27話:ガブリエーレ
夜の鉱山地帯は不気味なほど静かだった。
黒い岩肌が闇に溶け込み、遠くで風が坑道の隙間を鳴らしている。
エンリコの運転する車が、教団基地から少し離れた岩陰で静かに停まった。
暗い坑道の入口、その横に山の腹から突き出たように教団の基地のコンクリートの壁が見えた。
「ここから先は危険だ」
エンリコが低い声で言う。
「若い衆も応援に向かってる。合流してから動くぞ」
澪は頷いた。だが次の瞬間、視界の端に見覚えのあるものが映る。
「あ……」
思わず声が漏れた。
少し先、岩壁の脇に、一台の古びたバイクが停まっている。
見間違えるはずがない。ネッロのバイクだった。ネッロは確かにここへ来ている。それも、しばらく前に。
澪の胸がどくりと鳴った。
「澪?」
エンリコが怪訝そうに振り返った。
澪はネッロのバイクを見つめて、小さく息を吸い込んだ。
*
怒りが、燃え上がる。
ネッロは迫り来る教団の兵士たちを睨みつけた。
それは冷静な作戦ではない。復讐心と狂気が、血を沸騰させる。
——刹那。地を蹴った。
最前列の男が銃を構えるより早く、ネッロが懐へ飛び込み、拳を叩き込む。
鈍い音。
男の身体が折れ、声もなく崩れた。
次の兵士がナイフを振り下ろす。ネッロは半身でかわし、その腕を掴む。捻る。骨が嫌な音を立てた。悲鳴が坑道に跳ね返る前に、膝を腹へ叩き込む。
まだ拳で足りた。まだ、止められた。
——だが、数が多すぎた。
背後から銃声。頬を熱いものがかすめる。
別の男が横から斬りかかる。避けきれない。
肩口に赤い線が走った。
「……ちっ」
ネッロの目から、わずかに光が消えた。
次の瞬間、右手が腰へ伸びる——ナイフが抜かれた。
踏み込む。
返す刃が男の腕を裂いた。
悲鳴。
血が散る。
もう一人が銃口を向ける。ネッロはその手首を蹴り上げ、距離を詰める。刃を突き込む。引き抜く。
温かい血が、手のひらを濡らした。
それでも敵は止まらない。
撃っても、倒しても、また別の影が湧いてくる。
黒い服。赤い紋章。
火花。
硝煙。
金属音。
息が詰まった。
「は……っ」
ネッロは歯を食いしばった。
左手がポケットへ伸びる。小型の拳銃を抜いた。
一発。
二発。
銃声が坑道を叩く。狭い空間に反響し、耳の奥が痺れた。
倒れた男を踏み越える。
まだ来る。まだ来る。まだ、終わらない。
それはもう、生き延びるための動きではなかった。最後まで噛みつくためだけに残された、獣の形をした意地だった。傷つきながらも、噛みつき、爪を立て、喉笛を探す獣。
しかし、あまりに数が多すぎた。
再び左肩を銃弾がかすめた。肉が裂ける。
「っ……!」
熱と痛みが、一気に脳を焼いた。視界が霞む。足元が揺れる。
それでも右手のナイフを握ろうとする。だが、指に力が入らない。刃先が震えた。
「は……はは、ちくしょう……!」
膝が、床に沈んだ。
荒い息。血の混じった唾。遠くで、足音と金属の擦れる音が近づいてくる。
ネッロは顔を上げた。まだ、敵がいる。
(——なんだよ、ここまで、か……)
これが終わりなら、せめて。奴らの何人かは、道連れにする。
(最後の瞬間まで、あいつらをぶっ殺してやる)
それが“俺”の命の使い方だ。もう誰が望もうが望むまいが構わない。
(でなきゃ、俺が生き残っちまった意味がねぇだろ……!!)
立ち上がろうとした瞬間、膝が折れ、地面に崩れ落ちそうになる。
銃口が一斉にこちらを向いた。
(——やっと、終わる……)
ネッロが、そう思って体の力を抜いたその刹那——
唯一、坑道の外に面している大きなコンクリートの壁が、周囲の壁ごと爆音と共に吹き飛んだ。
刺客たちが振り返る中、爆風をまとった大きな黒いバイクが飛び込んできた。
澪だった。
*
澪は、その華奢な身体で、大きなバイクにしがみつくようにまたがっていた。
それは運転と呼べるものではなかった。ただハンドルにしがみつき、アクセルを捻り、倒れないように祈るだけだった。
「ネッロ!!」
澪は俯いて膝をつく男に向かい声を張り上げた。
だが、ネッロは顔を上げない。
届かない。血まみれの背中は、もう自分の声を聞いていない。
(ダメ……届いてない!!)
澪はそのままネッロに向かってバイクを突進させた。
戦闘の最中に飛び込むことを、恐れていないわけがない。体は震えていた。バイクに振り落とされそうになりながら、歯を食いしばる。
ただ必死に。無我夢中で。血まみれでうずくまる男へ向かって叫んだ。
——墓標に刻まれていた、あの名前を。
「振り向け!!ガブリエーレ!!」
全身が張り裂けそうなほど力をこめて叫んだ。涙が滲むほどの必死さで。
「ガブ——!!」
驚いたようにネッロが顔を上げた。
「——澪!?」
敵の銃弾が散る中、澪はまっすぐネッロの目を見た。
「こっちだよ!!」
澪は片手はバイクのハンドルにしがみついたまま、もう片方の手を千切れんばかりに伸ばした。
ネッロも、弾かれるように立ち上がり腕を伸ばした。
澪はネッロの手を掴み、バイクに乗せるや否や、小型爆弾を、部屋の中央の支柱へと放り投げた。
火花。爆風。
次の瞬間、柱が崩れ落ち、天井が悲鳴を上げるように軋み始める。
「バカ!全部潰れるぞ!!」
「ネッロだけ死ぬよりずっとマシ……!!」
轟音の中、舞い上がる粉塵。崩れゆく天井から、瓦礫が次々と降り注ぐ。
ネッロが咄嗟に澪を庇い、抱き寄せるようにして隅の壁際へ飛び込んだ。
その瞬間、世界が暗転する。天井が落ちた。
外では、教団の兵士とチェネレの応援部隊の争う音が聞こえた。
だが、しばらくしてそれも静かになった。
すべてが静かになった。
瓦礫と塵煙の中。
かろうじて崩落を免れた空間で、澪がうっすらと目を開くと、ネッロは澪を守るように覆い被さっていた。
「澪……!無事か!?」
かすれた声に、澪も微かに頷く。
「……うん。間に合ってよかった……」
鉄骨とコンクリートに囲まれた、閉ざされた空間で、ネッロはバツの悪そうな表情で澪から静かに離れた。
「……バカかよ、ほんと……お前……」
ネッロが震える声でつぶやいた。
「なんで来たんだよ……下手したら死ぬとこだぞ……!」
徐々に熱を帯びていくその声に、澪は顔を上げた。
ネッロの目が、怒りと困惑で滲んでいた。
「……無茶してんじゃねぇよ。なんで、お前が傷つくんだよ……俺のせいで……っ」
ギリッと歯軋りして、吐き捨てるように声を荒げた。
「——俺なんかどうなったってよかったんだよ!」
その瞬間——パアンッ!
乾いた音が、暗闇に響く。
澪の手のひらが、渾身の力でネッロの頬を打っていた。
その目には、涙が溜まっていた。
「……よくないよっ……!」
澪は声を震わせながら叫んだ。
「勝手に死にに行くなんて……!」
「よくないに決まってるじゃない……!」
張り詰めた声に、涙が一粒、頬を伝った。目を見開くネッロに、澪は言葉をぶつける。
「どうしてそんなに、自分を粗末にするの……!?」
唇を噛みしめ、喉の奥がきゅっと締め付けられるようだった。必死で堪え、震える声で訴える。
「お願いだから、自分をそんなふうに扱わないで……」
息が詰まるほど、本気だった。
ネッロは目を伏せたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、言葉を零す。
「……違うんだ……」
かすれた声で、拳だけが震えている。
「俺が死ぬはずだったんだ」
澪は息を呑んだ。
「ネッロ……?」
「血液検査の日——」
ぽつりと零れる。まるで止め方を忘れたみたいに。
「長いことかかったんだ」
視線は床に落ちたまま。
「友達と遊ぶ約束してたのに、行けなかった」
乾いた笑いが漏れる。
「次の日、母ちゃんに頼まれたんだ」
握った拳に力が入る。
「父ちゃんに弁当届けろって……」
そこまで言って少し口籠る。
「でも俺……嫌だったんだよ」
喉が詰まる。
「すぐ遊びに行きたくて」
唇を噛んだ。
「だから……」
呼吸が乱れた。
「だから、行かなかった」
瓦礫の隙間から差し込む月明かりが揺れた。
「母ちゃんが行ったんだ」
また声が小さくなる。
「坑道に……まだ小さかったセレナ連れて」
そこで言葉が止まった。ネッロの肩が震える。何かを堪えるように俯いた。
「ネッロ……」
澪が呼ぶ。だがネッロは首を振った。
「そしたら地震が来た」
肩を抱きしめ、震えながら続ける。
「父ちゃんも」
「母ちゃんも」
「セレナも」
言葉が続かない。拳を額に押し当てる。
「みんな死んだ」
そこで、声が崩れた。
「俺が」
涙が一つ、膝に落ちた。
「俺が行けばよかったんだ」
ひとつ、ふたつと雫が地面にこぼれていく。
「俺が行ってれば」
「セレナは……セレナは死ななかったのに……!」
その瞬間、長年押し込めていたものが堰を切った。
「なんでだよ……!」
ネッロが顔を覆う。
「神火が悪い奴を罰するなら!」
「なんで俺じゃなくて!」
嗚咽混じりの声だった。
「なんでセレナなんだよ!」
やり場のない怒りが滲む。
「まだ二歳だったんだぞ……!」
声が掠れる。
「何にも悪いことしてねぇのに……!」
言いながら、涙がこぼれて止まらなくなる。
抑えてた息が喉で切れて、声にならない嗚咽が漏れてくる。うつむいたまま、肩が大きく揺れる。
澪は隣に寄り添い、そっとその背中に手を当てた。
「俺……」
沈黙の中、ネッロはゆっくりと頭を下げた。
「……ごめん。ほんとに……ごめん……」
その背は小刻みに震えていた。
「俺だけ生き残って……」
澪はそっと手を伸ばした。震える手を包む。それは驚くほど冷たかった。
「ネッロ」
静かに呼ぶ。
「ずっと苦しかったんだ……」
ネッロは答えずに、ただ肩を震わせている。澪はその手を握ったまま続けた。
「でもね」
月明かりが二人を照らす。
「私はこの島に来て」
少しだけ笑った。
「あなたに何度も助けてもらったよ」
市場で。路地裏で。カジノで。海で。
——そして今日も。
「生きててくれてありがとう」
ネッロは顔を伏せた。
澪はそっとその背中を撫でた。まるで泣きじゃくる子供をあやすように。
ネッロは抵抗しなかった。ただ顔を伏せたまま、小さく肩を震わせていた。
月の光が瓦礫の合間から差し込んだ。嗚咽だけが静かに響いていた。
*
長い時間が流れた。
嗚咽が少しずつ静まり、瓦礫の向こうの音が戻ってくる。水滴の落ちる音。遠くで崩れた石が転がる音。
ネッロはぐしゃぐしゃの顔を拭った。
「……ごめんな」
鼻をすすりながら笑う。
「助けに来てくれてありがとな、澪」
情けなさそうに肩をすくめた。
「かっこ悪いとこ見られた」
澪もようやく息を吐き、頬を緩めた。その時、視界の端に何かが映る。
瓦礫の隙間。崩れた棚の下。古びたファイルが開いていた。
澪は手を伸ばし、埃を払う。表紙にはこう書かれていた。
『神火精製装置移設計画』
「……え?」
ページを捲る。
黄ばんだ紙。掠れた文字。
そこには——
『試験設備、出力不足により実用化不可』
『精製槽および主要導管系は、本番用神火精製装置へ移設』
『新設備は地点Aに設置。深部熱導管との接続を完了』
『以後、薬品生成実験は地点A設備にて継続する』
澪は目を見開く。さらにページを捲った。
『地点A設備、深部熱流量上昇』
『精製槽、稼働可能域に到達』
『本設備の廃棄をもって、旧区画での研究を終了する』
指先が止まる。鼓動が速くなる。
ここにあるのは、祖母の手紙にあった“神の炉”ではない。
本物は、別の場所に移されている。地点A——そこに。
「……あれ」
喉が乾く。
「本物じゃない」
ネッロが顔を上げた。
「は?」
月明かりの下。二人は同時に資料へ視線を落とした。
崩れた研究室の奥。その暗闇が、先ほどまでとはまるで違う意味を持ち始めていた。




