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ロッサ・ディ・マーレ 〜火山島に燻る魔女の罪〜  作者: 山城すな
第七章

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26話:暴走

 チェネレ本部の会議室には、重苦しい空気が漂っていた。


 窓の外では夕陽が沈みかけている。長机を囲む五人の幹部の表情には、ここ数日の疲労と焦燥が色濃く滲んでいた。灰皿には吸い殻が積み上がり、冷めたコーヒーの香りが微かに残っている。


 会議はすでに長時間に及んでいた。しかし結論は出ていない。


「例の薬の製法は、まだ分からんのか」


 一人の幹部が不満げに口を開く。


「調査中です」


 サルヴァトーレが静かに答える。だが幹部に納得した様子はない。


「調査、調査と言うが、いつまで待てばいい」


「教団は待ってくれませんぞ」


「やり方が慎重すぎる」


 次々と声が上がる。


「廃坑道の基地を襲撃してはどうか?」


「いきなりそんなことをしては均衡が崩れる」


「向こうも強硬姿勢だ、今さら均衡などといってられるか」


「危険だ」


 机を叩く音や、椅子が軋む音が会議室に響く。様々な意見が飛び交うが、誰も譲らない。ただ焦りだけが積み重なっていく。


 会議室の最奥で、サルヴァトーレは腕を組んだまま静かに話を聞いていた。やがて、小さく咳払いをする。しかしその音は議論に飲まれる。


 別の幹部が反論し、また別の幹部が声を荒げる。話は堂々巡りだった。


やがて、幹部の誰かがためらいがちに口にした。


「やはり、あの娘を渡して穏便に交渉すべきでは……」


「穏便、という言葉を嫌う必要はあるまい」


 低く、しわがれた声が落ちた。


 長机の端で黙っていたロレンツォだった。節くれだった指が机の上でゆっくりと組まれる。


「こちらが欲しいのは薬の製法。教団が欲しているのは、あの娘。ならば、取引の席に乗せる価値はあろう」


 他の幹部たちは、ロレンツォとサルヴァトーレの顔を交互に見た。


「若い頭領は、切り札とやらを高く見積もりすぎておいでかと——」


「おい」


 騒然とした会議に、低い声が響いた。


 一瞬で会議室が静まり返り、全員の視線が集まった。


 ネッロだった。

 椅子にもたれたまま、鋭い目で幹部たちを見回している。先ほどまでの気怠げな様子は消えていた。


 誰も口を開かない。


 ネッロはそれ以上何も言わなかった。ただ睨んでいるだけだった。それだけで十分だった。


 やっと会議室に静寂が戻り、サルヴァトーレは小さく息を吐いた。


「ありがとうございます」


 そして立ち上がる。


「まだ焦る時ではありません」


 穏やかな声だった。だが会議室全体によく通った。


「旧坑道の調査も進んでいます」


 幹部たちの視線が集まる。


「薬の製法についても、少しずつ手掛かりが集まり始めている」


 机の上の資料へ目を落とす。


「教団が何を隠しているのか、その輪郭は見え始めています」


 誰も反論しない。サルヴァトーレは続けた。


「今は機を待つべきです」


 静かな断言だった。


「焦って動けば、手に入るはずのものも取りこぼしてしまう」


 長い沈黙。


 やがて幹部の一人が椅子を引いた。


「……分かった」


 納得したわけではない。だが従うしかない。一人、また一人と立ち上がる。不満げな表情を隠しきれないまま、幹部たちは会議室を後にした。


 ロレンツォも最後に席を立った。扉へ向かう前に、サルヴァトーレを一瞥する。


「機を待つ。それが手遅れにならねばよいが」


 低い声だけを残して、老幹部は会議室を出ていった。


 重い扉が閉まる。


 残されたのはサルヴァトーレとネッロだけだった。しばらく沈黙が続いたが、先に口を開いたのはネッロだった。


「俺はあいつらに少し賛成だけどな」


 サルヴァトーレが顔を上げる。


「どの部分です?」


「もっと攻めるべきってとこ」


 ネッロは椅子に深く腰掛けた。腕を組み、天井を見上げる。


「教団のやり方、最近おかしいだろ」


 昨日の港で、教団はついに人目も憚らず銃を抜いた。


「前はもっと隠れてやってた」


 ネッロは眉を寄せた。


「でも今は違う」


 勢いよく机に手をつく。


「町中で銃まで撃ってきやがる」


 サルヴァトーレは黙って聞いている。


「守ってばっかじゃ削られる一方だ」


 ネッロは真っ直ぐサルヴァトーレを見た。


「そろそろ反撃するべきじゃねえのか」


 数秒間の沈黙ののち、サルヴァトーレは静かに口を開いた。


「お前にしては短絡的な意見だな」


「は?」


「感情的になっている」


 その言葉に空気が少しだけ冷える。


「最近、まともに寝ていないだろう」


「関係ねえよ」


「ある」


 取り付く島もない様子に、ネッロは舌打ちした。サルヴァトーレは構わず続ける。


「しばらく休め」


 今度ははっきりと空気が変わった。ネッロがゆっくり顔を上げる。


「……本気か?」


「本気だ」


「今この状況で?」


「だからこそだろう」


 ネッロは鼻で笑った。だがその目は笑っていない。


「俺を休ませてる間に澪やお前に何かあったらどうする」


 サルヴァトーレの表情がわずかに硬くなる。


「そのための組織だ」


「組織?」


 ネッロが立ち上がる。椅子が大きな音を立てた。


「その組織が後手に回り続けてるから言ってんだろ」


 怒気が滲む。昨日までなら笑って流していた程度の話だ。


 だが今は違う。家族のこと。旧坑道の資料。そして澪の誘拐未遂。積み重なったものが胸の奥で燻り続けていた。


「調査だ証拠だって待ってる間にも、あいつらは動いてる」


 サルヴァトーレは静かに見返す。


「だからといって無計画に突っ込むつもりか?」


「少なくとも待ってるだけよりマシだ」


「違うな」


 ぴしゃりと言い切った。


「それは自滅だ」


 長い沈黙。


 二人はしばらく睨み合った。やがてネッロは小さく舌打ちする。


「……そうかよ」


 吐き捨てるように言った。


「なら、いつまでも待ってろ!!」


 そのまま踵を返すと、ネッロは乱暴に扉を閉めて出ていった。


 サルヴァトーレは呼び止めない代わりに、小さく息をついた。


 *


 夕暮れが夜へ変わる頃。

 澪は中庭の石造りのベンチに腰掛けながら、何度も本館の方を振り返っていた。


 ここ数日、ネッロの様子がおかしい。

 眠れていないようだった。食欲もない。どこかずっと苛立っている。思い返せば、らしくないことばかりだ。


 先日、買い出しの帰りに東地区の住宅町を歩いていた時のことだ。


 通りの向こうから顔見知りらしい島民が手を振って近づいてきた。普段のネッロなら笑いながら肩を組みに行くような相手だった。だがその時のネッロは違った。


 一瞬で澪の前へ出たネッロ、明らかに庇うような位置だった。そして、相手がただの島民だと分かってからも、しばらく警戒を解かなかった。


(あの人懐っこいネッロが、あんな顔をするなんて……)


 やがて足音が聞こえた。

 振り返るとネッロだった。


「よう」


 いつものように笑う。しかし、やはり目の下には濃いクマができていた。


「ネッロ」


 澪は立ち上がる。


「少し話せる?」


 ネッロは一瞬だけ目を逸らした。そして観念したように肩をすくめる。


「説教されてばっかだな、最近」


 二人は隣り合って腰を下ろした。

 夜風が吹いて、中庭のレモンの葉がさらさらと揺れた。二人ともしばらくその様子を眺めていたが、先に口を開いたのは澪だった。


「最近どうしたの?」


 ネッロは答えない。


「ずっと様子がおかしい」


「……」


「眠れてないでしょ」


「まあな」


「食欲もない」


「そうかもな」


「鉱山から帰ってきてからずっと」


 そこでネッロの表情が曇った。視線が石畳へ落ちる。


「なあ……このままでいいと思うか?」


 澪は黙って聞く。


「教団はどんどん強引になってる」


 ネッロは拳を握る。


「このままじゃ押し切られる」


 声が少しずつ固くなる。


「調査だって続けられなくなる」


 少しの沈黙。


「それどころか」


 そう言って、ネッロは硬い表情のまま顔を上げた。


「お前だって連れていかれるかもしれねぇ」


 澪の胸がざわつく。

 その目は怒っているようでいて、実際は違った。怯えていた。必死に何かから逃れようとしていた。


「大丈夫だよ」


 澪は慎重に言う。


「焦らなくても——」


「焦るだろ」


 食い気味だった。


「だって分かったんだぞ」


 ネッロが立ち上がる。


「もしかしたら」


 声が震えている。


「もしかしたらあいつらのせいだったかもしれねぇ」


 拳が強く握られる。


「俺の家族が死んだのも」


 澪は息を呑んだ。


「トトの家族だってそうだ」


 ネッロは吐き出すように続ける。


「みんなそうだ」


「ネッロ……」


「教団さえいなきゃ」


 その声は怒りではなかった。長年押し込めていた傷口が開く音だった。


「あいつらさえいなきゃ、チェネレだってこんなことしなくて済んだ」


 呼吸が荒くなる。


「だから潰さなきゃいけねぇんだ、早く」


 一歩前へ出た。もう自分を止められなくなっているようだった。


「ネッロ!」


 澪も慌てて立ち上がる。


「落ち着いて!」


「落ち着いてられるかよ!」


 初めてだった——ネッロが澪に声を荒げたのは。

 澪が思わず息を呑む。ネッロ自身も一瞬だけ驚いたような顔をした。だが止まらない。


「ちゃんと作戦を——」


「そんな時間ねぇだろ!」


「ネッロ一人じゃ無理だよ!」


その言葉を聞いた瞬間、ネッロの顔が歪んだ。それは怒りとも悲しみともつかない表情だ。


「……俺じゃ守れないって言うのかよ」


「違う!」


「じゃあ何なんだよ!」


 中庭に声が響く。


「トトもお前も分かってねぇ!」


 胸を押さえる。まるで呼吸ができないみたいに。


「大切なものを」


 掠れた声。


「自分の不甲斐なさで失うかもしれない怖さが、危険が」


 瞳が揺れた。そして、絞り出すように言った。


「もう耐えられないんだよ……!」


 澪は言葉を失った。


 今目の前にいるのは、チェネレの狂犬でも。陽気な兄貴分でもない——家族を失った少年だった。


 何の言葉も浮かばないまま、二人の間に沈黙が流れた。やがてネッロは視線を逸らした。


「……わかった」


 小さく呟く。次の瞬間には決意したように踵を返していた。


「もういい」


 背中越しの声。


「俺一人でやる」


「ネッロ!」


 呼び止める。だが止まらない。ネッロは黄昏の中、宵闇の迫る方に消えていった。


 澪はしばらくその場から動けなかった。


 *


「サルヴァトーレさん!」


 澪は執務室の扉を勢いよく開けた。


 机に向かっていたサルヴァトーレが顔を上げた。ランプの柔らかな灯りが書類の山を照らしている。


「どうしました」


 落ち着いた声だった。澪にはその冷静さがもどかしかった。


「ネッロが!」


 息を切らしながら駆け寄る。


「一人で行っちゃったんです!」


 サルヴァトーレの表情は変わらない。


「そうですか」


 それだけだった。澪は思わず机に手をつく。


「そうですかじゃなくて!」


 声が少し裏返る。


「止めないと!」


 サルヴァトーレは静かにペンを置いた。


「場所に心当たりは」


「多分……」


 澪は必死に考える。

 今日の言葉が頭をよぎる。教団。旧坑道。神の炉——


「この前見つけた鉱山の基地です!」


 答えた瞬間、サルヴァトーレの眉がわずかに動いた。


「なるほど」


 短く呟くと、椅子の背にもたれた。


「自ら死にに行くとは、馬鹿な奴だ」


 その言葉に澪は目を見開いた。

 怒っているのか。呆れているのか。ただほんの少し、疲れているように聞こえた。


「サルヴァトーレさん、助けてください!」


 澪は身を乗り出した。だがサルヴァトーレは動かない。


「……私が動けば、チェネレが正式に教団に対して奇襲をかけたことになります」


 静かな声だった。


「今ここで全面衝突の口実を与えるわけにはいかない」


「でも、私一人じゃどうしたらいいかわからない……!」


 サルヴァトーレは答えずに、窓の外へ視線を向けた。もう夜だった。窓の向こうには町の灯が小さく瞬いている。


 時計の針の音だけが聞こえる。長い沈黙だった。


 サルヴァトーレは澪の左手についているシグネットリングに目をやった。

 ——火山を逆さまにしたチェネレのマーク。

 

 その灰色の瞳に、ほんのわずか思案の色がよぎる。

 やがて、サルヴァトーレはぽつりと言った。


「そういえば」


 澪は顔を上げる。


「カジノの作戦で使った爆薬の残りが倉庫にありました」


「え?」


 唐突な話題だった。


「もう古いものです」


 サルヴァトーレは机の引き出しから鍵を取り出す。


「使い道もありません」


 鍵を机の上に置く。小さな金属音が響いた。


「好きに処分して構いませんよ」


 澪は数秒理解できなかった。しかし、次の瞬間、はっとする。


「……ありがとうございます!」


 澪は思わず頭を下げる。


「それと」


 引き出しから別の鍵を取り出した。


「運転手が必要でしょう」


「エンリコを連れて行きなさい」


 サルヴァトーレはもう書類へ視線を戻していた。まるで今の会話など存在しなかったかのように。

 澪の顔に、わずかに希望の光が差した。


「無茶はしないように」


 静かな声だった。


「はい!」


 澪は返事をすると、鍵を掴み、勢いよく執務室を飛び出した。


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