


 エンリコが顔を伏せる。その横顔には、深い疲労と諦めが刻まれていた。


「教団による秩序と安寧のために、不要な火種は取り除かねばならない」


 アレッサンドロは、澪へ微笑みかける。


「さあ、教えなさい」


 大聖堂の外で、雷が低く鳴った。


 澪は震える指先を握りしめる。


 そして、もう一度だけ言った。


「知りません」


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