32話:冷たい雨
激しくなった雨音と重たい空気が、石壁の間を満たしていた。
円卓の周りには、チェネレの中核メンバーたちが集まっている。
一番古くからいる幹部が殺された。
その事実は、ただの訃報ではなかった。組織の内側まで何者かに踏み込まれたという証明であり、同時に、恐怖の火種でもあった。
「ロレンツォが殺された——もう限界だ。サルヴァトーレ」
白髪混じりの髪を撫で付けた男が、低く声を上げた。
その目には怒りがあり、同じだけの恐怖があった。
「このまま、あの女を匿い続ければ、島民からの支持を失う。チェネレは内側から崩れるぞ」
「彼女が幹部を殺したという証拠はありません」
サルヴァトーレは静かに答えた。
雨音の中でも、その声だけはよく通った。
「現場に残された血痕、侵入経路、死亡推定時刻。どれも不明瞭です。結論を急ぐべきではない」
「だが、あの女の部屋の前で人が死んだ!」
別の幹部が声を荒らげた。
「ロレンツォはあの女を教団に引き渡そうとしていた」
「すべて偶然だと言うつもりか?」
「偶然ではないでしょう」
サルヴァトーレは目を細めた。
「だからこそ、罠だと考えるべきです」
円卓に沈黙が落ちる。しかし、それは納得を意味する沈黙ではなかった。
神経質そうな幹部が、爪を噛むように唇を歪める。
「罠だろうが何だろうが、島の連中はそう見ない。教団はもう噂を流し始めている。魔女がチェネレに災いを呼んだと」
「噂で人を裁くのですか」
「組織を守るためならな!」
その声を合図にしたように、次々と不満が噴き出した。
「今こそ、あの女を教団に差し出すべきだ」
「あの女が犯人かどうかは関係ない。問題は、あの女がここにいることで皆が怯えているということだ」
「教団に攻め込まれる前に手を打たなければ、こちらがおしまいだ」
誰も止めなかった。
止められなかった。
その言葉が、ここにいる全員の恐怖を代弁していたからだ。
サルヴァトーレは低く、静かに問いかけた。
「……彼女を引き渡せば、教団が大人しく引き下がると?」
「少なくとも、島民への示しはつく」
「示し……と」
サルヴァトーレは小さく繰り返した。
そして、薄く笑った。
「彼女を渡したところで、教団はこちらが恐怖に屈したと見るでしょう」
幹部たちの表情が強張る。
サルヴァトーレは静かに顔を上げた。
「次に差し出せと言われるものは、港か、金か、ファミリーか——我々自身かもしれません」
誰も答えなかった。答えられなかった。
「それでも」
老練な男は絞り出すように言う。
「今ここで何もしなければ、ファミリーは割れる」
その言葉だけは、脅しではなかった。
事実だった。
疑心暗鬼はすでに広がっている。澪を庇えば、チェネレの内部が崩れる。澪を切れば、教団に道を開く。
どちらに転んでも、血は流れる——
「君は冷静さを失っている」
痩せた男が、鋭く言った。
「サルヴァトーレ。あの女に情を移したのか」
空気が凍った。
サルヴァトーレの指先が、ほんのわずかに動く。
「発言には気をつけてください」
声は穏やかだった。
「私はチェネレの頭領として判断しています」
「ならば頭領として決断しろ」
白髪混じりの男は引かなかった。
「君まで祖父と同じ過ちを繰り返すつもりか」
雨音が強くなる。
壁を叩く音が、低く部屋に響いた。
「情をかけた女のために、ファミリーを危険に晒す。スピネッリ家はまた同じ轍を踏むのか」
サルヴァトーレは静かに目を伏せた。左右の手の指を、ゆっくりと合わせていく。乱れた心を整えるように。
長い沈黙だった。
やがて、組んでいた指をほどく。
そして、静かに息を吐いた。
「……わかりました」
感情の読めない冷え切った声色。
「彼女を教団に引き渡します」
円卓を囲む面々が、安堵とも嫌悪ともつかない表情を浮かべた。
「……それでいい」
「これで示しがつくだろう」
「少なくとも内部は抑えられる」
しかし、まだサルヴァトーレは席を立たなかった。
円卓に、再び沈黙が落ちる。
全員の視線が彼に集まった。
灰色の瞳に、薄く冷たい光が宿る。そこに、先ほどまでの逡巡は見えなかった。
サルヴァトーレは、息をゆっくり吸い込むと、わずかに口角を上げてみせた。
「計画は、既に用意してあります」
*
この部屋に閉じ込められてから、一体どれほど時間が経ったのか分からなかった。
鉄扉の向こうでは、雨の音がずっと続いていた。
石壁を伝って響いてくるその音は、遠くの海鳴りにも似ていた。けれど耳を塞いでも、消えてはくれない。
澪は、膝の上で冷めきった食事を見下ろしていた。
アンナが持ってきてくれたものだ。
温かいうちに食べるようにと言われたのに、ほとんど手をつけられていない。
喉が詰まって、飲み込めなかった。
呆然と足元を眺めていると、扉の向こうで足音が止まった。鍵の開く音がする。
澪は顔を上げた。
重い扉が軋みながら開く。
そこに立っていたのは、ネッロだった。
「澪……」
いつもの明るさはなかった。
濡れた髪が額に張り付き、頬には雨粒か汗か分からない雫が伝っている。
その顔を見た瞬間、澪は椅子から立ち上がった。
「ネッロ!」
思わず駆け寄る。
助かった、と一瞬思った。けれど、ネッロの表情を見て、その期待はすぐに萎んだ。
彼は、澪の顔を見るなり、苦しそうに視線を逸らした。
「……あいつが、連れてこいって」
「あいつって」
聞かなくても分かっていた。けれど、確認せずにはいられなかった。
「サルヴァトーレさん?」
ネッロは小さく頷いた。その仕草だけで、胸の奥が冷えた。
「行くぞ」
差し出された手を、澪は見つめる。ネッロの手は、いつもより少し強張っていた。
けれど澪は、その手を取らなかった。自分の足で歩かなければいけない気がした。
「……うん」
廊下へ出ると、雨音が一層大きくなった。
石壁の間に湿った空気が満ちている。足元は冷たく、薄暗い灯りがところどころで揺れていた。
ネッロは何も言わず、澪の少し前を歩いた。その背中は大きいのに、今だけはひどく遠く見えた。
やがて、執務室の前に辿り着く。
扉は完全には閉まっていなかった。隙間から、低い声が漏れてくる。
澪は足を止めた。
ネッロも止まる。
中から聞こえたのは、サルヴァトーレの声だった。
「引き渡しを餌にして、教団の頭を誘い出します」
澪は息を呑んだ。
その声は、いつも通り静かだった。ただ静かすぎた。
「餌が生き残れば、それでいい。生き残らなければ、犠牲として処理するしかありません」
胸の奥で、何かが音もなく崩れた。
餌。
犠牲。
処理。
ひとつひとつの言葉が、冷たい刃のように身体の中へ沈んでいく。
隣でネッロが息を詰めたのが分かった。
「澪」
小さく呼ばれる。その声には、止めようとする響きがあった。けれど澪は、首を横に振った。
今、泣いたら終わりだと思った。震えたら、終わりだと思った。
自分がただの餌だと認めたら、本当にそれだけになってしまう。
澪は扉に手をかけた。勢いよく押し開けると、重たい音が、会議室に響く。
円卓を囲む幹部たちの視線が、一斉にこちらへ向いた。
サルヴァトーレも、顔を上げた。
灰色の瞳が、澪を捉える。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ、その奥に何かが揺れたように見えた。
けれど次の瞬間、そこにあったのは、完璧に整えられた、チェネレの頭領の顔だった。
澪は拳を強く握った。
「待ってください」
声が震えなかったことに、自分でも驚いた。
「教団に私を引き渡すことは理解しました」
室内がざわめく。ネッロが後ろで息を呑んだ。
「ですが」
澪はサルヴァトーレをまっすぐ見た。
見返してこないかもしれないと思った。けれど彼は、静かにこちらを見ていた。
「せっかくの切り札なら、最後まで有効に使った方がいい」
唇の内側を噛む。痛みで、どうにか立っていられた。
「そうですよね? サルヴァトーレさん」
円卓に沈黙が落ちた。幹部たちの視線が、サルヴァトーレへ向かう。
サルヴァトーレは何も言わなかった。ただ、澪を見ている。
澪はゆっくりと左手を上げた。
左手の中指——銀色のシグネットリングが、鈍い灯りを受けて光る。
「これ、最後までちゃんと使ってくださいね」
幹部の一人が眉をひそめる。
「何の話だ」
澪は視線をサルヴァトーレから逸らさずに続ける。
「盗聴器、ですよね」
サルヴァトーレの片眉が、わずかに上がった。初めて見る、小さな反応だった。
「……いつから?」
穏やかな声だった。
けれど、その奥にわずかな驚きがあるのを、澪は聞き逃さなかった。
「何度か、おかしいと思うことはありました」
澪はリングを見下ろした。
「でも、一番最初に感じた大きな違和感はマヒトくんの名前をあなたが呼んだ時です」
あの時のことを思い出す。
あの路地で、澪がマヒトの名前を呼んだのは、アンナが来る前だった。アンナが報告できるはずのない名前を、サルヴァトーレは後日、当たり前のように口にした。
澪は顔を上げる。
「ネッロを助けに行くときも、あなたは私の左手を見ました。指輪があるかを確かめるように」
サルヴァトーレはしばらく黙っていた。そして、わずかに目を細める。
「随分と聡くなられたようだ」
その声は柔らかかった。しかし、そこに温度はなかった。
「おかげさまで」
澪の胸がちくりと痛む。それでも、笑った。
「だから、最後までちゃんと聞いていてください」
笑えたのかどうかは分からなかった。
ネッロが何か言おうと一歩前に出た。
「澪、もういい」
澪は片手を軽く上げて、それを制した。これ以上、ネッロを巻き込みたくなかった。
ネッロは悔しそうに唇を噛み、拳を握る。
澪はもう一度、サルヴァトーレを見た。
「どうせなら、薬の情報を引き出すための餌として使ってください」
雨音が、強くなる。石壁を叩く音だけが、やけに大きく聞こえた。
「教団は私を欲しがっているんですよね。だったら、きっと喋ります。私が何なのか。グラツィアが何を残したのか。神の炉で、何をしようとしているのか」
言葉を重ねるたびに、喉の奥が痛んだ。でも止まれなかった。
「使えるものは、使い切ってから切り捨てた方が良いかと」
自分で言って、自分で傷ついた。
それでも、澪は顔を上げたままでいた。
「そうでしょう?」
——サルヴァトーレさん。
最後の名だけは、声にならなかった。
サルヴァトーレは澪を見ていた。
その灰色の瞳は冷たく、静かだった。何を考えているのか、もう分からない。
昨日までなら、あの書斎でなら。
少しだけ、分かる気がしたのに。
「……ご協力、感謝します」
サルヴァトーレは静かに言った。
「神坂澪さん」
胸の奥に、小さな棘が刺さった。
いつもより少しだけ遠い呼び方。それだけで、硝子の向こうへ押し戻されたような気がした。
澪は何も言わなかった。言えば、声が震えると思った。
サルヴァトーレは、もう澪の方を見ていなかった。
「引き渡しの時刻を早めます。準備を」
幹部たちがざわめきながら動き出す。
ネッロだけが、その場に残っていた。
「トト」
怒りを押し殺した、獣の唸りに似た声。サルヴァトーレは振り返らない。
「おい」
ネッロは一歩で距離を詰め、その襟首を掴んだ。
「こんな作戦、許さねえ」
「ネッロ、やめて!」
澪が制止するも、ネッロは聞かなかった。
「貴方には、それを決める権利はない」
サルヴァトーレは表情を変えない。
「なんだと……?」
ネッロの拳が震える。握りしめた手が振り上がる。
その瞬間、傷が開いたのか、ネッロの身体がわずかに揺れた。
後ろに控えていた男たちが、一斉に腕を取る。数人がかりで床へ押さえつけても、ネッロは、なお暴れようとした。
「この男を閉じ込めておきなさい」
サルヴァトーレはジャケットの襟を直しながら、淡々と命じた。
「……っ!!」
ネッロは悔しげに歯噛みした。
それでもサルヴァトーレは、それ以上何も言わなかった。
澪はゆっくりと息を吸った。
雨はまだ止まない。
重たい音が、石壁の向こうでいつまでも鳴り続けていた。




