30話:隠れ家
店内に足を踏み入れた澪は、そっと扉を閉めた。
「すみませーん」
恐る恐る声をかけてみたが、返事はない。
「……誰もいない、のかな?」
本棚の隙間を縫うように、細い光が差し込んでいる。その中を埃がふわふわと舞っているだけだ。
カウンターの奥にも、誰の姿もなかった。躊躇いが胸を過ぎる。
ぐるりと周りを見渡すと、奥の扉——書斎へと続く古びた木の扉が、わずかに開いているのに気づいた。
(……もしかして)
迷いながらも、澪はそっと歩を進める。
書棚の迷路を抜け、扉の向こうを覗いたその先——淡い光の中、サルヴァトーレが一人、ソファに座っていた。
その姿は珍しくジャケットを脱いだベスト姿だった。
肩に革のベルトストラップが走っている。脇にはホルスターが見えた。
テーブルには布の上に並べられた、何かの部品。
(拳銃だ……)
何かの映画でこんなシーンを見たことを澪は思い出した。
サルヴァトーレは、ばらばらにした部品を丁寧に布で磨いていた。窓からさしこむ西日が、その髪と肩を淡く照らしている。いつもより少しだけ煙たく、ほのかに甘い香りが部屋に漂っている。
部屋の中に目を滑らせると、壁際に古い模型や見慣れないアンティークが並んでいた。
澪は、息を呑んだ。まるで時間の止まったような風景だった。
(……いつも、誰もいない場所では、こんなふうに過ごしているのかな)
そう思った瞬間、足元の床板がきしんだ。その音に、サルヴァトーレが振り返った。
「……澪さん?」
「すみません!執務室の掃除をしていたら秘密の通路を見つけてしまって」
慌てて謝る。秘密の隠れ家だ。澪が知るべき場所ではなかったのだと思い出し、焦る。
しかしサルヴァトーレは珍しく額に指を当てて、ため息をついた。
「私としたことが不用心でしたね」
「見つかったのが、貴女だったのは不幸中の幸いでしょう」
サルヴァトーレは困ったように眉尻を下げて微笑んだ。
「あの、実は調査で生物学の本を探していて……」
本来の目的を伝えた。するとサルヴァトーレは少し考えてから答える。
「その分類の本は店には出ていませんので、バックヤードを見てみる必要があります」
「もう少しで終わるので、そちらに座ってお待ちください」
部屋に招き入れられると、澪の胸は軽くなった。
書斎に一歩足を踏み入れた瞬間、澪は、そこだけ空気の質が違う気がした。
厚みのある木の書棚。煤けた暖炉。そして、大きな古い飛行機や船の模型が天井から吊るされている。
奥の机には、インク瓶と整然と並んだ万年筆——どれも長年の手入れが感じられるものばかりだった。
サルヴァトーレの目線に促されるまま、澪は奥のソファへ座った。
そのまま、書斎の机で、しばらく拳銃の部品を磨いているサルヴァトーレを見ていた。
しばらくして、どうしても気になってしまい澪は口を開いた。
「あの……飛行機、お好きなんですか?」
「ああ、この書斎は祖父のもので——」
そこまで口にして、サルヴァトーレの言葉が一瞬止まった。が、すぐに言葉を続けた。
「——私のものではありません」
澪は書斎の装飾を夢見心地で眺めながら続けた。
「お祖父さん、素敵なご趣味だったんですね。この書斎、すごく雰囲気があって好きだな……」
「……」
振り向くとサルヴァトーレが澪を見て、少しだけ目を見開いていた。
澪はまた変なことを言ってしまったかと思い首を傾げた。
「古いものばかりですから……そのように感じるのかもしれませんね」
そういって、手元の部品を磨く作業に戻っていった。分解された部品が布の上に整然と並べられている。
部品を磨き、油を差す。
一切の無駄がない動作だった。まるで時計職人のように正確で美しい。
「ご自身で整備されるんですね」
「ええ」
サルヴァトーレは視線を上げない。
「自分の命を守るものですから」
確かに、と澪は感心した。
「ずっとそうされていたんですか?」
「いえ」
そこでほんの一瞬だけ。手が止まった。
「私が十五くらいの時の話です」
再び部品を磨き始めた。
「当時は他人に任せていました」
淡々と話を続けた。
「ある日、その者が私の銃に細工をしまして」
「肝心な場面で弾が出なかったのです」
澪は手で口元を押さえた。
「死にかけました」
まるで夕食の話でもしているような何気ない口調だった。
「それ以来、必ず自分で行っています」
「……それは、大変だったんですね」
「当時は毎日のように命を狙われていましたから」
さらりと言った。
「今の方がまだ平穏です」
サルヴァトーレは自嘲するように口角を少しだけ上げたが、澪は言葉を失った。
気付けば拳銃は組み上がっていた。
黒い金属が静かに光を反射している。
——美しい。
そんな言葉が自然と浮かんだ。
「綺麗ですね」
サルヴァトーレが顔を上げる。
「綺麗?」
「あ……」
澪は慌てた。
「変ですよね」
ごまかすように、少し笑ってみた。
「人を傷つけるための道具なのに」
視線を落とす。
「でも……」
黒い銃身が光を映していた。
「怖いのに綺麗で」
澪はこの感覚に合う適切な言葉を探した。
「少しだけ悲しい気がします」
サルヴァトーレの手が止まる。しばらく言葉を失ったように澪を見ていた。
「銃を持ったことは?」
「ありません」
澪は首を振る。
「というより、以前お願いした時に断られましたよね」
サルヴァトーレは小さく笑った。
「あの時はそうでしたね。今も銃を持ちたいと?」
澪は静かに考え、それから首を横に振った。
「遠慮しておきます」
持ったところで、自分はネッロにはなれないし、サルヴァトーレにもなれない。
「そうですか」
少し意外そうな表情を浮かべる。そして柔らかく目を細めた。
「貴女の武器は銃ではないのでしょうね」
いつもと変わらない姿のはずなのに、なぜか柔らかい雰囲気を纏っているように感じられた。
「……この部屋、落ち着きますね。なんだか、時間が止まってるみたい」
澪は、独り言のように呟いた。
サルヴァトーレは、組み終えた銃を手の中で静かに確かめた。
「……私は、考え事をするときに、よくここに来るのです。会ったこともない祖父が残したこの部屋で、静かに……」
澪は、サルヴァトーレの語る言葉に、静かに耳を傾けた。
「幼い頃、偶然この部屋を見つけてしまったのです」
組み上げた銃を脇のホルスターに戻しながら、サルヴァトーレは続けた。
「祖父は、人に情をかけすぎる人だったそうです。それで大きな失敗をした。父は、祖父を弱い人間だと……蔑んでいました」
静かな銀灰色の瞳が、少しだけ揺れる。
「この部屋に憧れているとは言えなかった」
そう言った後、口元にわずかに自嘲の色を浮かべた。
「事実、父は冷徹に組織を立て直しました。私もそれに従った。情を捨て、常に合理的であれ、冷徹であれ、と——」
窓から差し込む光が古びた絨毯に落ちている。サルヴァトーレはその光に視線を向けた。
「兄弟が……次々と失われ、私が頭領となると決まったときに……」
そこで口をつぐむ。僅かな逡巡の後、吐き出すように言った。
「この部屋も、記憶も、すべて忘れるべきだったのです」
淡々と語るその横顔に、ほんの微かな痛みが滲んでいるのがわかった。
——澪は思わず首を振った。
「捨てないでください。……こんなに素敵な場所を」
サルヴァトーレは驚いたように顔を上げた。澪は彼を真っ直ぐに見つめた。
ふ、と一瞬だけ、瞳が優しく穏やかに細まった。
それは澪が彼に会って以来、初めて見る柔らかな微笑みだった。
(……今、笑った……)
刹那、澪はその瞳にあの家族写真に写っていた少年の面影を見た。兄弟の死に一晩中泣いていた、繊細で純粋な少年の面影——
それほどまでに、この部屋は彼にとって大切な場所なのだと気付く。
しかし、その瞳は、またすぐに何事もなかったかのように静かな灰色に戻った。
「……余計なことを話しすぎたようです」
サルヴァトーレは目を伏せ、ふっと小さく、吐息を漏らした。
「いえ、話していただけて嬉しかったです」
(少しでも、心が近づいたみたいで……)
澪が、光に透けるその伏せられた長いまつ毛に見惚れていると、再び視線が絡んだ。
胸の奥が、不意に熱くなる。
慌てて目を逸らし、空気を誤魔化すように近くの家具へ歩み寄った。
「そうだ! これ……すごく凝った作りのチェストですね。こんなの初めて見ました」
蔦模様の中に、小さな花の彫刻があった。その作りに感心し、表面に指を滑らせた。
「古いのでお気をつけて。棘が立っているかもしれませんよ」
サルヴァトーレが穏やかに咎めたと同時に、澪の中指で触れた小さな花がわずかに沈んだ。
——かちり。
側面の飾り板が、ほんの少し浮いた。
「……あれ?」
澪は驚いて覗き込み、小さな隙間に気づいた。
(……隠し棚……?)
サルヴァトーレの表情が一瞬だけ鋭く変わる。
恐る恐る板の端に指をかけて横へ滑らせると、薄い木板が音もなく開いた。
中には——古びた封筒。
サルヴァトーレも近寄ってきて、目を見張る。
澪がそっと封を開くと、そこには、黄ばんだ便箋が一枚、丁寧に畳まれて入っていた。
二人で覗き込む。
その手紙には震えるような筆跡で、こう記されていた。
『——親愛なるルチアーノへ
グラツィアの娘である私を、教団の手から逃がしてくれてありがとうございます。
あの日、私は母の机に残されていた小さな赤い石を握りしめて、島を出ました。
それを見るたびに、母を、島を、そして貴方を思い出します。
島を出る前に、最後に一度だけお会いしたかった。
けれど、それはあなたを困らせるだけですね。
あなたには家族があり、守るべきファミリーがある。
どうか、あなたと、あなたの大切な人たちが無事でありますように。
これが最後の手紙です。
レナ・アルヴィーティ
改め、礼奈——』
読み進めるうちに、澪の指先が微かに震えた。この筆跡はあまりに見慣れたものだった。
「……これは……」
そして、最後の見慣れた名前を見て確信した。
「礼奈って、おばあちゃん……」
サルヴァトーレも、静かに言葉を失っていた。
「……」
「……火山に葬られたグラツィアは……おばあちゃんの、お母さんなの……?」
サルヴァトーレが、ゆっくりと頷き、言葉を補う。
「……今までの情報からして、そういうことになりますね」
澪は目を見開いた。
自分の中に、この島の血が流れている。その事実が、遅れて胸の奥へ沈んでいった。
澪の祖母が遺した言葉。そして祖母を逃がした、ルチアーノ——サルヴァトーレの祖父。
澪とサルヴァトーレの間に、目に見えない糸が一本、静かに張られていた。
澪は胸の赤い石のペンダントに触れた。祖母がこれを大切に、肌身離さずつけていた意味が、今ようやくわかった。
「おばあちゃんはこうなるってわかってたの?」
封筒を手にしたまま、サルヴァトーレはしばし、じっと視線を落とした。
彼は眼鏡を指で押さえ直した。
次に、指先でそっと便箋を畳み直し、机の上で、きっちりと四角く整える。
まるで、心の中のざわめきを、ひとつひとつ封じ込めるような仕草だった。
澪は、そっと息を飲んだ。
目の前のサルヴァトーレは、何も語らない。ただ、丁寧すぎるほど静かに、手紙を元の箱へと仕舞った。
(今、この人は——)
開きかけた心を、必死に、誰にも悟らせないように封じている。
そんな気がしてならなかった。
サルヴァトーレは、もう一度だけ手元を整え、そして、澪に薄く微笑みかけた。
けれど、その灰色の瞳の向こうにある孤独を、ほんの少しだけ、見てしまった気がした。その孤独が、静かに胸を締め付ける。
(サルヴァトーレさん……)
澪も祖母が仕組んだかのようなこの巡り合わせに、戸惑いを覚えずにはいられなかった。
やり場のない空気に、何か言おうと澪が口を開きかけた時だった。
乾いた鈴の音とともに足音がした。扉が開き、ネッロが顔を出した。
「澪!ここにいたのか!?探したんだからな——ん?」
ネッロが足を止め、澪とサルヴァトーレを交互に見た。その距離に、何かを感じ取ったように目を細める。
「なんか、もしかして良い感じだった!?こりゃ失礼……」
澪は顔が熱くなるのを感じた。
だが、サルヴァトーレは笑わずに短く釘を刺した。
「ネッロ」
静かな声だった。
「……トト?」
「澪さんを部屋まで送ってください」
そして澪に目を向けないまま言った。
「生物学の書籍は、後ほど探して届けさせます。今日はもう、戻ってください」
そう言うと、背もたれにかけてあったジャケットを羽織った。
いつもの表情に、きちんと羽織られたジャケット。完璧で、隙のない、チェネレの頭領だ。
もうサルヴァトーレは、澪の方を見ていなかった。
その瞬間、さっきまで確かに近くにいたはずの人が、硝子一枚の向こう側へ戻ってしまったのだと、悟った。




