29話:血
「ねぇ澪、食品棚にあった蒸留酒を知らないかい?」
それから数日経ったある日、ふと、アンナに聞かれた。
「あんなにあったのに丸ごと無くなってるんだよ」
澪は首を傾げた。
「いえ、知りませんけど……」
「そうだよねぇ、あんたが飲むはずないもんねぇ」
アンナも首を傾げる。
「やっぱりファミリーの誰かが忍び込んで飲んだんだろう」
アンナは指を組んで威嚇するように鳴らした。
「もし見つけたら知らせておくれ」
目がぎらりと光る。
「……ただじゃおかないから」
凄むアンナを、乾いた笑顔でいなし、澪はネッロの見舞いに医務室へ向かった。
医務室に入るなりレオの机に蒸留酒が置いてあるのが見えた。
「あ!蒸留酒泥棒……!!」
「なんだと、人聞きの悪い」
「アンナさんが探してましたよ?あ、ここにも……!」
同じ蒸留酒の瓶が机の周りに転がっているのが見える。
「こんなに飲んだんですか?」
澪は心配そうにレオを見た。
「こんなに飲めるか、消毒だ消毒」
「え?」
「消毒液が切れちまったから借りたんだよ」
「こんなに?」
「そうだ」
「全部?」
「ほぼ、全部だな」
「……」
「……少しは飲んだ」
「やっぱり!」
「うるせえ!患者が寝てるんだ静かにしろ」
見るとネッロが静かに寝息を立てていた。
「静かに寝てるなんて、珍しいですね」
「あんまりうるさいから鎮静剤を使った」
(この医者容赦ない……!!)
澪はグラツィアのノートを持ってきたことを思い出した。
「先生」
「なんだ」
「アンナさんには黙っていてあげます」
レオの手が止まる。
「……条件を聞こうか」
「じゃあ、これ見てください」
研究ノートを差し出す。レオの眉がぴくりと動く。
「……お前」
露骨に嫌そうな顔をした。
「なんか抜け目なくなったな」
「そうですか?」
「可愛げがないぞ」
「可愛くなくて結構です」
澪はわざとらしく目を細めて見せた。レオは深いため息を吐く。
「誰に似たんだか……」
ぶつぶつ言いながらも、結局ノートを受け取った。机に肘をつき、ぱらぱらとページをめくり始める。
最初は本当に興味がなさそうだった。ただ形式的に確認しているだけ。そんな様子だった。
だが、数ページ進んだところで手が止まった。
「……なんだこれ」
澪は身を乗り出した。
「何かわかりますか?」
「いや」
レオは眉を寄せる。
ページを戻した。
さらに戻す。
もう一度読む。沈黙。
そして——
「……は?」
そんな声を漏らした。
澪は目を瞬く。レオがこんな反応をするのは珍しい。
「どうしたんですか」
返事はない。レオは眉間を押さえながらページを睨んでいる。
「特定サンプル由来のミトコンドリア……」
小さく呟く。
「いや、七十年前だぞ」
今度は誰に向けた言葉なのかも分からない。
「遠心分離機はある」
ページをめくる。
「細胞研究だってある」
さらにめくる。
「だがこんな発想……」
レオは呆然とした顔をした。
「どうやって思いついた……?」
研究者としての顔だった。気味悪さと驚きが入り混じっている。
再びページをめくる。
「再現不能……被験体との関連性を調査中」
レオは黙り込んだ。
「……今なら、ミトコンドリアDNAの母系遺伝で説明できるかもしれねぇが」
数秒後、ぽつりと呟く。
「なんなんだこれ」
澪は慎重に尋ねる。
「薬に特定の血液が必要ということでしょうか」
「知らん」
レオは目を合わせずに答えた。
「ただ——」
ノートを見つめたまま言った。
「まともな研究者の文章じゃねぇな」
「え?」
「気色悪ぃ」
眉をしかめて、そう言い放つ。部屋の空気が少し冷える。レオはもう一度ページをめくる。
そして勢いよく閉じた。ぱたん、と音が響く。
「あー、やめだやめだ」
心底うんざりした顔だった。
「見なきゃよかった」
澪はますます分からなくなる。
「そんなに変なんですか?」
「どう見てもロクな研究じゃねぇ」
レオはノートを机の上に押し返した。
「不老不死だの」
「血統だの」
鼻で笑う。
「そんなもん医学じゃない」
そして吐き捨てるように言った。
「まるでオカルトだ」
澪はノートを抱え直した。レオは椅子にもたれ、天井を見上げた。
しばらくしてから、面倒くさそうに続ける。
「それと、この件」
「……?」
「お前、母方はこの島出身者か?」
「いえ、あまり知らなくて……」
レオは珍しく真面目な目をしていた。
「これ以上調べない方がお前のためかもしれねぇぞ」
澪は困ったように笑う。
「でも、もうだいぶ調べちゃってます」
「……だろうな」
レオは頭を掻いた。苛立ったような仕草だった。
「いや……まあ」
言葉を探すように口ごもる。
「それができりゃ苦労しねぇか」
大きなため息。そして、貧乏ゆすりのように膝を揺らした。
「見ただろ。ここまでだ」
追い払うように手を振った。
「もう出てけ」
澪は苦笑しながら立ち上がる。
「ありがとうございました」
ノートを抱え直す。
医務室を出る直前、ちらりとネッロを見る。鎮静剤が効いているのか、ぐっすり眠っていた。
医務室を出た後も、澪の頭の中は研究ノートの内容でいっぱいだった。
レオの言葉が何度も頭の中で反響する。
あのレオがそこまで言うのだ。ますます真相を知りたくなってしまう。
(でも、生物学なんて全然分からない……)
せめて参考になりそうな本が欲しい。
歩きながら考えていると、ふとひとつの場所が脳裏に浮かんだ。
あの古書店だ。サルヴァトーレの店。あそこなら何か見つかるかもしれない。
澪は食堂へ向かった。
昼食の片付けを終えたアンナが、山のような食器を前に腕まくりをしている。
「あの、アンナさん」
「なんだい?」
「古書店に行きたいんですけど……」
アンナの手が止まった。
「古書店?」
「はい。本を探したくて」
アンナは少し困った顔をした。
「あそこはねぇ……誰でも出入りできる場所じゃないんだよ」
そう言って言葉を濁す。
「そうなんですか?」
「場所を知ってるのも限られた人だけさ」
皿を布で拭きながら続ける。
「基本的にはボスとネッロだけだね」
澪は目を瞬いた。
「そんな隠れ家みたいな場所なんですか?」
「実際隠れ家みたいなもんだよ」
アンナは苦笑した。
「そういや、あんた、最初にあそこへ迷い込んだんだろう?」
たしかに、最初こそあの古書店に自分の脚でたどり着いたが、道まで覚えてなかった。
「じゃあ今日は無理ですね」
澪は肩を落とした。ネッロは鎮静剤で熟睡中。案内してもらうこともできない。
「まあ、そのうち起きるだろうさ」
アンナは気楽に言った。
「待ってる間、暇なら執務室のゴミ回収でもしてきてくれないかい?」
「執務室ですか?」
「ああ」
アンナは山積みの食器を顎で示した。
「今日はこっちが手一杯でね」
それくらいなら手伝えると、澪は頷いた。
「分かりました」
「助かるよ」
アンナはにっこり笑った。ゴミ袋を受け取ると、澪は執務室へ向かった。
執務室には誰もいなかった。
窓から差し込む午後の日差しが机の上を照らしている。サルヴァトーレの机の上は綺麗に片付けられていた。
特に片付けるものもないので机の天板を拭き、ゴミ箱のゴミをまとめた。
改めて見回すと、この執務室の空気はどことなく緊張感がある。入ると背筋が伸びる気がする。
綺麗に整頓された本棚。艶のある革張りの肘掛け椅子。よく磨かれた重厚な机。
そして部屋の奥には大きな暖炉があった。前まで行って、澪は足を止める。
「暖炉があったのか……」
そういえば、この島は冬でも比較的温暖らしい。この島に来る前にガイドブックで見た情報だった。暖炉なんて必要なのだろうか。
何気なく近付いて覗いてみる。夏真っ盛りの今の時期だ、さすがに火は入っていない。煤もほとんど付いていなかった。
「使われてないみたい……」
しゃがみ込み、中を覗く。
「あれ?」
澪は違和感を覚えた。暖炉の奥が妙に浅い。それに——
「煙突がない?」
普通なら上へ続いているはずの煙道が見当たらない。
首を傾げながら、暖炉の内壁へ手を伸ばした。軽く叩くと、こんこん、と軽い音が返ってくる。石造りにしては妙だった。
「なんだろう……」
もう少し身を乗り出した瞬間。
——ごとり。足元の床が揺れた。
「え?」
壁の一部がわずかに動く。次の瞬間、ぐらりと身体が傾いた。
「きゃっ!?」
支えようとした手が空を切る。開いた隙間へ身体ごと滑り込み、そのまま数段の階段を転がり落ちた。
「いたたた……」
慌てて起き上がる。
見上げると、さっきまでいた暖炉は閉じていた。もはや目の前には石壁しか見えない。
「えっ、待って」
慌てて駆け寄った。
押しても、叩いても、引いてもみた。だがびくともしない。
「ちょっ……」
嫌な汗が流れる。
「困った……」
どうやって開けたのだろう。どうやって戻るのだろう。しばらく試したが結果は同じだった。
やがて澪は諦めて息を吐く。
「……仕方ない」
周囲を見回した。
通路は奥に続く一本だけ。周りは剥き出しのコンクリート壁。そして、等間隔に設置された照明。薄暗いが、人が通ることを前提に作られているように見える。少なくとも自然洞窟ではない。
それに、チェネレの執務室から繋がる場所だ。命に関わるような危険はないだろう。
(——たぶんね)
そう自分に言い聞かせ、一歩踏み出した。しばらく足音が静かな通路に響く。
やがて、突き当たった先に扉が見えた。古びた木製の扉だった。
澪は恐る恐る取っ手を回す。鍵はかかっていないようだ。そのまま、ゆっくり押し開く。
扉を開いた隙間から、鼻を掠める懐かしい匂いがした。
古い紙の乾いた甘い香り、インクの苦い香り、革表紙のしっとりしたほのかな獣の香り——
澪は目を見開いた。
「……え?」
目の前には本棚の壁があった。ぎっしりと本が並んでいる。
見覚えのある景色だった。
振り返ると、自分が出てきた扉は、本棚の陰に巧妙に隠されている。
そして、その反対側には、静まり返った古書店の店内が広がっていた。
「ここ……」
思わず呟く。
「あの古書店だ……」




