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ロッサ・ディ・マーレ 〜火山島に燻る魔女の罪〜  作者: 山城すな
第八章

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30話:隠れ家

 店内に足を踏み入れた澪は、そっと扉を閉めた。


「すみませーん」


 恐る恐る声をかけてみたが、返事はない。


「……誰もいない、のかな?」


 本棚の隙間を縫うように、細い光が差し込んでいる。その中を埃がふわふわと舞っているだけだ。


 カウンターの奥にも、誰の姿もなかった。躊躇いが胸を過ぎる。


 ぐるりと周りを見渡すと、奥の扉——書斎へと続く古びた木の扉が、わずかに開いているのに気づいた。


(……もしかして)


 迷いながらも、澪はそっと歩を進める。

 書棚の迷路を抜け、扉の向こうを覗いたその先——淡い光の中、サルヴァトーレが一人、ソファに座っていた。


 その姿は珍しくジャケットを脱いだベスト姿だった。


 肩に革のベルトストラップが走っている。脇にはホルスターが見えた。


 テーブルには布の上に並べられた、何かの部品。


(拳銃だ……)


 何かの映画でこんなシーンを見たことを澪は思い出した。


 サルヴァトーレは、ばらばらにした部品を丁寧に布で磨いていた。窓からさしこむ西日が、その髪と肩を淡く照らしている。いつもより少しだけ煙たく、ほのかに甘い香りが部屋に漂っている。


 部屋の中に目を滑らせると、壁際に古い模型や見慣れないアンティークが並んでいた。


 澪は、息を呑んだ。まるで時間の止まったような風景だった。


(……いつも、誰もいない場所では、こんなふうに過ごしているのかな)


 そう思った瞬間、足元の床板がきしんだ。その音に、サルヴァトーレが振り返った。


「……澪さん?」


「すみません!執務室の掃除をしていたら秘密の通路を見つけてしまって」


 慌てて謝る。秘密の隠れ家だ。澪が知るべき場所ではなかったのだと思い出し、焦る。


 しかしサルヴァトーレは珍しく額に指を当てて、ため息をついた。


「私としたことが不用心でしたね」


「見つかったのが、貴女だったのは不幸中の幸いでしょう」


 サルヴァトーレは困ったように眉尻を下げて微笑んだ。


「あの、実は調査で生物学の本を探していて……」


 本来の目的を伝えた。するとサルヴァトーレは少し考えてから答える。


「その分類の本は店には出ていませんので、バックヤードを見てみる必要があります」


「もう少しで終わるので、そちらに座ってお待ちください」


 部屋に招き入れられると、澪の胸は軽くなった。


 書斎に一歩足を踏み入れた瞬間、澪は、そこだけ空気の質が違う気がした。


 厚みのある木の書棚。煤けた暖炉。そして、大きな古い飛行機や船の模型が天井から吊るされている。

 奥の机には、インク瓶と整然と並んだ万年筆——どれも長年の手入れが感じられるものばかりだった。


 サルヴァトーレの目線に促されるまま、澪は奥のソファへ座った。


 そのまま、書斎の机で、しばらく拳銃の部品を磨いているサルヴァトーレを見ていた。


 しばらくして、どうしても気になってしまい澪は口を開いた。


「あの……飛行機、お好きなんですか?」


「ああ、この書斎は祖父のもので——」


 そこまで口にして、サルヴァトーレの言葉が一瞬止まった。が、すぐに言葉を続けた。


「——私のものではありません」


 澪は書斎の装飾を夢見心地で眺めながら続けた。


「お祖父さん、素敵なご趣味だったんですね。この書斎、すごく雰囲気があって好きだな……」


「……」


 振り向くとサルヴァトーレが澪を見て、少しだけ目を見開いていた。


 澪はまた変なことを言ってしまったかと思い首を傾げた。


「古いものばかりですから……そのように感じるのかもしれませんね」


 そういって、手元の部品を磨く作業に戻っていった。分解された部品が布の上に整然と並べられている。


 部品を磨き、油を差す。

 一切の無駄がない動作だった。まるで時計職人のように正確で美しい。


「ご自身で整備されるんですね」


「ええ」


 サルヴァトーレは視線を上げない。


「自分の命を守るものですから」


 確かに、と澪は感心した。


「ずっとそうされていたんですか?」


「いえ」


 そこでほんの一瞬だけ。手が止まった。


「私が十五くらいの時の話です」


 再び部品を磨き始めた。


「当時は他人に任せていました」


 淡々と話を続けた。


「ある日、その者が私の銃に細工をしまして」


「肝心な場面で弾が出なかったのです」


 澪は手で口元を押さえた。


「死にかけました」


 まるで夕食の話でもしているような何気ない口調だった。


「それ以来、必ず自分で行っています」


「……それは、大変だったんですね」


「当時は毎日のように命を狙われていましたから」


 さらりと言った。


「今の方がまだ平穏です」


 サルヴァトーレは自嘲するように口角を少しだけ上げたが、澪は言葉を失った。


 気付けば拳銃は組み上がっていた。

 黒い金属が静かに光を反射している。


 ——美しい。


 そんな言葉が自然と浮かんだ。


「綺麗ですね」


 サルヴァトーレが顔を上げる。


「綺麗?」


「あ……」


 澪は慌てた。


「変ですよね」


 ごまかすように、少し笑ってみた。


「人を傷つけるための道具なのに」


 視線を落とす。


「でも……」


 黒い銃身が光を映していた。


「怖いのに綺麗で」


 澪はこの感覚に合う適切な言葉を探した。


「少しだけ悲しい気がします」


 サルヴァトーレの手が止まる。しばらく言葉を失ったように澪を見ていた。


「銃を持ったことは?」


「ありません」


 澪は首を振る。


「というより、以前お願いした時に断られましたよね」


 サルヴァトーレは小さく笑った。


「あの時はそうでしたね。今も銃を持ちたいと?」


 澪は静かに考え、それから首を横に振った。


「遠慮しておきます」


 持ったところで、自分はネッロにはなれないし、サルヴァトーレにもなれない。


「そうですか」


 少し意外そうな表情を浮かべる。そして柔らかく目を細めた。


「貴女の武器は銃ではないのでしょうね」


 いつもと変わらない姿のはずなのに、なぜか柔らかい雰囲気を纏っているように感じられた。


「……この部屋、落ち着きますね。なんだか、時間が止まってるみたい」


 澪は、独り言のように呟いた。


 サルヴァトーレは、組み終えた銃を手の中で静かに確かめた。


「……私は、考え事をするときに、よくここに来るのです。会ったこともない祖父が残したこの部屋で、静かに……」


 澪は、サルヴァトーレの語る言葉に、静かに耳を傾けた。


「幼い頃、偶然この部屋を見つけてしまったのです」


 組み上げた銃を脇のホルスターに戻しながら、サルヴァトーレは続けた。


「祖父は、人に情をかけすぎる人だったそうです。それで大きな失敗をした。父は、祖父を弱い人間だと……蔑んでいました」


 静かな銀灰色の瞳が、少しだけ揺れる。


「この部屋に憧れているとは言えなかった」


 そう言った後、口元にわずかに自嘲の色を浮かべた。


「事実、父は冷徹に組織を立て直しました。私もそれに従った。情を捨て、常に合理的であれ、冷徹であれ、と——」


窓から差し込む光が古びた絨毯に落ちている。サルヴァトーレはその光に視線を向けた。


「兄弟が……次々と失われ、私が頭領となると決まったときに……」


 そこで口をつぐむ。僅かな逡巡の後、吐き出すように言った。


「この部屋も、記憶も、すべて忘れるべきだったのです」


 淡々と語るその横顔に、ほんの微かな痛みが滲んでいるのがわかった。


 ——澪は思わず首を振った。


「捨てないでください。……こんなに素敵な場所を」


 サルヴァトーレは驚いたように顔を上げた。澪は彼を真っ直ぐに見つめた。


 ふ、と一瞬だけ、瞳が優しく穏やかに細まった。


 それは澪が彼に会って以来、初めて見る柔らかな微笑みだった。


(……今、笑った……)


 刹那、澪はその瞳にあの家族写真に写っていた少年の面影を見た。兄弟の死に一晩中泣いていた、繊細で純粋な少年の面影——


 それほどまでに、この部屋は彼にとって大切な場所なのだと気付く。


 しかし、その瞳は、またすぐに何事もなかったかのように静かな灰色に戻った。


「……余計なことを話しすぎたようです」


 サルヴァトーレは目を伏せ、ふっと小さく、吐息を漏らした。


「いえ、話していただけて嬉しかったです」


(少しでも、心が近づいたみたいで……)


 澪が、光に透けるその伏せられた長いまつ毛に見惚れていると、再び視線が絡んだ。


 胸の奥が、不意に熱くなる。


 慌てて目を逸らし、空気を誤魔化すように近くの家具へ歩み寄った。


「そうだ! これ……すごく凝った作りのチェストですね。こんなの初めて見ました」


 蔦模様の中に、小さな花の彫刻があった。その作りに感心し、表面に指を滑らせた。


「古いのでお気をつけて。棘が立っているかもしれませんよ」


 サルヴァトーレが穏やかに咎めたと同時に、澪の中指で触れた小さな花がわずかに沈んだ。


——かちり。


 側面の飾り板が、ほんの少し浮いた。


「……あれ?」


 澪は驚いて覗き込み、小さな隙間に気づいた。


(……隠し棚……?)


 サルヴァトーレの表情が一瞬だけ鋭く変わる。


 恐る恐る板の端に指をかけて横へ滑らせると、薄い木板が音もなく開いた。


 中には——古びた封筒。


 サルヴァトーレも近寄ってきて、目を見張る。


 澪がそっと封を開くと、そこには、黄ばんだ便箋が一枚、丁寧に畳まれて入っていた。


 二人で覗き込む。


 その手紙には震えるような筆跡で、こう記されていた。


『——親愛なるルチアーノへ


 グラツィアの娘である私を、教団の手から逃がしてくれてありがとうございます。


 あの日、私は母の机に残されていた小さな赤い石を握りしめて、島を出ました。

 それを見るたびに、母を、島を、そして貴方を思い出します。


 島を出る前に、最後に一度だけお会いしたかった。

 けれど、それはあなたを困らせるだけですね。


 あなたには家族があり、守るべきファミリーがある。


 どうか、あなたと、あなたの大切な人たちが無事でありますように。


 これが最後の手紙です。


 レナ・アルヴィーティ

 改め、礼奈——』


 読み進めるうちに、澪の指先が微かに震えた。この筆跡はあまりに見慣れたものだった。


「……これは……」


 そして、最後の見慣れた名前を見て確信した。


「礼奈って、おばあちゃん……」


 サルヴァトーレも、静かに言葉を失っていた。


「……」


「……火山に葬られたグラツィアは……おばあちゃんの、お母さんなの……?」


 サルヴァトーレが、ゆっくりと頷き、言葉を補う。


「……今までの情報からして、そういうことになりますね」


 澪は目を見開いた。


 自分の中に、この島の血が流れている。その事実が、遅れて胸の奥へ沈んでいった。


 澪の祖母が遺した言葉。そして祖母を逃がした、ルチアーノ——サルヴァトーレの祖父。


 澪とサルヴァトーレの間に、目に見えない糸が一本、静かに張られていた。 


 澪は胸の赤い石のペンダントに触れた。祖母がこれを大切に、肌身離さずつけていた意味が、今ようやくわかった。


「おばあちゃんはこうなるってわかってたの?」


 封筒を手にしたまま、サルヴァトーレはしばし、じっと視線を落とした。


 彼は眼鏡を指で押さえ直した。


 次に、指先でそっと便箋を畳み直し、机の上で、きっちりと四角く整える。


 まるで、心の中のざわめきを、ひとつひとつ封じ込めるような仕草だった。


 澪は、そっと息を飲んだ。


 目の前のサルヴァトーレは、何も語らない。ただ、丁寧すぎるほど静かに、手紙を元の箱へと仕舞った。


(今、この人は——)


 開きかけた心を、必死に、誰にも悟らせないように封じている。


 そんな気がしてならなかった。


 サルヴァトーレは、もう一度だけ手元を整え、そして、澪に薄く微笑みかけた。


 けれど、その灰色の瞳の向こうにある孤独を、ほんの少しだけ、見てしまった気がした。その孤独が、静かに胸を締め付ける。


(サルヴァトーレさん……)


 澪も祖母が仕組んだかのようなこの巡り合わせに、戸惑いを覚えずにはいられなかった。


 やり場のない空気に、何か言おうと澪が口を開きかけた時だった。


 乾いた鈴の音とともに足音がした。扉が開き、ネッロが顔を出した。


「澪!ここにいたのか!?探したんだからな——ん?」


 ネッロが足を止め、澪とサルヴァトーレを交互に見た。その距離に、何かを感じ取ったように目を細める。


「なんか、もしかして良い感じだった!?こりゃ失礼……」


 澪は顔が熱くなるのを感じた。

 だが、サルヴァトーレは笑わずに短く釘を刺した。


「ネッロ」


 静かな声だった。


「……トト?」


「澪さんを部屋まで送ってください」


 そして澪に目を向けないまま言った。


「生物学の書籍は、後ほど探して届けさせます。今日はもう、戻ってください」


 そう言うと、背もたれにかけてあったジャケットを羽織った。


 いつもの表情に、きちんと羽織られたジャケット。完璧で、隙のない、チェネレの頭領だ。


 もうサルヴァトーレは、澪の方を見ていなかった。


 その瞬間、さっきまで確かに近くにいたはずの人が、硝子一枚の向こう側へ戻ってしまったのだと、悟った。


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