23話:傷痕
重苦しい沈黙が部屋を支配していた。
高い天井を支えている黒い火山岩の壁。小さい窓から差し込む光さえ冷たく感じる。
その中央で、マヒトは床に額がつくほど深く頭を下げていた。
「また失敗したそうだな」
静かな声だった。それは怒鳴りもしない。責めもしない。だが、その一言だけで背筋が凍る。
港での襲撃。
南の小島。
そして昨夜のカジノ。
——どれも神坂澪の確保には至らなかった。
「……申し訳ありません」
「謝罪はいらん」
即座に返された。
アレッサンドロは椅子に腰掛けたまま頬杖をつく。死人のような瞳だった。何十年も変わらぬ姿で玉座に座り続けている男の目だ。
「マヒト」
名を呼ばれる。もう何度も聞いてきた声だった。
「お前を拾ったのは誰だ」
「……神火公様です」
「飢えていたお前に食事を与えたのは」
「神火公様です」
「名も家族も失ったお前を生かしたのは」
「神火公様です」
祈りのような問答。けれど祈りというにはあまりにも恐怖の色が濃い。アレッサンドロは満足そうに頷く。
「そうだ」
穏やかな声。
「私はお前を救った」
黒い玄武岩を磨いて作られた冷たい床に一瞬の静寂が落ちた。
「その恩を返してくれるのだろう? ならば——」
マヒトの肩がわずかに震えた。
「結果を出せ」
アレッサンドロが手を上げた。奥の扉が開き、特務神官たちが現れた。その手には赤く灼けた鉄が握られていた。
マヒトの瞳が揺れた。だが抵抗はしない。それを許される立場ではなかった。
神官たちが服を剥ぎ取り、肩を押さえつける。
灼熱が近づく。
ジュッ————
肉の焼ける音。焦げた臭いが鼻をつく。
視界が真っ白に弾けた。声にならない悲鳴が喉の奥で潰れる。
『マヒトくんだよね?』
ふいに声がした。
違う——ここにはいない。
『何があったの?』
違う——命令だ。
連れて行かなければならない。
『なんでこんなことするの?』
違う——あの女は敵だ。
そうだ。敵でなければならない。
焼印が離れたが痛みは消えない。肩の奥で灼熱が脈打ち続け、意識が遠のきそうになる。その時、頭の中に蘇った。
『たすけてくれて、ありがとう』
幼い少女の声。
ずっと昔、忘れたはずの記憶。
あの時、まだ何も失っていなかった頃。
誰かに命じられたわけではなかった。
救えとも裁けとも言われたわけではなかった。
ただ、泣きそうな子がそこにいた。
気づけば手を伸ばしていた。
それだけだった。
それだけのことが、恐ろしいほど遠かった。
マヒトは奥歯を噛み締めた。
(違う。やめてくれ)
(もう俺は、あの時の自分ではない)
その言葉には見合わない。
(ただ、俺は——)
別の記憶が痛みに引きずられるように蘇る。
ぐしゃぐしゃになった車の金属片。
動かない両親だったもの。
野次馬。
知らない町、知らない顔、知らない言葉。
苦しい。怖い。憎い。
差し伸べられた手。
温かい、はずだった。
背後に揺れていた赤い神火の旗。
唇が切れた。口内に血の味が広がり、現実に引き戻された。
「神坂澪を連れてこい」
アレッサンドロの声が落ちる。それは、逃れられない鎖のようだった。
マヒトは血を飲み込んだ。同時に、肩の傷が脈打つ。
「……はい」
返事だけは変わらない。
——昔からずっと。
*
「澪ー!」
昼過ぎのことだった。廊下の向こうからアンナの声が飛んできた。
「暇なら掃除手伝ってー!」
「暇じゃないです!」
反射的に返したものの「じゃあ暇ね!」と解釈されてしまった。理不尽だった。
気付けば澪は使われていない一室の前に立たされていた。
「ここ?」
「そうそう」
アンナは雑に箒を押し付ける。
「最近空いた部屋」
嫌な予感がした。
扉を開くと、中は思ったより整頓されている。だが人の気配が消えて間も無い空気だった。
年季の入った机。寝具が剥がされたベッド。何も入っていない本棚。そして埃を被った窓辺。空っぽの部屋には、誰かが長く使っていた痕跡だけが残っている。
澪は小さく息を吐いて、掃除を始める。棚を拭き、机を片付け、引き出しを整理する。
その時、奥に挟まっていた紙束が落ちた。
拾い上げると書類だった。表題を見た瞬間、眉をひそめる。さらに、そこにある名前が目に入り、澪は動きを止めた。
あの日、粛清された男——裏切り者として処分された男。『トニオ』の書いた下書きだった。
——陳情書。チェネレ幹部会宛。
内容を読み進めた澪は、次第に呼吸が浅くなっていった。
『魔女と呼ばれる女を匿うことについて』
『チェネレ全体を危険に晒す恐れがある』
『教団との全面衝突は避けるべき』
淡々とした文章は、理性的だった。最後に書かれていた言葉で、澪は息を飲んだ。
『あの娘は教団へ引き渡すべきである』
一行あいて、さらにその下。
『あるいは殺すべきだ』
澪は無意識に紙を握りしめた。胸がざわつく。だが本当に目を奪われたのは、そのさらに下だった。
おそらく自分用のメモに走り書きしたものだろう。ほとんど読めないほどの汚い文字が、上から線で乱暴に何度も潰されていた。注意深く目を凝らすと、かろうじて読み取れた。
『サルヴァトーレはマルチェロを演じている。だが——』
その下に先が続く。
『その本質はルチアーノに近い』
澪は息を飲んだ。
ルチアーノ——チェネレを崩壊寸前まで追い込んだ男。魔女の娘に心を奪われ、組織を危険へ晒した男。
トニオはその再現を恐れていたのだ。
部屋の静寂が急に重くなる。
澪は、昨夜のことを思い出した。
カフェラテを差し出されたサルヴァトーレの少し困ったような微笑み。いつもより少しだけ優しい声。穏やかな眼差し。思い返すだけで胸の奥が少し温かくなる。
——だからこそ、苦しくなった。
窓の外から海風が吹き込む。紙がかすかに揺れた。
澪は黙ったまま、その文字を見つめ続けていた。




