26話:暴走
チェネレ本部の会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
窓の外では夕陽が沈みかけている。長机を囲む五人の幹部の表情には、ここ数日の疲労と焦燥が色濃く滲んでいた。灰皿には吸い殻が積み上がり、冷めたコーヒーの香りが微かに残っている。
会議はすでに長時間に及んでいた。しかし結論は出ていない。
「例の薬の製法は、まだ分からんのか」
一人の幹部が不満げに口を開く。
「調査中です」
サルヴァトーレが静かに答える。だが幹部に納得した様子はない。
「調査、調査と言うが、いつまで待てばいい」
「教団は待ってくれませんぞ」
「やり方が慎重すぎる」
次々と声が上がる。
「廃坑道の基地を襲撃してはどうか?」
「いきなりそんなことをしては均衡が崩れる」
「向こうも強硬姿勢だ、今さら均衡などといってられるか」
「危険だ」
机を叩く音や、椅子が軋む音が会議室に響く。様々な意見が飛び交うが、誰も譲らない。ただ焦りだけが積み重なっていく。
会議室の最奥で、サルヴァトーレは腕を組んだまま静かに話を聞いていた。やがて、小さく咳払いをする。しかしその音は議論に飲まれる。
別の幹部が反論し、また別の幹部が声を荒げる。話は堂々巡りだった。
やがて、幹部の誰かがためらいがちに口にした。
「やはり、あの娘を渡して穏便に交渉すべきでは……」
「穏便、という言葉を嫌う必要はあるまい」
低く、しわがれた声が落ちた。
長机の端で黙っていたロレンツォだった。節くれだった指が机の上でゆっくりと組まれる。
「こちらが欲しいのは薬の製法。教団が欲しているのは、あの娘。ならば、取引の席に乗せる価値はあろう」
他の幹部たちは、ロレンツォとサルヴァトーレの顔を交互に見た。
「若い頭領は、切り札とやらを高く見積もりすぎておいでかと——」
「おい」
騒然とした会議に、低い声が響いた。
一瞬で会議室が静まり返り、全員の視線が集まった。
ネッロだった。
椅子にもたれたまま、鋭い目で幹部たちを見回している。先ほどまでの気怠げな様子は消えていた。
誰も口を開かない。
ネッロはそれ以上何も言わなかった。ただ睨んでいるだけだった。それだけで十分だった。
やっと会議室に静寂が戻り、サルヴァトーレは小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
そして立ち上がる。
「まだ焦る時ではありません」
穏やかな声だった。だが会議室全体によく通った。
「旧坑道の調査も進んでいます」
幹部たちの視線が集まる。
「薬の製法についても、少しずつ手掛かりが集まり始めている」
机の上の資料へ目を落とす。
「教団が何を隠しているのか、その輪郭は見え始めています」
誰も反論しない。サルヴァトーレは続けた。
「今は機を待つべきです」
静かな断言だった。
「焦って動けば、手に入るはずのものも取りこぼしてしまう」
長い沈黙。
やがて幹部の一人が椅子を引いた。
「……分かった」
納得したわけではない。だが従うしかない。一人、また一人と立ち上がる。不満げな表情を隠しきれないまま、幹部たちは会議室を後にした。
ロレンツォも最後に席を立った。扉へ向かう前に、サルヴァトーレを一瞥する。
「機を待つ。それが手遅れにならねばよいが」
低い声だけを残して、老幹部は会議室を出ていった。
重い扉が閉まる。
残されたのはサルヴァトーレとネッロだけだった。しばらく沈黙が続いたが、先に口を開いたのはネッロだった。
「俺はあいつらに少し賛成だけどな」
サルヴァトーレが顔を上げる。
「どの部分です?」
「もっと攻めるべきってとこ」
ネッロは椅子に深く腰掛けた。腕を組み、天井を見上げる。
「教団のやり方、最近おかしいだろ」
昨日の港で、教団はついに人目も憚らず銃を抜いた。
「前はもっと隠れてやってた」
ネッロは眉を寄せた。
「でも今は違う」
勢いよく机に手をつく。
「町中で銃まで撃ってきやがる」
サルヴァトーレは黙って聞いている。
「守ってばっかじゃ削られる一方だ」
ネッロは真っ直ぐサルヴァトーレを見た。
「そろそろ反撃するべきじゃねえのか」
数秒間の沈黙ののち、サルヴァトーレは静かに口を開いた。
「お前にしては短絡的な意見だな」
「は?」
「感情的になっている」
その言葉に空気が少しだけ冷える。
「最近、まともに寝ていないだろう」
「関係ねえよ」
「ある」
取り付く島もない様子に、ネッロは舌打ちした。サルヴァトーレは構わず続ける。
「しばらく休め」
今度ははっきりと空気が変わった。ネッロがゆっくり顔を上げる。
「……本気か?」
「本気だ」
「今この状況で?」
「だからこそだろう」
ネッロは鼻で笑った。だがその目は笑っていない。
「俺を休ませてる間に澪やお前に何かあったらどうする」
サルヴァトーレの表情がわずかに硬くなる。
「そのための組織だ」
「組織?」
ネッロが立ち上がる。椅子が大きな音を立てた。
「その組織が後手に回り続けてるから言ってんだろ」
怒気が滲む。昨日までなら笑って流していた程度の話だ。
だが今は違う。家族のこと。旧坑道の資料。そして澪の誘拐未遂。積み重なったものが胸の奥で燻り続けていた。
「調査だ証拠だって待ってる間にも、あいつらは動いてる」
サルヴァトーレは静かに見返す。
「だからといって無計画に突っ込むつもりか?」
「少なくとも待ってるだけよりマシだ」
「違うな」
ぴしゃりと言い切った。
「それは自滅だ」
長い沈黙。
二人はしばらく睨み合った。やがてネッロは小さく舌打ちする。
「……そうかよ」
吐き捨てるように言った。
「なら、いつまでも待ってろ!!」
そのまま踵を返すと、ネッロは乱暴に扉を閉めて出ていった。
サルヴァトーレは呼び止めない代わりに、小さく息をついた。
*
夕暮れが夜へ変わる頃。
澪は中庭の石造りのベンチに腰掛けながら、何度も本館の方を振り返っていた。
ここ数日、ネッロの様子がおかしい。
眠れていないようだった。食欲もない。どこかずっと苛立っている。思い返せば、らしくないことばかりだ。
先日、買い出しの帰りに東地区の住宅町を歩いていた時のことだ。
通りの向こうから顔見知りらしい島民が手を振って近づいてきた。普段のネッロなら笑いながら肩を組みに行くような相手だった。だがその時のネッロは違った。
一瞬で澪の前へ出たネッロ、明らかに庇うような位置だった。そして、相手がただの島民だと分かってからも、しばらく警戒を解かなかった。
(あの人懐っこいネッロが、あんな顔をするなんて……)
やがて足音が聞こえた。
振り返るとネッロだった。
「よう」
いつものように笑う。しかし、やはり目の下には濃いクマができていた。
「ネッロ」
澪は立ち上がる。
「少し話せる?」
ネッロは一瞬だけ目を逸らした。そして観念したように肩をすくめる。
「説教されてばっかだな、最近」
二人は隣り合って腰を下ろした。
夜風が吹いて、中庭のレモンの葉がさらさらと揺れた。二人ともしばらくその様子を眺めていたが、先に口を開いたのは澪だった。
「最近どうしたの?」
ネッロは答えない。
「ずっと様子がおかしい」
「……」
「眠れてないでしょ」
「まあな」
「食欲もない」
「そうかもな」
「鉱山から帰ってきてからずっと」
そこでネッロの表情が曇った。視線が石畳へ落ちる。
「なあ……このままでいいと思うか?」
澪は黙って聞く。
「教団はどんどん強引になってる」
ネッロは拳を握る。
「このままじゃ押し切られる」
声が少しずつ固くなる。
「調査だって続けられなくなる」
少しの沈黙。
「それどころか」
そう言って、ネッロは硬い表情のまま顔を上げた。
「お前だって連れていかれるかもしれねぇ」
澪の胸がざわつく。
その目は怒っているようでいて、実際は違った。怯えていた。必死に何かから逃れようとしていた。
「大丈夫だよ」
澪は慎重に言う。
「焦らなくても——」
「焦るだろ」
食い気味だった。
「だって分かったんだぞ」
ネッロが立ち上がる。
「もしかしたら」
声が震えている。
「もしかしたらあいつらのせいだったかもしれねぇ」
拳が強く握られる。
「俺の家族が死んだのも」
澪は息を呑んだ。
「トトの家族だってそうだ」
ネッロは吐き出すように続ける。
「みんなそうだ」
「ネッロ……」
「教団さえいなきゃ」
その声は怒りではなかった。長年押し込めていた傷口が開く音だった。
「あいつらさえいなきゃ、チェネレだってこんなことしなくて済んだ」
呼吸が荒くなる。
「だから潰さなきゃいけねぇんだ、早く」
一歩前へ出た。もう自分を止められなくなっているようだった。
「ネッロ!」
澪も慌てて立ち上がる。
「落ち着いて!」
「落ち着いてられるかよ!」
初めてだった——ネッロが澪に声を荒げたのは。
澪が思わず息を呑む。ネッロ自身も一瞬だけ驚いたような顔をした。だが止まらない。
「ちゃんと作戦を——」
「そんな時間ねぇだろ!」
「ネッロ一人じゃ無理だよ!」
その言葉を聞いた瞬間、ネッロの顔が歪んだ。それは怒りとも悲しみともつかない表情だ。
「……俺じゃ守れないって言うのかよ」
「違う!」
「じゃあ何なんだよ!」
中庭に声が響く。
「トトもお前も分かってねぇ!」
胸を押さえる。まるで呼吸ができないみたいに。
「大切なものを」
掠れた声。
「自分の不甲斐なさで失うかもしれない怖さが、危険が」
瞳が揺れた。そして、絞り出すように言った。
「もう耐えられないんだよ……!」
澪は言葉を失った。
今目の前にいるのは、チェネレの狂犬でも。陽気な兄貴分でもない——家族を失った少年だった。
何の言葉も浮かばないまま、二人の間に沈黙が流れた。やがてネッロは視線を逸らした。
「……わかった」
小さく呟く。次の瞬間には決意したように踵を返していた。
「もういい」
背中越しの声。
「俺一人でやる」
「ネッロ!」
呼び止める。だが止まらない。ネッロは黄昏の中、宵闇の迫る方に消えていった。
澪はしばらくその場から動けなかった。
*
「サルヴァトーレさん!」
澪は執務室の扉を勢いよく開けた。
机に向かっていたサルヴァトーレが顔を上げた。ランプの柔らかな灯りが書類の山を照らしている。
「どうしました」
落ち着いた声だった。澪にはその冷静さがもどかしかった。
「ネッロが!」
息を切らしながら駆け寄る。
「一人で行っちゃったんです!」
サルヴァトーレの表情は変わらない。
「そうですか」
それだけだった。澪は思わず机に手をつく。
「そうですかじゃなくて!」
声が少し裏返る。
「止めないと!」
サルヴァトーレは静かにペンを置いた。
「場所に心当たりは」
「多分……」
澪は必死に考える。
今日の言葉が頭をよぎる。教団。旧坑道。神の炉——
「この前見つけた鉱山の基地です!」
答えた瞬間、サルヴァトーレの眉がわずかに動いた。
「なるほど」
短く呟くと、椅子の背にもたれた。
「自ら死にに行くとは、馬鹿な奴だ」
その言葉に澪は目を見開いた。
怒っているのか。呆れているのか。ただほんの少し、疲れているように聞こえた。
「サルヴァトーレさん、助けてください!」
澪は身を乗り出した。だがサルヴァトーレは動かない。
「……私が動けば、チェネレが正式に教団に対して奇襲をかけたことになります」
静かな声だった。
「今ここで全面衝突の口実を与えるわけにはいかない」
「でも、私一人じゃどうしたらいいかわからない……!」
サルヴァトーレは答えずに、窓の外へ視線を向けた。もう夜だった。窓の向こうには町の灯が小さく瞬いている。
時計の針の音だけが聞こえる。長い沈黙だった。
サルヴァトーレは澪の左手についているシグネットリングに目をやった。
——火山を逆さまにしたチェネレのマーク。
その灰色の瞳に、ほんのわずか思案の色がよぎる。
やがて、サルヴァトーレはぽつりと言った。
「そういえば」
澪は顔を上げる。
「カジノの作戦で使った爆薬の残りが倉庫にありました」
「え?」
唐突な話題だった。
「もう古いものです」
サルヴァトーレは机の引き出しから鍵を取り出す。
「使い道もありません」
鍵を机の上に置く。小さな金属音が響いた。
「好きに処分して構いませんよ」
澪は数秒理解できなかった。しかし、次の瞬間、はっとする。
「……ありがとうございます!」
澪は思わず頭を下げる。
「それと」
引き出しから別の鍵を取り出した。
「運転手が必要でしょう」
「エンリコを連れて行きなさい」
サルヴァトーレはもう書類へ視線を戻していた。まるで今の会話など存在しなかったかのように。
澪の顔に、わずかに希望の光が差した。
「無茶はしないように」
静かな声だった。
「はい!」
澪は返事をすると、鍵を掴み、勢いよく執務室を飛び出した。




