28話:シニョーラ・クレメンティ
翌朝の食堂は、久方ぶりの活気に満ちていた。
長机の上には焼き立てのパンと温かなスープが並び、窓から差し込む朝日が白いテーブルクロスを柔らかく照らしている。
「だから俺は言ったんだよ」
大きな身振りを交えて声を上げているのはエンリコだった。
「若い連中が来るまで待て、って!」
アンナがくすりと笑う。
「それなのに、いきなりバイクで突っ込んでいくんだからな!」
「エンリコさん、少し声が大きいですよ」
澪は苦笑を浮かべた。
「俺は本気で寿命が縮んだと思ったぞ」
「でも、結果的には上手くいったじゃない」
アンナが肩をすくめる。
「それは結果論だろ!」
再び食堂に笑い声が広がった。
しかし澪は曖昧に微笑むだけだった。頭の片隅には、別のことが引っかかっていた。瓦礫の中で見つけた、あのファイル。
『神火精製装置移設計画』
『薬品生成実験は地点A炉にて継続』
神火精製装置は移設されていたのだ。
地点A——肝心な場所は記されていなかった。
「おーい?」
肩を叩かれ、澪は我に返った。エンリコだった。
「あんたのおかげでネッロは助かった」
そう言って、にやりと笑う。
「なかなかやるじゃないか」
「いえ……」
澪は少し視線を逸らした。
「ただ必死だっただけです」
それ以上の言葉は出てこなかった。ネッロの泣き顔を思い出してしまう。
エンリコはため息をついた。
「俺もあんたみたいに無謀だったらよかったのかもなぁ……」
「エンリコさん……?」
「いや、なんでもないよ」
そう言って笑うと、澪の肩を軽く叩いた。
「あいつはしばらく安静だ。あとで見舞いに行くんだろ?」
その言葉に、澪は頷いた。
*
その日の午後。澪は再び資料の山と向き合っていた。
談話室の隅。机の上にはグラツィアの研究ノートや古い記録が積み上げられている。
『不老不死の薬』
『地熱エネルギー』
『神火精製装置』
おそらく、教団は不老不死の薬を作ろうとしている。そしてそれを作るには膨大なエネルギーが必要で、そのために神火精製装置なるものが作られた。その装置は火山を噴火させる危険性があった——
手掛かりは増えているのに、未だ澪が狙われる理由の核心だけが見えてこない。
ため息をつきながらページをめくる。
その時、以前目にした記述がふと視界に入った。
『血液サンプル適合試験』
『被験者との関連性を調査中』
澪の指が止まる。
血液サンプルの適合試験と、先日見た教団の血液検査。
脳裏でふたつの情報が結び付いた。
「……まさか」
小さく呟く。
(適合、選別、そして血液サンプル)
背筋に冷たいものが走った。
「いや……」
首を振る。
「そんなはずはない」
けれど。もし、本当に——教団の血液検査が適合者を探すためのものだとしたら。
「……私の血?」
言葉が途切れる。心臓が不快な音を立てた。
「いや……」
無理に笑みを作る。
「でも教団が私の血を調べたことなんてないはず……」
そう自分に言い聞かせる。それでも寒気は消えなかった。
(やっぱりレオ先生に見てもらおう)
そう決めて、研究ノートを抱え上げた。
医務室へ向かう途中、廊下の先から聞き覚えのある怒鳴り声が響いてきた。
「痛ぇ!!」
澪は思わず足を止める。
「このヤブ医者! もっと丁寧にやれ!」
「黙れ」
レオの冷ややかな声。
「動くな」
「痛いって言ってるだろ!」
「なら暴れるな」
どうやら元気そうだった。澪は思わず笑ってしまう。昨日の出来事が嘘のようだった。
医務室の扉を開けると、ネッロは包帯だらけの姿で椅子に座っていた。
「あ……」
澪に気付く。
「……よう」
少し照れくさそうな表情だった。その顔を見て、澪はようやく胸を撫で下ろした。
研究ノートを見てもらおうと、事情を説明すると、レオは即座に首を横に振った。
「嫌だ」
「もう……! 少しは迷ってくださいよ」
「前にも言っただろう」
レオはカルテを書きながら言う。
「面倒事には関わらない」
「でも——」
「無理だ」
取り付く島もないとはこのことだ。そこにアンナが慌てて飛び込んできた。
「レオ!ロザンナ婆さんが倒れたんだ。すぐ来てくれないかい……?」
「俺は町医者じゃねぇぞ」
「それが今日はどこも開いてない日なんだよ」
「この島の医者は急病人がいるのに呑気に休んでる奴ばっかりかよ」
レオが煩わしそうに前髪をガシガシとかいた。
以前、お菓子を手土産に訪ねたあの老婆だ。グラツィアのことや教団のこと、そしてサルヴァトーレのことを話してくれた。
あの時は聞けなかった話が、まだある気がしていた。
ただ、それだけではない。
短い付き合いだったはずなのに、あの気難しくも優しい老婆の顔が脳裏に浮かんだ。なんとなく、祖母が亡くなったときのことを思い出した。
「会いに行きたいです」
思わず口にしていた。
「会いに行きたいってお前……俺じゃお前のお守りは無理だ——」
レオが困ったように言いかけると、ネッロが横から被せた。
「俺、もう動けるぜ」
「動けねぇよ」
「歩くだけだって」
「昨日死にかけた奴の台詞じゃないな」
「大げさだなぁ」
ネッロは立ち上がろうとして、傷が引き攣ったのか一瞬だけ顔をしかめる。だがすぐに何事もなかったように笑った。
「ほら、元気元気」
「全然元気じゃねぇ」
レオは額を押さえた。
「お前は寝てろ」
「嫌だ」
ネッロも引かない。
「ばあさんの見舞いだぞ」
「だからだ」
「俺も行く」
レオは数秒黙り込むと、諦めたように大きなため息を吐いた。
「……絶対安静って言葉知ってるか?」
「聞いたことはある」
「意味は?」
「知らね」
「馬鹿はこれだから嫌だ」
アンナが思わず吹き出した。ネッロは勝ち誇ったような顔で澪を見る。
「ってことで行こうぜ」
「え、いいんですか?」
「クソガキが」
レオが罵倒したが、もう誰も聞いていなかった。アンナはロザンナの家へ向かう準備を始めているし、ネッロはシャツのボタンを留め始めた。
レオは再び深いため息を吐いた。
「……分かった」
観念したように立ち上がる。
「途中で動けなくなったら殺すからな」
「えっ」
「安心しろ苦しくないやり方にしてやる」
「治って欲しいのか、死んで欲しいのかどっちなんだよ!!」
「両方だ」
レオが吐き捨てるように答え、ネッロはケラケラと笑った。
そうして三人は小高い丘にある家に向かった。
*
潮風が吹く坂道を進む。
丘の上に建つ小さな石造りの家。周りには乾いた香りのローズマリーの花壇。そして軒先に吊るされた薬草。
以前訪れた時と同じ景色なのに、今日は妙に静かだった。風だけが海の匂いを運んでいる。
澪は小さく息を吸った。
「大丈夫かな……」
「あの婆さんだ、そう簡単にくたばるかよ」
ネッロが言う。だが声音は少し硬かった。
家の中は薄暗かった。薬草の匂いに、窓から差し込む夕日。
寝室の奥を覗くと、ロザンナはベッドに横たわっていた。以前より随分小さく見えた。
レオが素早く状態を確認する。しばらくするとロザンナが目をうっすらと開けた。
「おや」
あの日とは違う、しわがれた弱々しい声。二人の顔を見て、小さく鼻を鳴らした。
「騒がしい灰殻の坊主と嬢ちゃんまで来てたのかい」
「死ぬなよ、ばあさん」
ネッロが涙声で言った。ロザンナは呆れたように笑った。
「失礼な坊やだねぇ」
「見舞いに来てやったのになんだよ」
「それなら見舞い品のひとつでも持ってきな」
「アンナが見つけなかったら本当に死んでたかもしれなかったんだぞ」
「まったく、なんでこう素直になんでも口に出しちまうのか」
少しだけ部屋の空気が和らぐ。澪も思わず笑った。
レオは簡単に処置をした。
「脱水もある。だが、それだけじゃないな」
ロザンナに聞こえないよう声をひそめた。
「この歳なら、何が引き金になってもおかしくない」
そう言うと「俺は先に戻る。お前らも長居するな」と家を後にした。
レオを見送り、澪はベッド脇の椅子へ腰掛ける。少し迷った末、尋ねた。
「ロザンナさん」
「なんだい」
「グラツィアさんを知っていたんですよね」
ロザンナの瞳が静かに細められた。
「……そうさ」
「どうして、あの人は魔女じゃないって言ったんですか」
しばらく沈黙が落ちた。ゆっくり頷くと、やがてロザンナは窓の外へ目を向けた。夕暮れの光が、深く刻まれた皺を柔らかく照らしている。
「若い頃はねぇ……」
掠れた声が続く。
「私も教団の信者だったんだよ」
澪は目を瞬いた。
「代々教団の重職についていたグラツィア様の家——アルヴィーティ家で働いてた」
少し懐かしそうに目を細める。
「あの人は賢かった」
ふっと笑う。
「あの頃から頭ひとつ抜けていたよ」
そこで一度咳き込んだ。澪が無言で水差しを差し出す。ロザンナは礼も言わず受け取ると、一口だけ飲んだ。
「でもね」
かすかに声が柔らかくなった。
「それ以上に優しい人だった」
窓の外で風車がゆっくりと回っている。
「鉱山病の患者が出るとね」
遠い記憶を辿るように言う。
「みんな怖がったんだよ」
「でもあの人だけは違った」
ロザンナは小さく笑う。
「薬を持っていくんだ」
「食事も」
「夜遅くまで看病もしてた」
その声には、今でも信じられないという響きが混じっていた。
「貴族の娘なのにねぇ」
目を細める。
「服が汚れるのも気にしなかった」
「手が汚れるのも」
「病がうつるかもしれないことも」
首を振った。
「そんな人だったよ」
部屋に静寂が落ちる。ロザンナはゆっくりと息を吐いた。
「だから私は信じられなかった」
声が少し低くなる。
「教団が言うような悪女には見えなかった」
「娘さんもそうだ。ルチアーノとのことも、たぶらかしたなんて真っ赤な嘘さ」
ロザンナは遠くを見るように言った。
「あの娘とルチアーノは若い頃から親しかった。だがチェネレの次期頭領と教団幹部の娘だ。結局、二人が結ばれることはなかった……」
その話に、澪もネッロも顔を見合わせた。
「それなのに……」
グラツィアが死んだ。
そして娘が消えた。
教団は言った。
魔女の娘も同罪だと。
追わなければならないと。
人々は皆それを信じていた。
「だけどねぇ……」
ロザンナはぽつりと呟く。
「あたしゃ、どうしても腑に落ちなかったんだ」
「人を救おうとしていたあの人たちが」
「本当にそんなに悪い人だったのかってね」
疑問は消えなかった。
年月が経っても。
祈りを捧げても。
答えは出なかった。
「それで私は教団を離れた」
そこまで言うとロザンナはしばらくの間咳き込んだ。
澪から水を受け取り、一息つくと、再び話し始める。
「その後、縁があってスピネッリ家に呼ばれてね」
ロザンナは少しだけ息を整えた。
「短い間だったが、乳母をやった」
ネッロが壁にもたれたまま聞いていた。
「雇い主だが先代は嫌いだったよ」
ロザンナは平然としている。
「でもトト坊も、他の子供たちも嫌いじゃなかった」
その名が出た瞬間、澪は自然と耳を傾けていた。
「あの子は三男だったけどね」
ロザンナは静かに言う。
「兄たち同様、厳しく育てられた」
そして少しだけ目を伏せた。
「兄弟が殺されるのを見て育った子だ」
部屋の空気が変わる。
「最初に長男夫婦が殺された夜」
ロザンナは再び遠くを見る。
「兄だけじゃない。奥方まで巻き込まれてね……嫁いできたばかりだった」
澪は息を呑んだ。
「あの子、一晩中私の部屋で泣いていたよ」
今のサルヴァトーレからは想像もできない、と澪は思った。あの冷たい灰色の目になるまでに、どれほど大切な人たちの死を映してきたのだろう。
不意にロザンナが黙った。じっと澪を見る。
「……不思議だねぇ」
「え?」
「あんたを見ると」
少し微笑む。
「あの人を思い出す」
「誰をですか?」
「グラツィア様さ」
澪は目を瞬く。
「私が?」
ロザンナは頷く。
「瞳の色が似てる」
じっと濁った薄青い瞳が澪の目を覗き込む。
「深い海の底みたいな色だ」
不思議と胸に引っかかる言葉だった。
「もし、真実を見つけたなら」
ロザンナが静かに言う。
「あの人を悪者のまま終わらせないでおくれ」
「グラツィアを……?」
澪は顔を上げた。
「そうさ」
ロザンナは目を閉じた。
「誰より人を救いたかった人だった」
その言葉は願いだった。証言ではなく、祈りだった。
しばらくして、ネッロが立ち上がる。
「そろそろ帰るとするか」
部屋を出ようとした時。
「ネッロ」
老婆に呼び止められて、ネッロが振り返った。ロザンナは少し笑った。
「あんた、この間来た時よりいい顔してるよ」
ネッロは何も言わない。
「この子をちゃんと守ってやんなさい」
そして続けた。
「それから、あの坊のこともよろしく頼むよ」
「坊って——」
「トト坊さ」
ロザンナはくすりと笑った。
「あんたたち、本当の兄弟みたいだよ」
珍しく、ネッロは言葉を失っていた。
家を出る頃には夕暮れだった。海は茜色に染まり、風が草を揺らしている。澪は歩きながら呟いた。
「ロザンナさん……また会えるよね」
ネッロはしばらく黙っていた。
「たぶんな」
短い返事だった。二人は歩きながら一度だけ振り返った。崖の上の家の窓辺に小さな影が見えた。ロザンナだった。
こちらへ向かって静かに手を振っている。夕陽の中で、まるで長い旅路を見送るように。
ネッロは何も言わず前を向いた。潮風だけが、二人の間を吹き抜けていった。




