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ロッサ・ディ・マーレ 〜火山島に燻る魔女の罪〜  作者: 山城すな
第七章

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23話:傷痕

 重苦しい沈黙が部屋を支配していた。


 高い天井を支えている黒い火山岩の壁。小さい窓から差し込む光さえ冷たく感じる。

 その中央で、マヒトは床に額がつくほど深く頭を下げていた。


「また失敗したそうだな」


 静かな声だった。それは怒鳴りもしない。責めもしない。だが、その一言だけで背筋が凍る。


 港での襲撃。

 南の小島。

 そして昨夜のカジノ。

 ——どれも神坂澪の確保には至らなかった。


「……申し訳ありません」


「謝罪はいらん」


 即座に返された。


 アレッサンドロは椅子に腰掛けたまま頬杖をつく。死人のような瞳だった。何十年も変わらぬ姿で玉座に座り続けている男の目だ。


「マヒト」


 名を呼ばれる。もう何度も聞いてきた声だった。


「お前を拾ったのは誰だ」


「……神火公様です」


「飢えていたお前に食事を与えたのは」


「神火公様です」


「名も家族も失ったお前を生かしたのは」


「神火公様です」


 祈りのような問答。けれど祈りというにはあまりにも恐怖の色が濃い。アレッサンドロは満足そうに頷く。


「そうだ」


 穏やかな声。


「私はお前を救った」


 黒い玄武岩を磨いて作られた冷たい床に一瞬の静寂が落ちた。


「その恩を返してくれるのだろう? ならば——」


 マヒトの肩がわずかに震えた。


「結果を出せ」


 アレッサンドロが手を上げた。奥の扉が開き、特務神官たちが現れた。その手には赤く灼けた鉄が握られていた。


 マヒトの瞳が揺れた。だが抵抗はしない。それを許される立場ではなかった。


 神官たちが服を剥ぎ取り、肩を押さえつける。

 灼熱が近づく。


 ジュッ————


 肉の焼ける音。焦げた臭いが鼻をつく。

 視界が真っ白に弾けた。声にならない悲鳴が喉の奥で潰れる。


『マヒトくんだよね?』


 ふいに声がした。

 違う——ここにはいない。


『何があったの?』


 違う——命令だ。

 連れて行かなければならない。


『なんでこんなことするの?』

 違う——あの女は敵だ。

 そうだ。敵でなければならない。


 焼印が離れたが痛みは消えない。肩の奥で灼熱が脈打ち続け、意識が遠のきそうになる。その時、頭の中に蘇った。


『たすけてくれて、ありがとう』

 幼い少女の声。


 ずっと昔、忘れたはずの記憶。

 あの時、まだ何も失っていなかった頃。


 誰かに命じられたわけではなかった。

 救えとも裁けとも言われたわけではなかった。


 ただ、泣きそうな子がそこにいた。

 気づけば手を伸ばしていた。


 それだけだった。

 それだけのことが、恐ろしいほど遠かった。


 マヒトは奥歯を噛み締めた。


(違う。やめてくれ)


(もう俺は、あの時の自分ではない)


 その言葉には見合わない。


(ただ、俺は——)


 別の記憶が痛みに引きずられるように蘇る。


 ぐしゃぐしゃになった車の金属片。


 動かない両親だったもの。


 野次馬。


 知らない町、知らない顔、知らない言葉。


 苦しい。怖い。憎い。


 差し伸べられた手。


 温かい、はずだった。


 背後に揺れていた赤い神火の旗。


 唇が切れた。口内に血の味が広がり、現実に引き戻された。


「神坂澪を連れてこい」


 アレッサンドロの声が落ちる。それは、逃れられない鎖のようだった。

 マヒトは血を飲み込んだ。同時に、肩の傷が脈打つ。


「……はい」


 返事だけは変わらない。

 ——昔からずっと。


 *


「澪ー!」


 昼過ぎのことだった。廊下の向こうからアンナの声が飛んできた。


「暇なら掃除手伝ってー!」


「暇じゃないです!」


 反射的に返したものの「じゃあ暇ね!」と解釈されてしまった。理不尽だった。

 気付けば澪は使われていない一室の前に立たされていた。


「ここ?」


「そうそう」


 アンナは雑に箒を押し付ける。


「最近空いた部屋」


 嫌な予感がした。


 扉を開くと、中は思ったより整頓されている。だが人の気配が消えて間も無い空気だった。

 年季の入った机。寝具が剥がされたベッド。何も入っていない本棚。そして埃を被った窓辺。空っぽの部屋には、誰かが長く使っていた痕跡だけが残っている。


 澪は小さく息を吐いて、掃除を始める。棚を拭き、机を片付け、引き出しを整理する。


 その時、奥に挟まっていた紙束が落ちた。

 拾い上げると書類だった。表題を見た瞬間、眉をひそめる。さらに、そこにある名前が目に入り、澪は動きを止めた。


 あの日、粛清された男——裏切り者として処分された男。『トニオ』の書いた下書きだった。


 ——陳情書。チェネレ幹部会宛。

 内容を読み進めた澪は、次第に呼吸が浅くなっていった。


『魔女と呼ばれる女を匿うことについて』

『チェネレ全体を危険に晒す恐れがある』

『教団との全面衝突は避けるべき』


 淡々とした文章は、理性的だった。最後に書かれていた言葉で、澪は息を飲んだ。


『あの娘は教団へ引き渡すべきである』


 一行あいて、さらにその下。


『あるいは殺すべきだ』


 澪は無意識に紙を握りしめた。胸がざわつく。だが本当に目を奪われたのは、そのさらに下だった。


 おそらく自分用のメモに走り書きしたものだろう。ほとんど読めないほどの汚い文字が、上から線で乱暴に何度も潰されていた。注意深く目を凝らすと、かろうじて読み取れた。


『サルヴァトーレはマルチェロを演じている。だが——』


 その下に先が続く。


『その本質はルチアーノに近い』


 澪は息を飲んだ。


 ルチアーノ——チェネレを崩壊寸前まで追い込んだ男。魔女の娘に心を奪われ、組織を危険へ晒した男。

 トニオはその再現を恐れていたのだ。


 部屋の静寂が急に重くなる。


 澪は、昨夜のことを思い出した。


 カフェラテを差し出されたサルヴァトーレの少し困ったような微笑み。いつもより少しだけ優しい声。穏やかな眼差し。思い返すだけで胸の奥が少し温かくなる。

 ——だからこそ、苦しくなった。


 窓の外から海風が吹き込む。紙がかすかに揺れた。


 澪は黙ったまま、その文字を見つめ続けていた。


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