24話:追憶
翌日——
西地区へ向かう古びたバイクの後ろで、澪は風に髪を揺らしていた。
朝の陽射しはすでに強く、火山の黒い岩肌をじりじりと照らしている。山道を抜けるたび、遠くに青い海が見えた。
潮の香りや草木の匂い。時折吹き抜ける硫黄混じりの風。そんな島の景色にも少しずつ慣れてきた気がする。
運転しているネッロは機嫌が良さそうだった。
「そういやさ」
背中越しに声が飛んでくる。
「最近も遅くまで資料見てるんだろ?」
「うん」
澪は頷いた。少し迷ってから口を開く。
「ねえ」
「ん?」
「サルヴァトーレさんって、カフェラテ飲まないの?」
ネッロは一瞬だけ固まった。
「は?」
「この間差し入れしたら、久しぶりに飲むって言ってたから」
ネッロが吹き出した。バイクが少し揺れる。
「ちょ、危ない!」
「ははははは!」
腹を抱えるように笑っている。
「な、何!?」
「いや、お前」
笑いを堪えながら肩を震わせる。
「トトにカフェラテ差し入れしたのかよ」
「そんなに変?」
「変だろ! 俺だって見たことねぇぞ」
「そうなの?」
「大体あいつ、エスプレッソかワインか水だろ」
澪は少し首を傾げた。
「やっぱり甘いもの嫌いなのかな」
「いや」
ネッロは少し考える。
「嫌いじゃねぇと思う」
意味ありげに笑った。
「へぇ……でも飲んだんだな」
「うん」
「ふーん」
何だか妙な反応だった。
「何で笑うの?」
「別に」
ネッロはしばらく黙っていたが、不意にぽつりと言った。
「……そういうの、あいつには珍しいんだよ」
ネッロの声が少しだけ落ち着いた。
「俺さ、十歳でチェネレに拾われてから、ずっとあいつの護衛として育てられたんだ」
バイクはゆるやかな坂道を登っていく。遠くで海鳥が鳴いていた。
「トトは、本気で、この島を守るつもりだ」
澪は少し驚いた。ネッロが真面目な話をするのは珍しい。
「わかる気がする……」
「だろ?」
風に紛れそうな声だった。そして、ネッロは振り返らないまま言った。
「あいつ、お前のこと気に入ってるよ」
「え?」
思わず聞き返す。
「そうかなぁ?」
「俺には分かる」
即答だった。
「長い付き合いだからな」
その言葉に澪は胸の奥が少しだけざわついた。潮風のせいだと思いたかった。
向かったのは先日訪れた西地区よりもずっと山に近い場所だった。
東地区の賑やかな市場や港町とは全く違う。道路はひび割れ、人影も少ない。どこか時代に取り残されたような静けさがあった。
時折、火山から吹き下ろす熱を孕んだ乾いた風が、岩だらけの地面から、まばらに生えた草を揺らしている。
「ちょっと寄りたい場所がある」
ネッロが言った。
やがてバイクは小高い丘の上で止まった。風が強い場所だった。白い石の墓標が並んでいる。小さな墓地だった。
ネッロは何も言わず、近くに咲いていた野花を数本摘む。
黄色い花や、白い花。名前も知らない素朴な花だった。それを握りしめて歩いていく。
澪も後を追った。
墓前に花が供えられると、ネッロは静かに目を閉じた。その横顔には先ほどまでの明るさはない。
「……誰のお墓?」
澪は小さく尋ねた。
「俺の家族」
短い返事に呼応するように、風が吹き、花が揺れた。墓石にはいくつもの名前が刻まれていた。
父、母と思われる名前。
そして、思わず目が止まる。
『Serena Valentino』
——享年二歳だった。
さらにその上。ひとつだけ没年のない名前があった。
『Gabriele Valentino 1974 ——』
生まれた年だけが刻まれていて、その後ろは空白だった。
澪は目を瞬いた。
「ガブリエーレ……?」
ネッロが少しだけ苦笑した。
「ああ」
「もしかしてネッロ?」
しばらく沈黙。やがて視線を逸らしたまま答える。
「ガブって呼ばれてた」
どこか乾いた声だった。
「でも、その名前は捨てた」
風が草木を揺らしている。それ以上は聞けなかった。
*
墓地を後にした二人は、さらに山道を進んだ。
やがて古い礼拝堂が見えてくる。黒い火山岩で造られた建物だった。屋根には風雨で色褪せた火口を模した紋章。さらに、小さな鐘楼が載っている。
中に入ると、年老いた神官が一人で祭壇を掃除していた。香草を練り込んだ線香の匂いが漂っている。
ネッロの雰囲気が変わった。背筋を伸ばし、穏やかな笑みを浮かべる。まるで別人だった。
「神火よ、悪きを焼き払い、善に恵みを与えたまえ」
自然な仕草で祈りを捧げる。祭壇に置かれた山型の線香から立ち上る煙を手で仰ぎ、自分の胸元へ導く。その動作は慣れたものだった。
神官も警戒を解く。
澪が感心して見ていると、ネッロがさりげなく目配せした。
(やれってこと?)
澪も慌てて真似をすると、神官は満足そうに頷いた。
「最近は東地区も変わりました」
老人は寂しそうに言った。
「教団よりチェネレに肩入れする者が増えております」
「そうらしいですね」
澪は相槌を打つ。
「古くから続く信仰が失われるのは悲しいことです」
「ほんとになぁ」
ネッロが適当に話を合わせる。澪は内心ひやひやしていた。だが神官は気付いていない。
そこで澪は思い切って話を向けた。
「そういえば」
神官が振り返る。
「少し怖い噂を聞いたんです」
「ほう?」
「昔、魔女が“神の炉”とかいう恐ろしいものを作っていたとか……」
澪は不安そうな表情を作った。
「人が触れてはいけないもののような気がして」
神官の顔色が変わる。
「神の炉……」
低い声だった。
「ご存知なんですか?」
「直接見たことはありません」
老人は首を振る。
「ですが、聞いたことなら」
澪とネッロは顔を見合わせた。
「近くの廃坑道の入口脇に、魔女の研究所跡があるそうです」
空気が張り詰める。
「研究跡……?」
「ええ」
神官は眉をひそめた。
「忌まわしい場所です」
線香の煙がゆっくり揺れる。
「誰も近付きません」
「ですが」
そこで老人は声を潜めた。
「教団は今も固く守っているとか」
澪の鼓動が速くなる。
(神の炉も魔女の研究も、教団が守っているということは本当に存在するんだ)
礼拝堂の外へ出ると、眩しい陽光が降り注いだ。
「さっそく、行ってみようか」
澪は拳を握ったが、ネッロはいつになく、渋い顔をした。
「……まあ、そうなるよな」
「どうしたの?」
澪はネッロを覗き込む。
「……旧坑道か」
「……?」
そのまま黙って歩き始めた。
視線の先にはフィアンマ山がそびえ立つ。その麓には無数の坑道が口を開けていた。
そしてどこかに隠された魔女の研究跡。祖母の手紙に書いてあったキーワード。
散らばっていた断片が少しずつ繋がり始めている気がした。




