33話:取捨選択
西地区へ入る頃には、雨はさらに強くなっていた。
車輪が濡れた石畳を叩くたび、泥混じりの水が跳ねる。窓の外には、黒い火山岩で積まれた建物が並び、その奥に、白く巨大な尖塔がぼんやりと浮かんでいた。
フィアンマ教団の大聖堂。
島の西を見下ろすように建つその姿は、暗い雲の下でもなお、奇妙な威圧感を放っていた。
澪は両手を握りしめた。
隣に座るエンリコは、さっきから一言も話さない。
いつもなら、やかましいくらいに口を開く人なのに。ネッロに文句を言い、アンナに怒られ、澪を見れば大袈裟な身振りで笑わせようとしてくる。
けれど今、彼の横顔は石のように硬かった。
「エンリコさん」
澪が声をかけても、彼は答えない。
車が大聖堂の前で止まる。
重たい扉が開いた瞬間、湿った雨の匂いに、香の甘い匂いが混じった。
澪は促されるまま、車を降りる。
大聖堂の入り口には、黒衣の神官たちが並んでいた。その最奥に、一人の男が立っている。
白い祭服を纏った壮年の男だった。
白髪混じりの髪は整えられ、雨の薄明かりの中で、まるで銀糸のように見えた。穏やかな顔立ち。深く落ち着いた眼差し。そこにいるだけで、周囲のざわめきが静まっていく。
この人が——
澪は喉を鳴らした。
——アレッサンドロ神火公。
男は澪を見た。
その瞬間、澪はなぜか背筋に冷たいものが走るのを感じた。
妙に若い肌は青白く、人のものでないように見えた。その目は穏やかなのに、人間らしい温もりはない。祈る者の目ではなく、何かもっと遠いところを見ている目だった。
「よくやったな、ファルコーネ」
アレッサンドロが静かに言った。
澪は訝しんだ。
「よくやった……?」
エンリコが目を伏せた。
その表情を見た瞬間、澪の胸が嫌な音を立てる。
「まさか……エンリコさんが……?」
「悪いな、嬢ちゃん」
エンリコは、苦しげに笑った。笑おうとして、失敗したような顔だった。
「チェネレにも、救えないものがあるんだよ」
「そんな……どうして……」
問いかけても、答えは返ってこなかった。もうエンリコは澪を見なかった。
大聖堂の奥へ進むよう、背中を押される。
その先に、マヒトがいた。
黒衣の神官たちに混じって立つ彼は、以前よりもさらに顔色が悪く見えた。目の下には濃い影があり、左目の下のほくろだけが、妙に鮮明に見える。
視線が合う。ほんの一瞬だった。
けれどマヒトはすぐに目を逸らした。その仕草だけで、澪の胸がきしむ。
何かを言いたかった。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
大聖堂の中は広かった。
黒い火山岩の柱が高い天井へ伸び、祭壇の奥には、赤く輝く神火の紋章が掲げられている。壁沿いには無数の蝋燭が灯り、その炎が雨の薄闇の中でゆらめいていた。
神官たちが膝をつき、信徒たちが息を潜めていた。
アレッサンドロが祭壇の前へ進み出た。
「神火の子らよ」
その声は低く、よく通った。
大聖堂の石壁に反響し、まるで建物そのものが彼の言葉に同調しているようだった。
「恐れることはない。偉大なる神火は、今なお我らを見守っておられる」
ざわめきが静まる。
誰もがアレッサンドロを見ていた。
「だが、今、神火は怒りを宿しておられる。かつてこの島に災いをもたらした魔女の血が、再びこの地へ戻ったからだ」
視線が一斉に澪に向けられる。
恐怖。
嫌悪。
好奇。
祈りに似た狂信。
それらが混ざった目に囲まれ、澪は身動きが取れなくなった。
アレッサンドロは、憐れむように澪を見た。
「魔女の血を引く哀れな娘よ。そなた自身に罪はないのかもしれない」
その声は優しかった。優しすぎるほどだった。
「けれど血は覚えている。罪は血に刻まれる。先祖の魔女が神火に背いた罪を、そなたは贖わねばならない」
信徒たちの間に、小さなどよめきが走る。
「裁きではない。これは浄化だ」
アレッサンドロは両手を広げた。
「神火は奪うために燃えるのではない。迷える魂を、正しき姿へ還すために燃えるのだ」
誰かが祈りの言葉を呟いた。
『神火よ、悪しきものを焼き尽くしたまえ——』
それはすぐに隣へ伝わり、波のように大聖堂へ広がっていく。
澪は唇を噛んだ。
この場にいる人々は、本気で信じている。アレッサンドロの言葉を。
自分が災いなのだと——魔女の血を持つ自分が、罰を受けるべき存在なのだと。
「下がりなさい」
アレッサンドロが穏やかに命じた。
神官たちが一斉に頭を下げる。信徒たちは名残惜しそうに澪を見ながらも、ゆっくりと聖堂を後にした。
残ったのは、幹部らしき神官が数人。
暗部の黒衣たち。
マヒト。
そして、エンリコだった。
大聖堂の扉が閉まる。
重たい音が響いた瞬間、空気が変わった。
アレッサンドロは、先ほどまで祭壇の上で浮かべていた穏やかな微笑みを、そのまま顔に貼りつけていた。
けれど、そこに神々しさはもうなかった。ただ、薄く湿った執着だけが残っていたようだ。
「お前がここに来るのを、どれほど待ちわびたことか」
響きが変わった。
先ほどまで人々へ向けられていた荘厳さはない。もっと低く、近く、耳元を撫でるようだった。
アレッサンドロはゆっくりと澪へ歩み寄る。
澪は一歩下がろうとした。しかし、背後にいた暗部の男に肩を押さえられる。
アレッサンドロの指が、澪の手首に触れた。脈を確かめるように。あるいは、素材の鮮度を確かめるように。
「よく生きていた」
ぞっとするほど優しい声だった。
「海の向こうで血を絶やさずに、よくぞ——」
澪は思わず身を引こうとした。
けれど、アレッサンドロの指は離れない。強く握られているわけではない。それなのに、逃げられない気がした。
「一体、どういうことなんですか」
澪は震えそうになる腕を押さえた。
「私が魔女の子孫だからというだけで、殺すんですか」
アレッサンドロは目を細めた。
「灰殻に捨てられた、可哀想な娘よ」
その言い方に、澪の胸の奥がざらりと波立つ。
「それは正しくもあり、誤りでもある」
「どういう意味ですか」
「あの魔女の血を引く女だ。色々と調べていたのだろう?」
穏やかな声だった。けれどその優しさは、濡れた布のように肌へまとわりついた。
「秘密には辿り着いたか」
澪は息を吸う。
怖い。
けれど、ここで怯えて黙れば、何も分からないまま終わる。
「不老不死の薬と、関係があるんですね」
アレッサンドロの口元が、ゆっくりと歪んだ。それは笑みだった。
「よく辿り着いたな」
褒めるような声。子どもの出来を喜ぶ教師のようでいて、その目だけは嘲笑うように見開かれていた。
「スピネッリの入れ知恵のおかげか?」
澪は首を横に振る。
「私は何も知りません。祖母からも、何も聞いていない」
「お前は何も知らなくていい」
アレッサンドロは、楽しげに言った。
「お前自身の存在そのものが、最後の鍵になるのだから」
澪の背筋が凍った。
「鍵……?」
「そうだ」
アレッサンドロは、喉の奥で小さく笑う。
信徒たちの前で見せた聖人の顔は、もうどこにもなかった。そこにいるのは、神火の奇跡に魅入られた男だった。
澪は、アレッサンドロの余裕を見た。
澪が逃げられないと確信している。自分の方がすべてを知っていると信じている。
だからこそ、澪は踏み込んだ。
「神火精製装置の本物は、どこにあるんです」
一瞬、周囲の空気が張り詰めた。
マヒトが顔を伏せる。
エンリコも、わずかに目を上げた。
アレッサンドロだけが、楽しそうに微笑んでいた。
「ふむ」
ゆっくりと澪の手首から指を離す。
「そう焦るな」
その声は、奇妙な親しみすら感じさせる。
「今から連れて行ってやる」
澪は息を呑む。やはり、本物の炉は別にある。
「だが、その前に」
アレッサンドロは少し首を傾げた。
「スピネッリに見捨てられたのだろう」
その言葉に、澪の唇が強張る。
「奴のねぐらを教えろ」
「……ねぐら?」
「古書店だ」
アレッサンドロの目から、笑みが消えた。
「そこには、教団の信用を揺るがす書物が多すぎる」
澪の首筋に不快な汗が伝った。
サルヴァトーレの古書店。あの隠れ家。 ——あの人が捨てるべきだったと語った場所。
「知りません」
迷いはなかった。
アレッサンドロは静かに澪を見た。
「嘘はよくない」
「本当に知りません」
「ファルコーネ」
アレッサンドロが名前を呼ぶ。エンリコの肩が、わずかに揺れた。
「残念だが、あんたがあの場所に行ったことは分かっている」
澪は息を詰めた。
エンリコが顔を伏せる。その横顔には、深い疲労と諦めが刻まれていた。
「教団による秩序と安寧のために、不要な火種は取り除かねばならない」
アレッサンドロは、澪へ微笑みかける。
「さあ、教えなさい」
大聖堂の外で、雷が低く鳴った。
澪は震える指先を握りしめる。
そして、もう一度だけ言った。
「知りません」




