31話:鉄の扉
「ほんとに、なんでもなかったのか?」
古書店からの帰り道。今度は地下通路ではなく、玄関から出た。
道順を覚えようと周囲を見回していると、ネッロが悪戯っぽい顔で覗き込んできた。
「うん……なんにもなかったよ」
澪はぎこちなく笑った。
「ふーん……」
ネッロは疑わしそうに目を細める。
いつのまにか、空には厚い雲がかかっていた。湿気をはらんだ風が肌にまとわりつく。珍しく雨が降り出しそうだった。
「……ねぇ——」
澪が声をかけようとした、その時。
「ネッロさん!」
路地の角から、チェネレの若い男が飛び出してきた。
顔は真っ青で、額には汗が滲んでいる。息を荒げながら、ネッロの腕を掴んで耳元に何かを囁いた。
ネッロの表情が鋭く変わる。
「……なんだと!?」
男の胸ぐらを掴んで揺らす。
「すぐトトにも連絡しろ!」
返事もせず、ネッロは振り払うように駆け出した。
「澪、走るぞ!」
「ちょ、ちょっと、どうしたの!?」
返事を待たずに駆け出すネッロの背を追って、澪も走り出した。
石畳を叩く靴音が頭の中に響いて、息が乱れる。足がもつれそうになりながらも、必死でその背を追った。
やがて、屋敷の門をくぐる。中は慌ただしい声で溢れていた。
「一体何が……」
問いかける声は、自分でもわかるほどかすれていた。
辿り着いた廊下の先。
澪の部屋の前で、ネッロが立ち止まっている。
視線の先を追った瞬間——
部屋の壁と床にべったりと広がる赤黒い染み。湿った石造りの廊下に、生臭い匂いが立ち上ってきた。
「……っ」
鉄を舐めたような、不快な匂いが鼻を突く。喉が反射的にひきつり、吐き気がこみ上げる。胃の奥がきゅっと縮んで、思わず壁に手をついた。
床には、血溜まりが光を吸い込み、じわりと広がっている。
(うそ……こんな……)
眩暈で足元が揺れる。
視界の端が暗くなり、鼓動の音だけが耳を打ち続けていた。
「……あっちにいってろ」
低く短い声。ネッロが振り返りもせずに言い残した。
その言葉を最後に、視界がゆらいだ。
血の匂いがまとわりつき、喉の奥がひりつく。耳鳴りがして、世界の輪郭がにじんでいく。
——気がつくと、澪は広間のソファに座っていた。
どうやってここまで来たのか、記憶が曖昧だ。ただ両手が冷たく、震えを抑えようと膝の上で握りしめている。
ざわめきが周囲を満たしていた。
不思議と、断片的な言葉だけがやけに鮮明に耳に届く。
「……幹部が……殺されたらしい」
「彼女の部屋の前で血を見たって」
「やっぱり魔女の……」
「本当だったのかもしれない」
誰の声か分からない。
ただ、ひとつひとつが澪の頭に焼きつく。鼓動と一緒に、胸の奥に沈んでいく。
(……私……?)
息が詰まり、背筋が冷えていく。
その場に座っているだけで、まるで見えない縄で縛られているようだった。
声の主は誰なのか分からない。ただ、言葉のひとつひとつが矢のように背中へ突き刺さる。
(……私のことを疑ってる……)
息が浅くなる。胸の奥が、石で押し潰されるように苦しい。
気づけば指先が震えていて、無意識に自分の腕を抱きしめていた。
思わず、すがるような気持ちでサルヴァトーレを探す。
廊下の先、幹部と短く言葉を交わす姿を見つけた。
こちらへ向きかけたように見えた。けれどすぐに、幹部へ視線を戻す。
(ダメだ、今は忙しい……)
ネッロも怒鳴り声を飛ばし、部下を引き連れて走り去っていく。
(……誰にも頼れない……)
目の端で、また誰かの視線を感じた。その視線を確かめる勇気がなくて、俯いた。
喉が乾く。呼吸が乱れる。
(……怖い……)
震える指先をぎゅっと握りしめる。
胸の奥に、針のような痛み。
そこから先のことはよく思い出せない。
気がついた時には、ファミリーの男たちに囲まれていた。誰かが腕を取る。抵抗しようとしても、力が入らない。
「来い」
連れて行かれた先が目に入った瞬間、澪の足が止まった。
——あの鉄扉だった。
「疑いが晴れるまでここにいろ。ボスの命令だ」
若い男が冷たく言い放った。
「私じゃありません……!!」
鉄の扉が閉められる。
部屋の中は小さいランプが頼りなく灯っているだけで、ひどく薄暗い。そこに木の椅子だけがポツンと置かれている。
よく見ると床と壁の模様だと思ったものは古く黒ずんだ血の跡だった。部屋中のあちこちについている。
澪は震えた。
トニオのことを思い出す。彼もここで粛清されたのだろうか。
彼だけではない、何十年も前からここで同じように裏切り者たちが苦しみながら命を落とした場所なのだろう。
寒くもないはずなのに、しんとした空気が骨の奥まで冷やす。
澪は、ただうずくまるようにして椅子に力無く座り込んだ。
どのくらいの時が経ったのか——
窓もない部屋で時間感覚もなくなった頃、扉の小窓が開いて声がかかった。
「澪、生きてるかい?食事だよ」
「アンナさん!!」
聞き慣れた声に思わず小窓に駆け寄る。
差し出された暖かい食事を受け取ると、その先には痛ましそうなアンナの顔が見えた。
「ネッロがあんたを傷つけたら殺すって暴れてたよ」
「アンナさん、私、やってないです!」
澪は縋り付くようにアンナに訴えた。
「亡くなったのが誰かも知らないのに……」
「わかってるよ」
アンナは静かに首を振った。
「けど、アタシにはどうすることもできない」
「そんな……」
「それ、温かいうちに食べるんだよ」
アンナは悲しそうな目をしたまま、小窓の扉を閉めた。




